日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「恵方巻」の大量廃棄は、マーケティングの敗北かもしれない

2019-02-05 15:53:37 | ビジネス

節分に合わせて、スーパーやコンビニなどでは「恵方巻」が、販売されていた。
そして1夜明け、当然のように「大量廃棄」が問題となっていた。
朝日新聞:恵方巻が豚のエサに それでもコンビニは攻勢を変えず
会員記事ではあるが、ニュース動画を見ると「食べ物」とは思えず、やはり廃棄となった食品は「ゴミ」であるという印象を受ける。
最終的には、豚のエサや焼却処分となるようだが、そのために一部税金が投入されると聞くと、やりきれない気持ちになるのは私だけではないと思う。

このタイトルを見て気になるのは、「コンビニは攻勢を変えず」という見出しだ。
会員対象となっている記事の部分では、「本部から昨年よりも多く販売をするように」という趣旨の指示があった、とか「社員が6万円分の恵方巻を買った」という内容もあった。
「恵方巻」廃棄については、随分前から問題視され「(販売数量を減らし)廃棄する量を減らすように」という、国からの指示もされていたにもかかわらず、「昨年よりも多く販売(=受注)するように」という、コンビニ本部からの通達は、現状認識が甘いというよりも、マーケティングの敗北なのでは?という、気がしてくるのだ。

「恵方巻」に限らず、日本の企業の多くはいまだに「右肩上がり神話」のようなものを信じているような気がしている。
しかし現実は、人口が減り始め、経済そのものも「縮小傾向」に向かっている。
「右肩上がり」どころか「右肩下がり」となっているのが、日本の市場なのだ。
にもかかわらず「右肩上がり」を目指すのは何故なのだろうか?
おそらく「経済は右肩上がりでなくてはならない」という思い込みがあり、人口減少による「経済(=市場の縮小)」の可能性を、見ていないからではないだろうか?
重要なことは「売り上げ総数の右肩上がり」という、高度経済成長の物差しで利益を考えることではなく、「廃棄される量を含めた利益採算」をどうみるのか?という点ではないだろうか?
「縮小傾向にある時代」には、その時代に合った物差しの見方で、販売というものを考えなくては、社会から大きな批判を受けてしまう、という認識(あるいは意識)を持つ必要があると思っている。

その「物差し」となるモノは、やはりマーケティングなのでは?と、思うのだ。
人口が減少傾向にあるにもかかわらず、高度成長期のような「右肩上がり」の発想では、市場と乖離した考えを持ってしまうはずだ。
特に、コンビニのような「生活者と直接関係をする小売」であれば、その時代的・社会的変化には敏感でなくてはならない。
それが、新しい市場を創ることにもつながるからだ。
そのような時代的・社会的変化に対応してヒットした商品やサービスは、少なくない。
例えば「持ち帰りのドリップコーヒー」などは、マーケティングの成功事例といえるだろう。

にもかかわらず「恵方巻」や「クリスマスケーキ」、「土用の丑の日」のようなイベント食に関しては「右肩上がり思考」に陥ってしまうのは、「イベント食」という特殊な見方をしているからではないだろうか?
「イベント食」という、特別感がマーケットを見誤らせているとすれば、やはりマーケティングにおける客観性と冷静な市場分析を怠ったことで起きた「マーケティングの敗北」という気がしてならないのだ。



「不機嫌」アピールは、かまってアピールなのでは?

2019-02-04 20:55:04 | アラカルト

日経新聞のCOMEMOに、「不機嫌」という言葉があった。
COMEMO:不機嫌なヒトと5つの「不」#平日の備忘録
なんとなくだが、ここ10年余りで「不機嫌な人」が、激増しているような気がしている。
むしろ「不機嫌をアピール」しているのでは?と、感じることの方が多い。
「不機嫌」の内容も、「自分の考えが正しい」という感覚のものから、単に「自分の思い通りにいかない」ことに対するものまで、実に様々な理由があるように感じている。
しかも、老若男女問わずこの傾向は強くなりつつあるのでは?と、感じることが間々ある。

「不機嫌アピール」をしやすい場所があるとすれば、それは小売りの売り場や病院の受付、あるいはコールセンターなどだろう。
いわゆる「感情労働」と呼ばれる職場は、多くの「不機嫌アピール」を見ることができる。
しかも、そのような職場で働いている人の中には、日ごろのストレスを解消するように、「不機嫌アピール」を違う場所で行うこともあるようだ。
「不機嫌アピール」のスパイラル状態が、今の社会を覆っている・・・と感じるのも、そのような理由があるのかもしれない。

そのような場面を見るにつけ感じることが「かまってほしい」という、潜在的欲求があるのでは?という気がしている。
あるいは「形を変えた承認欲求」ということかもしれない。
常に高圧的態度をとる人の中には「自分の考えが正しい」という、「思い込みの沼」にハマっている人が多いような気がする。
「思い込み」の中には、過去の成功体験や「既成概念」、既得権益などが様々に絡み合って、その人の「思考」をつくり上げていると思うのだが、時代や社会の変化と共にアップデートされないままになっているのではないだろうか?

若い人たちの思い込みは「みんなが・・・」という、一種の「同調圧力」の中から生まれたのでは?と、感じている。
「自分が無い」というのではなく、「自分の存在」をアピールするための方法の一つが「かまってほしい=不機嫌アピール」となってしまっているように感じるのだ。

ただ、この「不機嫌アピール」は、社会全体の雰囲気を悪くするばかりで、プラスの要素はないと思っている。
多くの人は、「機嫌のよい人」のところへ集まる。
「機嫌のよい人」というのは、「いつも笑顔でいる」というだけではない。
柔軟な思考で、常にフラットな視野でモノゴトを見ることができる人だ。
また、チャレンジ精神を持っている人ともいえるかもしれない。
そのような人は「かまってアピール(=不機嫌アピール)」をすることなく、周囲から認められ(=承認され)、困ったときにも手を差し伸べてくれる人がいるだろう。

そう考えると、今の日本の社会を覆う「不機嫌アピール」は、社会全体の閉塞感というだけではなく、「孤独感」から来る「かまってアピール」という気がしてくるのだ。


目先の売り上げよりも・・・「廃棄恵方巻」にかかる負担

2019-02-02 22:01:27 | ビジネス

昨日の一部新聞に、「恵方巻廃棄にかかる費用」という内容の記事があった。
Huffpost:廃棄される恵方巻の金額、年10億円超 試算した研究者「予想より高く、驚いた」

正直、私もこの試算額には驚いた。
「恵方巻」そのものは、2月3日の節分の日1日の為に販売される商品だ。
そのため「年10億円超」という数字は、厳密にいえば2月3日前後の2,3日を対象とした日にちであって、厳密にいえば年間という数字ではない。
わずか2,3日で10億円を超える金額が、廃棄される為にかかっている、というのは「非生産的」といっても良いのでは?という、気がしている。

この「恵方巻」が、話題になり始めたのは10年余り前からだと思う。
元々は関西、特に大阪が始まりだったように記憶している。
それが、コンビニなどで「恵方巻」として、全国的に販売されるようになると、一気に「節分の食べ物」として認知されるようになった。
問題は、認知されるようになったと同時に、コンビニなどのアルバイトに無理やり買わせる「自爆営業」のような売り方が、行われるようになった。
それはコンビニに限らず、スーパーや百貨店でも同様かもしれない。
ただ扱う量として、コンビニは圧倒的に多く「自爆営業」として無理やり購入させられるなど、「欲しくもない商品を無理やり目先の売り上げの為に買わさせる」という行為が、まかり通るようになり社会問題となった。

このような記事を読むと「恵方巻」が悪いように思えるが、大阪のローカルな「節分行事食」としてデパ地下などで販売されていた時には、それほど問題ではなかったはずだ。
もちろん、当時から廃棄される恵方巻は、あったとは思うのだが、10億円を超すほどの廃棄はされなかったはずだ。
すなわち「恵方巻」そのものが悪いわけではなく、「消費の掘り起こし」という名目(というべきか?)で「恵方巻」を必要以上に販売しようとする側に、大きな問題があるのだ。
それは「恵方巻」に限ったコトではなく、クリスマスが終わった後、大量に廃棄される「クリスマスケーキ」にしても、同じだろう。

日本では「飽食の時代」といわれて久しい。
それほど「食べるものに不自由をしない」というのは、とてもありがたいことでもある。
世界をみれば、今日・明日の食糧が無く飢えと隣り合わせの生活を余儀なくされている人たちが、数多くいる。
そのような人たちからすれば、大量に廃棄される食べ物は「もったいない」とか「(捨るほどあるなんて)羨ましい」ということになるかもしれない。

しかし冷静に考えれば、「恵方巻」をつくる為に調達される様々な食品にも、輸送コストを含む様々な費用が掛かっている。
廃棄にかかる費用以上の費用が、「恵方巻」にはかかっているのだ。
それらの費用そのものが、「無駄」ということになる。
コンビニに限らず「自爆営業」の要素を含んだ、売り上げというのは一見売り上げに貢献しているように見えるが、その実売り上げ以上の費用負担を強いている、ということになる。
そろそろ「目先の売り上げ」ではなく、身の丈に合った「無駄を生まない商売」というものを、コンビニをはじめとする「恵方巻」に熱狂する小売業は考える必要があるのではないだろうか?