先日、京都大学に警視庁の公安部の職員が、京大の職員を装って侵入し大学ともめる、と言うことがあった。
そして今日、その公安部が京都大学内にある学生寮を捜索し、学内が騒然とするというコトが一部ニュースで報じられている。
毎日新聞:京大:学生寮「熊野寮」を捜索 警視庁公安部
このニュースを聞いた時、40年以上前に時代が戻ったのか?と一瞬錯覚を起こしそうになった。
おそらく、今の50代以上の方なら覚えていらっしゃると思うのだが、40年以上前学生運動が盛んな時代があった。
その学生運動の中から様々な「グループ」が誕生し、その中には「よど号ハイジャック事件」や「クアラルンプール事件」などを引き起こした「赤軍派」と呼ばれるグループもあった。
当時は小学生だった私にとって、「赤軍派」が起こした「浅間山荘事件」などは、強烈な印象とともに「時代の変化」を感じさせる象徴的な事件だった。
「赤軍派」が起こした事件なども、よくよく検証すると掲げられた彼らの理想や考えとは全く関係のない、「グループ内での嫉妬や嫉み、恋愛関係の痴話」などが背景にあったコトなどが、次々と明らかになったことも、当時の若者の心が離れていった大きな要因だったように思う。
何より、その当時の日本経済は大きな転機を迎えていて、「固定相場制から変動相場制への移行(今では考えられないかも知れないが、昭和40年代初めまで1ドル=360円だった)」、「オイルショック」、田中角栄氏の「日本列島改造(論)」と、大きく変化した時代。学生自身もより現実的な行動へと移っていった時代でもあった、と言う印象が残っている。
そこへ突然「中核派」だとか「警視庁公安部」などの言葉が登場したのだ。しかも、大学の構内での騒ぎ。
今現在、「中核派」と呼ばれるグループが、どのような活動をしているのかは知らない。しかし、捜索までの経過を見ていると、かつての様な「過激な中核派」という印象は全くない。むしろ、戦前の「言論統制」に近い印象がある。これが、警視庁公安部の勇み足だったとしても、今の政府がこの様な考えを持っているのでは?と、生活者に疑念を持たせるには十分な出来事だと思う。思うのだが、肝心の安倍さんは、全くそのようには感じていらっしゃらない様子。
そもそも大学というのは、自由闊達な場であって欲しいと思っている。様々な考えや意見が自由に発言できるからこそ、新しい何かが生まれ、育つ場所でもあるはずだ。教科書に書いてあることや教授が板書した内容をノートに書き写す(最近は、スマホで撮影する学生もいるらしいが)のでは、大学という場で学ぶ意味がない。
そう考えると、益々今回の騒動は戦前の「言論統制」を思わせる出来事だと思う。
それは、大学だけにとどまらず、いずれ社会全体に広がっていく。そしてそのような社会になると、ビジネスそのものがとても息苦しくなってくるし、新しい市場を創り出す元気もなくなってくる。安倍さんご自身は、その様なコトを理解しているのだろうか?