一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

中井広恵と行く稚内ツアー(第11手)・宗谷岬に行く

2012-06-25 01:20:28 | 将棋イベント
10日(日)、稚内ツアー最終日の朝は、午前7時40分に起きた。寝たような寝なかったような感じだが、私はとりあえず322号室へ戻る。
植山悦行七段も起きていた。
「きのうは何時まで指してました?」
「4時半近くまで」
「……」
どうかしている…と頭を振った植山七段は、夢遊病者のように325号室へ消えた。私は着替えて、W氏、Is氏、Kub氏と1階の食堂へ向かう。
植山七段が先着していたが、一テーブルの上のお膳の数と、部屋の人数が同じだったので、私たち4人は同じテーブルに座った。
しかし植山七段のほかの部屋の住人、すなわちHis、Kun、Honの各氏は下りてこない。まあ、そうであろう。ひとりっきりの植山七段が人恋しそうだったので、私がお膳を持って植山七段のテーブルに移動する。これが図に当たった。
やがて中井広恵女流六段とHon氏が下りてきたが、中井女流六段が(きょうは親といっしょじゃなくてもいいでしょ)といった感じで、私の横に座ってくれた。Hon氏はその向かいに座る。私はちょっといい気分になって、朝食を平らげた。
ここの食堂はもちろんホテル直営だが、係の人がずぅっとついてくれていて、ご飯のおかわりなど、甲斐甲斐しく動いてくれた。
私は昨夜のドライヤーのこともあるから、食事が毎回美味しかった、ありがとうございました、とせいぜい褒めた。実際食事は、本当に美味かった。
部屋に戻って、帰り仕度。これが稚内最終日とは、ウソのようだ。毎日が充実していたからそれなりに日にちが経った実感はあるが、こんな日がこれからも続くような錯覚に捉われてもいたのだ。
チェックアウトの時間まで、小1時間ほどある。その間に私はKub氏と一局。Kub氏も将棋が好きだなあと思う。
私の四間飛車に、Kub氏が急戦で元気に仕掛けたころ、Fuj氏が遊びに来た。手には布盤と駒袋を持っている。Fuj氏、まさか将棋を指しに来たのか?
しょうがねぇなあ、と私が相手をする。朝からまさかの二面指しである。
将棋は矢倉模様から私が変化して、腰掛け銀から右四間飛車。加藤一二三九段の得意戦法である。最近思うのだが、この戦法はかなり優秀である。
中盤戦に差し掛かったころ、大野八一雄七段も見えた。おたくらバカだねえ…という顔で、私たちの将棋を覗く。アマが多面指しをするものではない、が私の持論なので――といいつつ、私は植山七段と大野七段、Hanaちゃん、Minamiちゃん相手に四面指しをやったことがあるのだが――「いやなところを見られちゃった感」は否めないが、プロ棋士が立ち会ってくれるとは、ありがたいことである。
しかし一公-Kub戦が終盤に差し掛かったころ、大野七段は部屋を出ていった。
この将棋は私の勝ち。これでFuj戦に専念できる。
右四間飛車は図に当たって、有利から優勢に近いところまで持っていったが、例によってFuj氏の粘りに遭い、形勢は互角かやや不利にまで戻されていた。
Fuj氏、△3八角。▲2七飛と▲6五成銀の両取りだ。私は両取り逃げるべからずと、▲4三桂と王手飛車を掛ける。△2二玉▲5一桂成。ここでFuj氏は△6五角成と成銀を取りながら自陣に利かせたが、これが敗着。私が▲6二飛と打った手が詰めよ馬取りで、これで大勢決した。以下私の勝ち。
△6五角成では△2七角成とすれば、上部が厚くなって、まだまだ大変な将棋だった。
ちょうどいい時間である。私たちは荷物をまとめて部屋を出る。322号室、正味3日間、お世話になりました。
私たちがロビーに降りると、喫煙コーナーでHis氏とHon氏が、将棋を指していた。どいつもこいつも将棋バカだ。
9時半に、宿泊者15人がチェックアウトした。ホテル奥田屋さんには、最初から最後まで迷惑を掛けどおしで申し訳ありませんでした。でもとてもいいホテルだった。
きょうは14時35分発のANA574便で、東京・羽田空港まで一気に帰るが、それまで観光である。きょうは、稚内といえば誰もが訪れる、宗谷岬観光である。最後の最後に、最高の切り札が残っていた。
さあ、クルマには誰が乗ろうか、というとき、中井女流六段のお母さんが、私に「PARCOポスター」2枚組をくれた。ほ、本当ですか!?
いや、このポスターが稚内将棋クラブから何枚か出てきたと聞いたとき、一部を一公にやるべきだ、という声はあったのだ。しかし本当にやるかどうかは別問題で、女流棋界の歴史的資料が、簡単に私の手に渡るわけがないと諦めていたのだ。だから本当に貰えるとは思わなかった。
私は中井女流六段の大ファンだと公言しているが、その声がお母さんに伝わっていたのだろう。今回の措置も、その余得だった。お母さんには何と御礼を言っていいか分からない。ありがとうございました。
きょうの運転手は中井女流六段、お母さん、大矢順正氏。私は中井女流六段運転のクルマにあまり乗っていないので、そちらに乗らせてもらう。あとはW氏とHon氏が同席となった。
となれば、助手席は私である。私はポスターを抱えて乗りこむ。意気揚々と出発。
クルマは国道238号を快走する。7日に中井女流六段の運転で郵便局を往復したときも感無量だったが、同じく宗谷岬へ向かうのも、畏れ多いことである。こんな幸せがあっていいのかと思う。こうなってみると後部座席のふたりが邪魔だが、いなければいないで、緊張してしまうだろう。
中井女流六段と談笑。空が広いですね、海が広いですね、道が広いですね。どうということのない会話が楽しい。空は曇っていたが、私の心は快晴だった。
宗谷岬へ着こうかというところで、クルマが一時停止した。そこは「間宮林蔵の樺太出港の地」だった。なんてことのない海岸だが、ちゃんと石碑が建っている。今回に限らないが、路線バスを利用していたら、絶対に降りることのない観光地である。
クルマに戻る。少し走って、ついに宗谷岬に着いた。もっと中井女流六段とドライブを楽しみたかったが、それは詮ない。
日本に限らず世界には、東西南北の極限の地があるが、日本最北端は日本人にとって最もポピュラーだ。演歌に「北」をテーマにした曲が多いように、日本人は北に行きたがる傾向があるという。
日曜日だというのに、辺りは誰もいなかった。路線バスは空白時間帯、観光バスも、朝一便が着くのはもう少し後になるのだろう。私たちは代わる代わる、「日本最北端の地の碑」に立つ。この瞬間、自分が日本でいちばんてっぺんにいるのだ。この優越感は、実際この地に立ってみなければ分からない。
これが最後の観光地なので、みんなが揃って、撮影。撮影者はお母さんだ。今回ばかりはいくつものカメラが置かれた。カメラを換えては撮影、またはスマホで撮影、の繰り返し。お母さんには最後までお世話になってしまった。
次に私は、中井女流六段ひとりをモデルにして、撮影。
「あーいいですね、その笑顔! 撮りまーす」
「ああいい! 最高ですそれ、もう1枚行きます!」
「今度は横で行きますね!」
「おおー最高ですよ中井先生!」
…いかん…!! ついカメラ小僧の血が騒いでしまった。もっと撮り続ければ、さらに中井女流六段の「奥の顔」を見ることができたはずだが、それは次の機会のお楽しみである。
と、大野七段が気を利かせて、中井女流六段とのツーショット写真を撮ってくれることになった。私は少し照れながらポーズ。
私は3年前の秋にも宗谷岬を訪れているが、同じ地で中井女流六段と写真に収まることができるとは、夢にも思わなかった。
私はまた、同じことを考える。こんないいことがあって、これからの人生で何かバチが当たらないだろうか、と。当たってもいい、と思った。
(27日につづく)
コメント (2)
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