日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

寒い1日に考える、家のあり方

2008-02-09 22:50:00 | ライフスタイル
名古屋では3年ぶりに10cmを越す積雪を記録し、寒い1日だった。
こんな日は、近くの温泉にでも行って、温まりたいものなのだが・・・。
家のお風呂で、温泉シリーズの入浴剤で我慢するという方も、少なくないだろう。
私もそんな一人だ。

この季節気になることが、ヒートショックだ。
特に中高齢者には、要注意の家の作り方だといわれているのだが、「サーモ・バリアフリー」という事については、余り重要視されていないように感じる。
夏場クーラー無し生活ができる私でも、寒い時にはそれなりの寒さ対策が必要で、パジャマの上には部屋着+はんてん、オーバーパンツ、靴下2枚履きで対応していても、ヒートショック対策にはなってはいない。
確かに、脱衣所などに小型ヒーターなどを置いている家庭も多いのだろうが・・・まだまだ、その意識が高いとは思えない。

もう一つ、気になるのが「肌の乾燥」という、スキンケア対策だ。
肌が乾燥しやすいこの季節、お風呂上りにボディローションや乳液を使いたいのに、脱衣所ではできない。
洗面所には、簡単なスキンケア用品が置ける棚などが設置されている場合は多いのに、ゆっくりボディスキンケアができる場所が無い様に思えるのだ。

インテリアや部屋のレイアウトなどを想像するのが楽しいので、マンションや戸建て住宅のチラシを見るのが好きなのだが、そのチラシを見ていて思うのは、バスルームなどを中心とした水周りを「サーモバリアフリーのリラクゼーションルーム」という発想が欲しい、という点だ。
脱衣所が「サーモバリアフリー」で、ボディケアをするための椅子やベンチがあれば、夏は湯上りに身体のほてりを静めることができるし、今のような冬場であればボディケアスペースとなる。
介護を必要としている家族のケアにも、役立つのでは?と勝手に思っている。
もちろん、脱衣所に小さな椅子を置くだけでも、大分違うのではないだろうか?

浴槽にしても、数年前から「半身浴」をする人が多くなってきたのに、「半身浴ができる浴槽」というのは、見たことが無い。
大手メーカーさんでは作っているのかもしれないのだが、近所にあるショールームなどでは見た記憶が無い。
「介護しやすいバスルーム」というのも、見たことが無い。

これからの家のあり方、というのは見た目の豪華さなどではなく、「住みやすさ」はもちろんの事、介護し易くく(=介護され易く)、光熱費やメンテナンス費がローコストという点のように思えるのだが。


 


食品会社の再出発2題-不二家と赤福-

2008-02-08 18:03:20 | CMウォッチ
今週、テレビを見ながら「オヤ!」と思うCMがあった。
それが、不二家の「ミルキー」(残念ながら、「ミルキー」のCMはHPで公開されていないようです)と「カントリーマアム」のCMだ。
「ミルキー」は、不二家にとって「看板商品」であり、企業理念を象徴する商品でもある。
「ミルキーは、ママの味」というキャッチコピーが、不二家の企業理念でありその発展したカタチの商品が「カントリーマアム」だ。

「カントリーマアム」が発売された頃、「アメリカのグランマ(おばあちゃん)、マム(おかあさん)が作る、ホームメイドクッキー」というのがキャッチコピーだった。
そして、一連の偽装問題発覚から(ほぼ)1年経過し、不二家の看板商品である「ミルキー」と、その商品コンセプトを発展させた「カントリーマアム」のCMを再開させたのである。
その背景にあるのは、おそらく「禊が終わった」という判断と、新しい不二家をアピールするためだろう。
事実、ミルキーのCMは「ミルキーはママの味」といいながら、現代風になり「母子」というよりも「おやつの楽しさ」を積極的に打ち出し、「幼児における食育」というアプローチのほうが強い印象がある。

もう一つ、事業を再開したのが「赤福」だ。
昨年秋発覚した、売れ残り商品の使いまわしや、賞味期限の偽装などで営業停止をしていたのだが、今週水曜日から営業を再開した。
昨日も午後3時前には、本店・直営店3店舗とも完売したようだが、それよりビックリしたのが、再開初日に「赤福」をケース買いしている人が多かったことだ。
テレビニュースなどを見ながら「そんなに食べるの?」と、不思議に思っていたのだが、案の定、程なくネットオークションされていたようだ。
ケース買いをした人の多くは、ネットオークションで売りさばくのが目的だったのだろう。
だが、そんなモノまでネットオークションで儲けようという発想が、悲しい。
元々、お伊勢さんのお膝元で参拝客のご休憩喫茶として発展してきた「赤福」だ。
やはり「お伊勢さん」があるからこその「赤福」であるはずなのだ。
それを「話題性」だけで、朝早く(一番乗りの方は前日から並んでいたそうだ)から並ぶというのは、どこか違和感がある。

不二家が再開したときに「やっと、懐かしいケーキが食べられる」とインタビューに答えていた、親子(母子)の姿に見た「懐かしさの中にある親しみ」というモノが感じられなかったのだ。
もちろん、ネットオークションで売り飛ばす目的ではなく、「赤福」そのものに懐かしさと親しみを持って、営業再開を楽しみにしていた方のほうが多かった、と思いたい。

新省庁を作るより・・・-消費者保護省庁は必要か-

2008-02-07 13:00:19 | 徒然
先日来の「中国産農薬入り餃子」事件で、福田さんは新しく消費者保護省庁を作ることを考えているようだ。
この「消費者保護省庁」については、今回の「中国産農薬入り餃子事件」が起きる前から考えていたようなのだが、本当に必要なのだろうか?
なんとなく、新しい省庁を作って公務員の数を増やし、その下にぶら下がる「特殊法人」を一杯作って、行き場を失いつつある官僚の天下り先を作りたいだけなのでは?と、思ってしまうのは、私だけだろうか?

今回の「中国産農薬入り餃子」事件は、日中の協力で事件解明をされなくてはいけない事件である事には違いない。
だが、それとは別に最初の事件発覚後に分かったことは、生協もJTフーズも、保健所なども事件としての認識の低さによって、事件が大きく広がってしまったという事だ。
という事は、この事件に関わった生協もJTフーズ、保健所も「やるべき仕事をしていなかった」ということが、分かったということなのではないだろうか?
言い換えれば、それぞれの企業や団体、関係官庁がやるべき仕事をキチンと責任を持ってやっていれば、これだけの広がりを見せずにすんだ(=被害者の数を減らすコトができた)のではないだろうか?

昨日、日清食品はJT、加ト吉との冷凍食品での業務提携解消発表した。
この業務提携解消を発表した日清食品の社長は、「食品の安全に対する考えが、違う」と解消理由を話していた。
今回の「中国産農薬入り餃子事件」は、その問題の本質から考えれば、最初に発覚した10月の時点で「大問題」ではあるのだが、このことばが表すように、企業や団体、官庁が「自分のやるべき仕事」を考え、行動していれば、大問題となる前に解決する事は多い。

新しい省庁を作るのではなく、情報の公開や関係企業、団体、官庁の連携システムを見直すコトのほうが先なのではないだろうか?
福田さんの発想には、「生活者」がいない。
社会の空気を読み取る力、生活者の視点のもてない政治家のみなさんには、国政レベル~地方行政レベルにいたるまで、退場してもらいたいものだ。


見えないコトを考える-国と経済-

2008-02-06 14:09:01 | アラカルト
アメリカ大統領選挙の党予備選が、毎日のように日本でも報道されている。
特に、民主党のクリントンvsオバマの争いは「アメリカ初」となる大統領となる(可能性)があるため、アメリカ国内外でも注目を浴びている。
この「大統領予備選」というのは、あくまでも党の候補者選びのための選挙なのだが、本番さながらのような、熱気がある。
直接選挙ではない日本では、考えられない。

だが、直接選挙だからこれだけ盛り上がるのだろうか?という、トコロもある。
4年前、8年前の大統領選では予備選での盛り上がりよりも、本選のほうが注目されていたような記憶があるからだ。
8年前のブッシュvsゴアという選挙は、印象深い。
そんな時、たまたま見たNHKの「爆笑問題のニッポンの教養」で、なんとなく納得できるような気がした。

東京大学教授で憲法学者の長谷部恭男教授の「国は、見ることができない。だから、憲法が必要なのだ」ということばだ。
確かに地図上には、日本という国はあるのだが、その国にいる私たちは日本人ではあるのだが、何を持って日本というのか?という事は分からない。
なぜなら、日本という国は様々な価値観、思考を持った人たちの集合であり、それが保障されているからだ。
「人種の坩堝」であるアメリカなどは、「何を持ってアメリカなのか?」、「アメリカのアイデンティティ」と言われても、その価値観となるモノ・コトは一つではない。
むしろ、その多様性があるためにアメリカという国は巨大になり、産業・経済でもリードしつづけ、世界の警察とも成りえたようにも感じたのだ。
その「アメリカ」を実感できる一つが、アメリカ大統領選のような気がする。

もう一つ見えないモノがある。
それが「経済」だ。
株価という数字で、見ることはできるのだが「本当にそうなの?」というコトになると、誰も分からないのではないだろうか?
昨年秋から始まった、バイオエネルギーへの転用が考えられる穀物相場などの高騰などは、あくまでも「需要と供給のバランス」が崩れて穀物が値上がるという「思惑」で、動いているに過ぎない。
もう一つ顕著な例がある。
それが昨年盛んに言われた「景気の回復」だ。
確かに、大手企業の利益は過去最高だった。
だが、生活者にはその実感がなかった。
「経済は社会の血流」といわれても、その「血が流れている」コトが実感できない、と言うコトはある意味「経済」という世界に参加できていない、ということにもなるのではないだろうか。
それを阻むモノもまた、見ることができない「政治」のような気がするのだ。

「政策」というモノがありながら、その「政策」がカタチにならないために見ることができない。
政治家や経済人と呼ばれる人たちは、「カタチの見えないモノ・コト」を具体的に示すという、ある意味創造性が必要な人たちでもある。
今の日本にどれだけ創造性のある政治家や経済人がいるのだろう。
そんな事を、テレビを見ながら考えてしまった。


検索サイトも選びたい-Yahooをめぐる駆け引き-

2008-02-05 22:09:06 | Weblog
先週末、「MSがYahooを買収」というニュースがアメリカから飛び込んできた。
その直後、GoogleがYahooに興味を示すなどの動きがあり、にわかにYahooをめぐる攻防戦が勃発しそうな雰囲気になってきている。
経過についてはこちらを見ていただきたいのだが、本当にYahooがMSに買収されたり、Googleを一緒になったりすることは、生活者にとってメリットが高いのだろうか?

現在日本のYahooは、関係ないとしているようなのだが、Yahooを名乗っている限り影響なしとは考えにくい。
ただ、日本のYahooとアメリカでのYahooは、イロイロな部分で違いがあるとは思っている。

「Google」をもじって、インターネットで検索する事を「グーグる」をいうが、実際「Google」だけを利用して、検索をしているのか?といわれれば、おそらく違うのではないだろうか?
実際、調べ物をするとYahooとGoogleでは、出てくる内容が違う。
その両方を見比べながら、自分が必要としている情報を収集する、という使い方をしている人が殆どではないだろうか?
確かに、Googleの地図などは航空写真などの表示があり便利なのだが、だからといってGoogleしか使わないという人は少ないのではないだろうか?

もう一つ気になるのは、MSの動きだ。
マイクロソフト社といえば、WinなどのPCを動かすためのDOSを開発・設計し販売している会社という印象しかない。
エクセルやワード、メールソフトのエクスプローラーなどを作っているという程度(本当は、物凄いコトなのだが)の認識で、今回の買収で「より、インターネット環境を整えるための買収策なのか?」と、思われた人も多いのではないだろうか?
私などは、その一人なのだが、MSの本音もまた見えてこない。

MSそのものは、PCの分野では巨大なマーケットを抑えている。
今から10年余り前、盛んに言われていた「MAC vs Win」も今や過去の話となり、MACそのものが、Winを起動させる事ができるようになってきている。
他にも、LinuxなどWinに対抗するモノがあったが、一般的には圧倒的にWinが中心となっているのが現状だ。

ここで気になるのは、GoogleとYahooが一緒になった場合、生活者には選択の余地がなくなるということだ。
Winの現状などを見ればなんとなく感じている生活者も多いとは思うのだが、一つの企業が市場を制圧し、独占的になってしまうと、その企業の思惑で生活者が動くようになってしまう。
若干の不自由さを感じても、「仕方ない・・・」と諦めてしまうのだ。
改善されていかなくてはいけないモノ・コトを、企業が見失ってしまうことになる。
PCだけではなく、インターネットなどは「使う道具」であって、使われるモノではない。
「生活者の選択」は、その意味でも必要であり、それがあるから「発展」になっていくのだ。

遊びと勉強-学力と教養-

2008-02-03 12:05:35 | 徒然
毎日新聞のWEB家庭欄に消えた風の子:第1部・現状/1 仲間で遊べないと言う企画連載が始まった。

「子供たちの遊びが変わった」と言われて久しい。
顕著な一例が、「家の中で子供たちが集まり、黙ってそれぞれの携帯ゲーム機で遊んでいる」と言う姿だろう。
小学生などを狙った事件なども年々多くなってきた事も、子供たちの外遊びを減らしている要因なのかもしれないと思いつつ、時折考えてしまう事がある。
それが「安全」を考えすぎる余り、外に出ないことで「どこの子か知らない」ご近所さんが増えているのではないか?と言うことなのだ。

昭和の頃を懐かしむ気はないのだが、あの当時は子供の通学路に面した家々の人たちは、「どこの子」と言うコトを、知っていたように思うのだ。
だから、遅くまで遊んでいたり、遠くまで遊びに行って道が分からなくなったりすると「早く帰らなきゃダメだよ」だとか、「見かけない子だけど、どこの子?」と声をかけてくれる、おばさんやおじさん(多くは、小売店主さんなのだが)がいた。
その声を聞くと、変に安心した記憶がある。
もちろん、家に帰ってから怒られる覚悟もできるのだが・・・。

記事中にもあるのだが、子供は遊びを通して「社会」を知る。
そして年齢とともに、行動範囲が広くなり、広がっていく行動範囲の中から他人との関係性や自己を学び、社会に必要な教養を身につけていくのだ。
「人が傷つく」と言う感覚などは、学校の勉強では身につくことではない。

もう一つ感じる「外遊びの消滅」による弊害は、「感性・感覚」と言う点だ。
「モノ・コトを観て・感じる力」と言うものは、受験勉強で身につくものではない。
例えば、春の桜を散らす風は、嵐のような風ばかりではない。
ハラハラと花びらを散らす、やわらかな春風もまた春の風だ。
そのような感覚や感性と言うものは、一朝一夕で身につくものではなく、子供の頃から様々な場面を通して体験して身につくものなのだ。
このような感覚・感性があるからこそ、大学受験の古典の定番「枕草子」の情緒や風景が思い浮かび、清少納言の伝えたいモノ・コトを理解することができると思うのだ。
ことばの意味だけで、理解したと思うのは大きな間違いだろう。
その感覚・感性こそが、社会人になってから役に立つ「教養」でもあるのだ。

集団での「遊び」は、相手がいて成り立つ。
「相手を思い・気持ちを想像し、自分の思い通りにいかない」コトから、「どうしたら良いのだろう」と言う思考の発展へと繋がっていくのだと思う。
社会に必要な「教養」は、子供の頃の遊びの中から多く学び・身に付けていると思うのだ。
「社会が危ないから外で遊ばせない」のではなく、「安心な遊びサークル」と言う発想が大切なのだと思う。

投資先も考える時代-「ワクチン債」-

2008-02-02 21:23:51 | ビジネス
讀賣新聞のWEBサイトに発展途上国支援、大和証券グループが「ワクチン債」発売へと言う記事が掲載されている。

これまで、企業の途上国への支援と言うとボルビックが昨年夏に展開した「1L for 10Lキャンペーン」や、現在P&G・パンパースが展開している「ユニセフ・パンパースキャンペーン」(ダイレクトなネーミング・キャンペーンなのだが・・・)などが、身近なトコロだ。
昨年末には、FM番組で行われていたジョイセフの「レンボー・プロジェクト」があった。
文具メーカーなどの協賛・協力などもあり、相当数の文具が集まったようだ。
有名なところでは、ユニセフのグリーティング&ギフトの販売だろう。

このような、企業が行う「途上国への支援キャンペーン」は、私たち生活者にも参加しやすいモノが多い。
その分気軽に参加できるし、幅広い生活者層の支持を集めやすい。
もっと積極的にこのような社会支援に参加したい、と考えている人がいるのではないのだろうか?
寄付と言う方法もあるのだろうが、今の経済状況ではそれもままならない。
「寄付よりも、まず自分の生活のほうが大事」と言う、経済状況なのだ。
そのような「社会的経済」を考えている人たちにとって、今回の「ワクチン債」は興味があるのではないだろうか?
まして「サブプライムローンの問題」などで、金融不安があり株価が下落しつづけている。

確かに、現在の国債よりも低い利率とのコトだが、対象となるイギリスや南アフリカなどの7政府が協力して設立した団体だ。「有望な投資先を求める」と言う意味では、期待ができないかもしれないが、
南アフリカなどは、様々なダイアモンドを始めとした地下資源の豊かな国だと言う点から考えても、長期的にみれば安定的な投資先だともいえるのでないだろうか。

既に欧州などの企業年金基金などでは、クラスター爆弾などの大量破壊兵器を作っている企業を、投資先から外すなどの動きが既に出ている。
日本も、そろそろ「社会貢献ができる企業・国への投資」と言うコトを、考えても良い時代なのではないだろうか。