今朝はヘンな夢を見た。俳優の峰竜太、タレントの海老名みどり夫妻の家にお邪魔した私。当然内装は豪華。しかし廻りを見渡すと、それが海を見下ろす岸壁を刳りぬいた中に造られており、びっくりした。その家のすぐ前に海が見えて、ロケーションは最高だった。
ところで、なぜこのおふたりが夢に登場したのか。20日(火)、私は上野広小路に落語を聞きに行ったのだが、そこで高座に上がった桂扇生師匠が、マクラに「海老名家」を出したのだ。それが記憶に残っていたのだろう。
「将棋ペン倶楽部 2010年・春号」は3月中旬の発行。今回も拙稿が掲載されたのだが、その経緯はいつもと違った。
昨年12月、LPSA金曜サロンで将棋を指していると、石橋幸緒女流四段のご母堂が見え、年末に行われる「第六回・将棋寄席」のチケットを置いていった。「将棋寄席」は作家・観戦記者であり、将棋ペンクラブ編集幹事でもある、湯川博士先生のプロデュース。本来なら聞きに行くべきなのだが、そこまで私は、人付きあいはよくない。
しかし私も含めた一部の会員が半ば強制的?に買うことになり、寄席当日、私は浅草「木馬亭(もくばてい)」に出かけたのだった。
開場の午後6時すぎに小屋に入ると、湯川先生の顔が見える。当然挨拶すべきなのだが、私は極度の人見知りなので、そのまま知らん顔をしていた。
ところが湯川先生に気づかれてしまい、
「おう! 君は落語好きなの?」
と訊かれてしまった。
「いや、そうですね…」
とモゴモゴしていると、
「じゃあ君、3頁書いてくれ。写真はオカマツ君が1頁あるから」
と畳みかけてくる。「頼んだよ」
有無を言わさぬ「速攻」で、湯川先生から私への原稿依頼が完了した。私は「将棋ペン倶楽部」に何度も投稿しているので、湯川先生の言わんとしていることは分かる。「将棋ペン倶楽部次号に、この落語のレポートを3頁で書いてくれ」という意味である。1行の文字数や1頁の行数は頭に入っているから、湯川先生もあえて説明はせず、これで話が通じてしまうのだ。かくて2010年春号も、私の原稿が載ることになったのだった。
しかしそれまでは気楽に落語を楽しもうと思っていたのに、それが「取材」に変わったから、大変である。客の入りはどうか。内装はどうか。襖の上の額に書かれてある文字は何か。いろいろチェックする。もちろん噺も真剣に聞かねばならない。そしてレポートのネタになりそうな箇所はメモをする。
原稿の〆切は2月上旬だったが、今回は依頼なので、早めに仕上げなければならぬ。台割の問題もあるし、1月上旬には入稿しなければと覚悟した。
新年4日に、LPSA新年会に招かれた。船戸陽子女流二段と記念すべき指し初め式を終えた後、私は浅草に向かった。明るい空の下、「木馬亭」の全容を観るためである。これを観たところでどうということはないが、文章に「厚み」が出るような気がしたからだ。
モギリのおばちゃんに、木馬亭の創業年を聞く。大正7年か8年だと言う。この情報は貴重だ。この1行があるとないとでは大違いである。わざわざ浅草まで出向いた甲斐があったと思う。まだ松の内だが、初詣はせず、私はそのまま帰宅した。
そうして原稿を書き上げ、製本された春号が送られてきたのが3月中旬だった。
私は例によって夜まで待ち、散歩先のドトールコーヒーで、自分の原稿を読む。内容は頭に入っているのだが、活字になった書物を読むときは、別の緊張感がある。
拙稿は13頁から16頁に掲載されていた。その冒頭部分。
「将棋ペンクラブ年末の恒例行事、『将棋寄席』が昨年末、開かれた」
ここで早くも、頭がクラクラした。何たる文か。たった2行の中に、「年末」が2回も出ている。ここは
「将棋ペンクラブの恒例行事『将棋寄席』が、昨年末も開かれた」
とすべきところ。推敲の時間はままあったのに、このダブリをチェックできなかったのは、怠慢というほかない。もうこの時点で、以下を読む気がなくなった。将棋でいえば、戦意喪失で投了、というところだ。
しかし本当に私をアオくさせたのが次頁で、「羽生善治名人」が「羽生善生名人」なっていた。人名を間違えるのは最大の悪手と心得ているが、よりによって羽生名人の名前を書き間違えるとは…。書いたり消したりを繰り返しているうち、「羽生」の「生」が残ってしまったのかもしれない。見当違いの字ではないだけに、校正の段階でも身落とされてしまったようだ(注意:「身落とされ」は「見落とされ」の誤りです)。
今回の噺は7つあったのだが、バトルロイヤル風間氏に割いた文章がほかより突出して長かったのも気になる。似たような言葉も散見され、うまく整理すれば5~6行は削れ、スッキリした文章になったはずだ。ここにも推敲不足を感じる。
トリの仏家(ほとけや)シャベル(湯川先生)の描写も、たった16行の中に「シャベル」が5回も出てきて、シャベルだらけに見えた。最低ひとつは省けたはずだし、芸名の意味を事前に聞いておけば、「ほとけやシャベル=ほっときゃ喋る」という説明も挿入でき、読者もああなるほど、と頷けたことだろう。
結局今回の投稿も、おもしろくも何ともない駄作だった。実はこのレポートの後に、「将棋寄席」を聞き終えたあとの、将棋ペンクラブ会員による座談が掲載されている。こちらのほうが落語の内容にも詳しく触れられていて、はるかにおもしろい。私の原稿は、ないほうがよかった。会員の皆さまには申し訳ないことをしたと思う。
ところで、なぜこのおふたりが夢に登場したのか。20日(火)、私は上野広小路に落語を聞きに行ったのだが、そこで高座に上がった桂扇生師匠が、マクラに「海老名家」を出したのだ。それが記憶に残っていたのだろう。
「将棋ペン倶楽部 2010年・春号」は3月中旬の発行。今回も拙稿が掲載されたのだが、その経緯はいつもと違った。
昨年12月、LPSA金曜サロンで将棋を指していると、石橋幸緒女流四段のご母堂が見え、年末に行われる「第六回・将棋寄席」のチケットを置いていった。「将棋寄席」は作家・観戦記者であり、将棋ペンクラブ編集幹事でもある、湯川博士先生のプロデュース。本来なら聞きに行くべきなのだが、そこまで私は、人付きあいはよくない。
しかし私も含めた一部の会員が半ば強制的?に買うことになり、寄席当日、私は浅草「木馬亭(もくばてい)」に出かけたのだった。
開場の午後6時すぎに小屋に入ると、湯川先生の顔が見える。当然挨拶すべきなのだが、私は極度の人見知りなので、そのまま知らん顔をしていた。
ところが湯川先生に気づかれてしまい、
「おう! 君は落語好きなの?」
と訊かれてしまった。
「いや、そうですね…」
とモゴモゴしていると、
「じゃあ君、3頁書いてくれ。写真はオカマツ君が1頁あるから」
と畳みかけてくる。「頼んだよ」
有無を言わさぬ「速攻」で、湯川先生から私への原稿依頼が完了した。私は「将棋ペン倶楽部」に何度も投稿しているので、湯川先生の言わんとしていることは分かる。「将棋ペン倶楽部次号に、この落語のレポートを3頁で書いてくれ」という意味である。1行の文字数や1頁の行数は頭に入っているから、湯川先生もあえて説明はせず、これで話が通じてしまうのだ。かくて2010年春号も、私の原稿が載ることになったのだった。
しかしそれまでは気楽に落語を楽しもうと思っていたのに、それが「取材」に変わったから、大変である。客の入りはどうか。内装はどうか。襖の上の額に書かれてある文字は何か。いろいろチェックする。もちろん噺も真剣に聞かねばならない。そしてレポートのネタになりそうな箇所はメモをする。
原稿の〆切は2月上旬だったが、今回は依頼なので、早めに仕上げなければならぬ。台割の問題もあるし、1月上旬には入稿しなければと覚悟した。
新年4日に、LPSA新年会に招かれた。船戸陽子女流二段と記念すべき指し初め式を終えた後、私は浅草に向かった。明るい空の下、「木馬亭」の全容を観るためである。これを観たところでどうということはないが、文章に「厚み」が出るような気がしたからだ。
モギリのおばちゃんに、木馬亭の創業年を聞く。大正7年か8年だと言う。この情報は貴重だ。この1行があるとないとでは大違いである。わざわざ浅草まで出向いた甲斐があったと思う。まだ松の内だが、初詣はせず、私はそのまま帰宅した。
そうして原稿を書き上げ、製本された春号が送られてきたのが3月中旬だった。
私は例によって夜まで待ち、散歩先のドトールコーヒーで、自分の原稿を読む。内容は頭に入っているのだが、活字になった書物を読むときは、別の緊張感がある。
拙稿は13頁から16頁に掲載されていた。その冒頭部分。
「将棋ペンクラブ年末の恒例行事、『将棋寄席』が昨年末、開かれた」
ここで早くも、頭がクラクラした。何たる文か。たった2行の中に、「年末」が2回も出ている。ここは
「将棋ペンクラブの恒例行事『将棋寄席』が、昨年末も開かれた」
とすべきところ。推敲の時間はままあったのに、このダブリをチェックできなかったのは、怠慢というほかない。もうこの時点で、以下を読む気がなくなった。将棋でいえば、戦意喪失で投了、というところだ。
しかし本当に私をアオくさせたのが次頁で、「羽生善治名人」が「羽生善生名人」なっていた。人名を間違えるのは最大の悪手と心得ているが、よりによって羽生名人の名前を書き間違えるとは…。書いたり消したりを繰り返しているうち、「羽生」の「生」が残ってしまったのかもしれない。見当違いの字ではないだけに、校正の段階でも身落とされてしまったようだ(注意:「身落とされ」は「見落とされ」の誤りです)。
今回の噺は7つあったのだが、バトルロイヤル風間氏に割いた文章がほかより突出して長かったのも気になる。似たような言葉も散見され、うまく整理すれば5~6行は削れ、スッキリした文章になったはずだ。ここにも推敲不足を感じる。
トリの仏家(ほとけや)シャベル(湯川先生)の描写も、たった16行の中に「シャベル」が5回も出てきて、シャベルだらけに見えた。最低ひとつは省けたはずだし、芸名の意味を事前に聞いておけば、「ほとけやシャベル=ほっときゃ喋る」という説明も挿入でき、読者もああなるほど、と頷けたことだろう。
結局今回の投稿も、おもしろくも何ともない駄作だった。実はこのレポートの後に、「将棋寄席」を聞き終えたあとの、将棋ペンクラブ会員による座談が掲載されている。こちらのほうが落語の内容にも詳しく触れられていて、はるかにおもしろい。私の原稿は、ないほうがよかった。会員の皆さまには申し訳ないことをしたと思う。