神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 43

2024年03月16日 20時15分41秒 | 甲越軍記
 先陣が敗れ去ったのを見た諏訪頼茂は、二陣の本陣を率いて台ケ原に突撃を開始した
これを台の上の丘より見た晴信も、味方の二陣に出撃の合図を送る
武田勢の二陣は甘利備前守、その数二千余騎、韮崎穴の観音を背に忽然と押し出す。
両軍互いに一歩もひかずせめぎ合う、諏訪頼茂は背後に控える小笠原勢の手前、一歩も引くことならじと攻めあがる
甘利備前も、これが館の戦はじめと思えば敵に押されて引くこと不吉なリと、ことらも力攻めに押し返す。
互いに命の限りを尽くして戦うその頭上には、炎天の日差しが鎧兜を照らして一滴の潤いもなく、砂埃を上げての激しい攻防となる
流れるは汗ばかりで既に両軍の兵、疲れ果てて敵味方声も上がらぬ様となり、ただ無言のうちに抑えて首を取り、首を掻き切る者あり、いつ終わるとも知れぬ泥沼の決戦を繰り広げる

この時、台の丘より戦場を見渡していた晴信は「今こそ勝負の時ぞ、こころしてかかれ、皆の者」と采配振り落とせば、真っ先の小幡、原、横田、教来石、多田、安間、鎌田七人槍を揃えて突き入り、またも小幡織部正虎盛が一番槍
にて諏訪の勇士、千野七蔵を討ち取り、続いて四人まで突き伏せる
あとに続く旗本三百騎も思い思いに敵勢に突きかかり、数多首を取る
正兵、奇兵合しては離れ、離れては合して十文字に諏訪勢を切り崩せば、たまらず諏訪勢は南に下がる
諏訪頼茂、馬上に立ち「逃げるな!押し返せ」と自ら馬頭を武田勢に向けるが、潮が引くように逃げ戻る味方の敗兵に押されて引くより仕方ない仕儀となる。
そんな中にも諏訪勢の勇士あり、渋江内蔵助、藤森三郎左衛門という二人
内蔵助は三郎左衛門を招き、「味方の崩れ落ちるさま見苦しい、これでは小笠原勢の物笑いになり当家の恥である、横槍を入れて来た隊の中に大将らしき姿を見た、年齢若輩だが采配を振る姿は、あれこそが武田晴信であろう
某、晴信の鎧兜の姿を覚えたからには、敵の中に紛れ込み、晴信に近づいて必ずや首を上げて討ち死にできれば、これこそ冥途の土産にふさわしいではないか」 と言えば、三郎左衛門もにこりと笑い「いかにも」とうなづく

二人は傘印を投げ捨てて、顔に血を塗り、それぞれに首を一つぶら下げて武田勢の中に紛れ込んだ。
晴信は「敵は逃げ去った、深追いするな次に控える小笠原は大敵なり、引き揚げて備えを厳重にせよ」と引き鐘を命じた。
武田勢の正兵二千騎は韮崎の方に引かせ、晴信の奇兵は再び台の上の丘に引き上げる、その中に渋江、藤森の両名も紛れ込み、次第に馬上の晴信の近くにすり寄って行った。

仁徳天皇の徳政

2024年03月16日 10時04分14秒 | 日本史
 書によれば、人皇第十六代仁徳天皇は、あるとき宮殿から都の家々を眺むるに食事時と云うのに、どの家からも炊飯の煙が上がらぬことに不審を思い調べてみると、民の暮らしは貧困のどん底で、炊飯する雑穀にも事欠く有様であることを知った。

民の暮らしの貧しさを知った天皇は、直ちに課税を三年間にわたってやめることを官吏に伝えて実行した。
天皇も自ら質素倹約を掲げて、宮中の人々にもそれを実行させ、履物、衣服に至るまで新調を控えさせた。
また宮中の屋根から垣根に至るまで、穴が空こうが壊れようが修繕を拒み、そのままにしておいた、食事も民の苦しみを思い、自らも粗末な食事に甘んじたという。
皇后が暮らしの貧困を嘆いても、天皇は「天が朕をここに授けたのは、民の暮らしを護るためなのだ」と諭したという
また「民からの税で豊かな暮らしをさせてもらう者は、まず民が豊かに生きられるように心を砕くべきである、民が豊かになれば、おのずと次にわれらも豊かになるのだ」とおっしゃられたそうだ。

その甲斐あって、諸国は五穀豊穣の恩をたまわり、人々の暮らしは楽になったので官吏たちは、もう課税しても宜しいでしょうと告げたが、天皇は更に三年にわたって課税をしないようにと申し付けた。
民はこの話を聞いて、帝に感謝の心を持って、誰からともなく集まり、宮殿の修築を手弁当で行ったという

また天皇は新田開発に力を注ぎ、決壊する堤防を徹底的に修築して田畑を反乱から守ったという。
仁徳天皇はその名の通り、多くの天皇の中でも聖皇の一人に数えられる。


琵琶湖周航の歌(心にしみる歌)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 42 

2024年03月15日 20時53分24秒 | 甲越軍記
 既に夜半となり、武田勢はかがり火を盛んに燃やして鹽川(しおかわ)の向こう岸に陣を構えて動かざるかのように見せかけながら、まずは暗闇の中を迂回した第一陣飫富兵部少輔一千余騎が先陣として川を渡り陣を構えた。
そして敵が来るべき道筋に二手に兵を分けて待ち構える、これは万一気づいた敵が攻め寄せた時に、後続が川を渡るまでの時を稼ぐためである。

しかし小笠原、諏訪の兵はこれに気づかず押し寄せることもなく、二陣、三陣と越えて台の上に上陸して南に向かい、一夜の闇の内に丘に上がる道をつけたのであった。
一方の小笠原、諏訪勢は武田方が既に鹽川を渡ったことなど露知らず、明け方には鎌梨川を押し渡って鹽川を渡ってくる武田勢を河原にて待ち構え、流れに難儀する武田軍を一網打尽に殲滅するという計画を練っていた。

秋の夜長しといえども、まだ初秋の二十日ばかり、ほがらほがらと明け行く空に月も雲井に残りつつ秋のしるしの朝霧に、東西さらに朧げにて定かにそれとは見えないけれど、北の方を見れば武田の諸軍、既に鹽川を渡り超えたらしく武田の軍旗が風になびいている。
すでに武田の軍勢、隊伍整然として船山に向かってくる様子に、諏訪、小笠原の軍勢驚き上を下への大騒ぎとなる

しかしさすがは小笠原長時、諏訪頼茂、老巧錬磨の大将である、少しも騒がず味方の隊を四段に構えて、まず先陣は諏訪の侍大将西条式部頼景一千五百、二番は諏訪信濃守頼茂二千二百、二隊合わせて三千七百余騎、鐘太鼓ならして押し出す。
遥かに下がって、三階菱の旗押し立てて小笠原勢は侍大将、雨森修理亮二千余騎、二番は大将小笠原大膳大夫長時三千三百余騎、合わせて五千三百
陣足を並べて打ち出したり。

武田方先陣、飫富兵部の隊八百余騎、豪雨の降る如く激しく高台より円陣にて攻めかかる、受けて立つ西条式部の一千五百、互いに弓鉄砲降る中を入り乱れての会戦となる。
この時、晴信は鹽川の向こうの本陣にいるように見せかけて割菱の旗を立ておいて、その実、既に台ケ原の高き丘に、自ら精兵三百騎を率いて突撃の頃合いを計っていた。

すでに両軍の先陣の戦いは半ばを過ぎた、このとき晴信は時来たる時は赤字に八万大菩薩の旗を押し立て、侍大将の如く、小幡織部、原美濃、横田備中、安間三右衛門、鎌田五郎左衛門、多田三八、今井市郎など鬼を酢で食らう猛者を左右に引き連れて横合いより奇兵となって突きかかる手筈、宵の内に作った高岸の道を一気に駆け下りる機運を見定めて待つ。

上から攻め寄せる飫富勢八百騎を包み込まんと西条勢一千五百、二倍の兵を鶴翼の陣で待ち受けるところへ、飫富勢は魚鱗の陣で真ん中を突き崩さんと攻め寄せる、互いに血煙立てて相戦い疲れが見えた頃、今がその時と晴信は三百騎の奇兵をもって台の上から逆落としに攻めかけた。
西条の軍勢の横合いより十文字に突入して、鋭い錘のように突き進む
小幡織部正虎盛、一番槍と名乗り、たちまち敵兵三騎を血祭りにあげて、血潮滴る槍を振り回して更に敵勢に突きかかる。

小幡を後方より助け、今井市郎生年二十歳と名乗り、続いてかけ入り、よき武者二騎を突き倒す、その他馬回りの勇士五人も当たる敵を突きまくり、一人で五人三人を下ることない敵を討ち取る
この勢いに西条勢たまらず逃げ出せば、これを追いかけて次々と敵の首を取ることおびただしい数である。


花粉症か!

2024年03月15日 08時19分56秒 | 病気と健康
3月14日のこと
一週間後に「春分」を控えて、今日は温かかった
新潟県は13度そこそこだが、富山市で14度、高岡伏木は14.6度と4月の陽気であった、ただ天気は晴れ、曇り、小雨と猫の目の如し。

今日は定例のドライブの日、この数日は目がかゆくてしかたない
朝、顔を洗う時に目の周りを洗うと気持ちよい
酷い時は、くしゃみ連発で、鼻水が出るし鼻の奥がむず痒く乾燥ヒリヒリしたり、逆にグズグズ熱っぽい。
これは間違いなく「花粉症」、昔はこんなことが無く、この5年ほど前から今の季節になるとこうなる。

15日の今朝も起きると同時に症状が出ていて不快極まりない
ブログを見ていても、けっこう私同様に苦しんでいる人がいる
車も窓を見ると花粉らしき点が幾つも見える、黄砂とは違う粒だ
これで黄砂がやってくれば、ますます不快な世界になる

こんなことで花粉症専用の点眼薬だ、薬だを購入するのも癪に障る
薬屋と言えば、帰宅後に本屋へ行ってクレヨンと四国のガイドブックを買った、そうしたら文房具10%offの券を店員さんが愛想よくくれた。
ついでにドラッグストアの15%off券があったので、化粧品を買ってきたら、また15%off券を2枚もらった。
スーパーは今日は高齢者5%offの日で、子供のおやつを買った
イオンでは1万円の買い物で500円の商品券をもらったし、なんでもかんでも物価が上がるこのご時世、5%でも安く買わないといよいよやりくりがたいへんになってくる

現役の時には歯牙にもかけなかったポイントカードだとか、シルバーディ、バーゲンセールが今は暮らし密着だ
限られた年金は、諸費税アップ、物価上昇のたびに実質手取りがどんどん減っていく、セコイと思っていたポイントや安売りに対してかっこつけていられない
まさか老後になって、生きる知恵をフル活用するとは思わなかった
まあボケ防止と思って、年金の有効活用方法を毎日考えるのも悪くないか。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 41

2024年03月14日 21時50分52秒 | 甲越軍記
 晴信の陣配り、備えは六段構え、先陣は飫富兵部少輔、二陣は甘利備前守、三陣は小山田備中守、四陣は板垣駿河守、その次は晴信旗本隊、後陣は今井伊勢守、日向大和守、旗本の左右は教来石民部少輔、原美濃守、小幡織部正、
横田備中守、安間、鎌田の輩、六隊の勢、真っ黒に構え、18日の丑の刻に甲府館を発った。
急ぎ駆け付け、立て梨河原に押し出すと、鹽川、鎌梨という二つの川を挟んで、敵勢と対峙した。

遥かに敵陣を見渡せば、小笠原、諏訪の軍勢九千六百余騎に加え、信州、上州の地侍どもが此度の合戦に加わり、甲府の豊かなる寺領、民家の金銀を奪おうと信州勢に加わる、その勢二千ほどで併せて一万二三千、船山の上に陣を構えて軍旗なびかせ整然と備えている。
両軍は川を隔てて睨み合ったまま一夜を過ごし、夜明けと共に川を渡り正々堂々と会戦に及ばんと構えているところに、小笠原、諏訪方より使い番の母衣衆が二名、武田陣へ使いにやって来た。
使者の口上は「我ら小笠原、諏訪の二家はもとより武田の一族であったが、信虎の非道なやりかたで、わが領土を奪い蹂躙したことは許しがたく、我ら日頃より恨みに思っていたが、天罰が下って嫡子晴信によって駿府に廃去されたのはもっともなことである
されど親に不孝をはたらいた晴信もまた非道の輩であることは疑いなく、我々は今後とも武田との仲を取り戻す気はさらさら無い
此度の合戦において、この三家の存亡を定めようではないか
付いては、明朝卯の刻、台ケ原において決戦をしようではないか、いかがであるか」と問うてきた
晴信は、これを承諾したので使者は川を渡り陣営に戻っていった。

晴信は、使者が去ったあと重臣を集めて言うに「このような申し出を承ったが、小笠原、諏訪の腹の内は我らをだまし討ちしようとしているのは手に取る様にわかっておる
彼らは船山の高台より駆け下りる地の利がある、ゆえにこの儂が信を守る者と信じて裏をかき、我らの軍勢が時間通り川を渡り、いよいよ浅瀬に差しかかった頃合いを見て、一気に敵は押し出し、足元のおぼつかぬ味方を殲滅せんという作戦である」
晴信若年と言えども智勇に優れ、孫呉の軍法に精通していればこそ、敵の朝知恵を見抜いていたことに重臣らも驚くばかりである
「さて、我らは敵の裏の裏をかくこととする、今宵夜半にこの陣のかがり火を盛んに炊き、捨て置き、味方は声も立てず静かに速やかに鹽川を渡り、台ケ原の上の丘に陣を移す
丘からは南へ鎌梨河原に向けて道なき道に一夜の間に道をつけよ
明け方と共に前陣から後陣まで一斉に鎌梨川を渡れば、敵の知らぬ間に鹽川を越えて攻め太鼓を打ち鳴らし鎌梨に攻め寄せる味方に敵は驚き、慌て騒ぐであろう。
後陣には我が家の割菱の旗、諏訪の旗を打ち立てて、さも儂の本陣である様に謀れば、敵は本道よりわが本陣に攻めかかろうと前陣に押し寄せるは必定である
敵の先陣と、わが先陣が激しく競り合う時に予は旗本三百騎の精鋭で丘より馳下り横合いから敵先陣に突き寄せ、敵を乱して早々に丘に引き上げ
敵二陣が攻め寄せれば同じく攻めては引くを繰り返すなり、そしていよいよ諏訪、小笠原の本陣が出てくれば同じようにして一気に決着をつける、敵の敗北は定かである」
これを聞いた諸士、老臣は一同に声を上げて、晴信の策略に感心することしきりであった。


タイムマシーン浦島太郎

2024年03月14日 08時49分24秒 | 宇宙.神秘
 いまさら時の流れに逆らってみたとて、せんもないことであるが、昨日古希がやって来たと思うのに、五月には早七十四とは、いかなることであろうか。
七十四と言われても「百まで二十六年ある」とまだまだ余裕だが、一晩寝て起きれば九十九になっていても不思議はない。

浦島太郎の寓話には不思議なことを多々思う、いったい作者は何を言いたかったのだろうかと考えてみるが
漁師浦島が浜辺で亀を虐めていた子供から、亀を買い取って助けて海に逃がしてやった。
浦島太郎は決して裕福ではない、かといって貧乏でもないようだ
助けた亀が浦島を迎えに来て、海の中へ乗せて行ってくれた
着いた先は竜宮城で、乙姫様という女主が歓待してくれて、連日連夜の宴会三昧、お料理も見たことがない豪華で美味しいものばかり(焼き魚や刺身があったかは不明)
鯛や平目が舞を見せてくれる、しかし浦島もこんな大尽遊びに飽きて「帰らせてもらいます」
乙姫様は名残おしそうにしたが、玉手箱という立派な?箱をお土産に手渡して「決してこの蓋を開けてはいけませんよ、開ければたちまち老人になりますから」と念を押してまた亀に乗せて海岸へ連れて行った。
考えたら不思議だ、浦島は亀を
助けたが、漁師だから生活のためとはいえ毎日、魚を釣っていた、乙姫さまは、それを恨みに思わなかったのか?

懐かしい浜辺に着いて家に戻ってみたが、家がないし辺りの景色も全く変わっているし、自分を知る人も、自分が知っている人も誰もいない
浦島には子供も妻も居たはずだがが、彼らもいない
これは過去に来たのか、未来に来たのか?
寂しくなった浦島は「開けてはならない玉手箱」を開けてしまった
煙が「もわ~」と出てきて、太郎はたちまち老人になってしまった。

*太郎が竜宮城で過ごした期間は3年
*人間界はすでに700年が過ぎていた
これはまさにタイムマシーン、浦島太郎は700年後の世界に来ていた
但し、過去には行けず、現代にも戻れない片道切符のタイムマシーン
竜宮城は人間界に比べて700分の3の速度で時が流れている、しかし竜宮城でも人間界と同じく一日は一日なのだ
人間界での一日は地球が地軸を中心にして一回転する時間であるが、日の出も日の入りもない竜宮城に時間がない、なぜ3年経ったとわかるのかも疑問だが、それはそれで海底には海底の時があるのだろう。
ただ竜宮城と言えども、地球の中に存在しているから場所によって時の流れが変わるとしか言いようがない。

地球は直径が13000kmなのだとか、だが地表からの深さによって形成している土壌や物質が異なり、その自転速度は異なるという
場所によっては超スロー、超高速もあるかもしれない、但し見た者はいない。

そもそも時間など最初から無い、人間が月の回帰や太陽の運動、地球の周回および自転をもとに作り出したのが時間だ
季節は規則正しく巡る、星座も規則正しく一回転する、生物の命だけが個々それぞれに不規則である
人間は気まぐれに生きているが、動物や草花たちは季節や時間に合わせて規則正しく生きている
自然の法則はある、それは天や神があるということだ、人だけがそれに従わず、時に「バベルの塔」のような災いに遭う
この地球も、太陽も我らが住む銀河さえも永遠ではない、数十億年後には跡形もなく消え去り、またあらたな命の巡りが始まる。
人間とは何なのか、想像してほしい
我々は「大地を踏みしめて」とか「その一歩を踏み出せ」という、しかし我々の足は地表についているが、宇宙から見れば地表に足の裏だけでさかさまに貼り付いてぶら下がっている、いわば洞窟のコウモリと同じ生態なのだ
誰も是を不思議と思わないが、地球の引力が無くなれば、たちまち我々も車も犬も猫も宇宙に放り出されてしまう
まことに危うい生き方をしているのだ。


浦島太郎
・善行は報われる
・人生一度は思いがけないことが起る
・どんな遊びも、いつかは飽きる
・月日が経つのは早いもの、楽しい時は尚更速い
・故郷が一番良い場所
・念を押されると逆らって見たくなる
・中身が見えないものは見たくなる
・長生きしても知人がいないのは苦痛
・生うけて死なぬ者はない
・これだけ楽しい思いをしつくして死んでも悔いはない
・浦島太郎の人生は、生まれて、漁師になって、竜宮城で一生遊び続けて、帰ってきて老人になった。





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 40

2024年03月13日 19時55分44秒 | 甲越軍記
 武田大膳大夫兼信濃守晴信は国務を執り、国法を改め、賞罰を厳格に行い、領民のご苦労を慰撫して育成にも力を注を注いだ、その甲斐あって国内は平穏に戻った。

晴信の室は京の公家伝宝輪三条左大臣藤原公頼公のご息女、一昨年輿入れしたが、ほどなくご懐妊され諸寺諸山に安産祈願を申し付けたところ、かいあって五月に男子を出産された。
これで武田家末永く安泰と、長臣諸士の喜びは尋常でないほどであった。
さっそく曽根周防守の妻を乳母と定めて日々足を運ばせた
晴信のわが子への寵愛限りなく、若君成長の後、太郎義信と称する。
同じころ駿府の今川義元の室である晴信の姉(北の方)も同年に男子を出産、後の上総の介氏真である。
武田、今川連枝の間ゆえ互いに福を喜びあった。

信州に村上左衛門尉義清、諏訪信濃守頼茂(一般的には頼重だが、この書は茂を採用)、木曽左馬頭義昌、小笠原大膳大夫長時という四家がある。
武田家とは水と油の関係で幾度となく戦を繰り広げて来た、中でも小笠原は武田とは同じ流れで、新羅三郎義光の孫、逸見冠者義光の二男、加々見次郎遠光の子、相模守清長が小笠原を称した。
それより十五代小笠原修理大夫長宗が信州深志(*松本市)に住んだが、その子が長時である。
この代になり、始めて武田と小笠原は不仲になった、信虎は仁無き人ゆえ容赦なく小笠原を攻め滅ぼそうと幾度となく戦になったからだ
しかも信虎は仁はないと言え勇猛狂気であるから、戦うたびに小笠原の領地は侵略されていく
どのようにして武田家を滅ぼそうかと思い悩んでいる時、武田家の父子の不和内紛を聞き、晴信が信虎を駿府に追い出し武田家中二分した今こそ時至れりと思い、諏訪頼茂に使者を送り
「諏訪殿は武田信虎の婿殿とはいえ、あの暴虐無道の信虎の行いは畜生にも劣るものである、それが息子の晴信に駿府に追いやられた
晴信もまた孝心を持たぬ非道の輩であれば、今こそ我らが力を合わせて武田を滅ぼす絶好の機会である、滅ぼした暁には両家で武田領を二分しようではないか」
これを聞いて頼茂はたちまち同意して兵を起こすことを決めた、この時、同心すべき村上、木曽は国内の騒動を鎮めるために出陣できなかった
諏訪と小笠原合わせて九千六百余騎、天文七年七月上旬に甲州に乱入して、民家を焼き、青稲を刈り取り鎌梨河原、韮崎辺りまで進出してきた。

甲府館では、このとき七夕の祝いを行い、家臣らの礼を受けている最中に報が入った。
晴信は敵の侵入を聞いても少しも慌てず「敵は両家合わせても一万には及ぶまいが、甲州が二つに割れて一致せずと見ての乱入であろう、ならばあえて我らは信虎に同心していた地侍は今回は使わず、かねてより予に忠誠を誓っている腹心の者だけで両家を迎え討とう」と言って、六千余騎を率いて甲府を出立した。


3月というのに

2024年03月13日 09時44分58秒 | ライフスタイル
 3月に入って12日が過ぎたが、初春とは思えない寒さと悪天候ばかり
2月中の季節外れの、あの20度、25度の日と入れ替わったようだ。
昨日は何週間ぶりかに船長に頼まれて手伝いに行って小魚をもらって来たので、干物を作る下ごしらえをして、今朝は良い風が吹いていたので7時頃、外に干した。
ところが9時頃になったら雨がさ~っと降ってきて、雨は干物の大敵だから急いで片づけたが、こんな調子だから洗濯物だって外に干すことが出来なくて女房殿の表情もさえない。

 2月から急に暇になったので、2月はブログを書くことに集中していたが、3月になって雪は無いので人と会うことが多くなった
そんなことで一か月の半分はスケジュールが埋まっている、そして随分と忙しかった。
伯母さんの葬式、30年付き合った友達の送別会、ボランティア仲間との新年会や会合、毎週のドライブ、リース作りもしたし、マラソン、駅伝からも目が離せなかった、連ドラもいよいよ佳境でこれを見るのも一仕事、来週はアンコウ会も待っている
これに加えて大相撲が始まったし、いよいよMLBも始まる、テレビの前に居座る時間も長くなる、時間配分がたいへんだ。





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 39

2024年03月12日 20時14分14秒 | 甲越軍記
信虎の一行がいよいよ今川領に差し掛かると、今川義元自ら護衛の兵を引き連れて舅の出迎えに来ていた。
今川の先導で無事信虎ら一行は駿府の今川館に到着した。

さっそくに信虎を迎える饗宴が開かれて、信虎は歓待に満足げであった
宴が終わると、信虎は一間に案内された、そこは襖から障子、衝立に至るまで竹の絵が配されており、武田館の信虎の「竹の間」を思わせるものであった。
信虎はこれを見て、義元の歓迎ぶりを改めて認識した。

ところが翌日になって見れば、いつの間にか、この部屋に軟禁されていることに気づき「これは如何したことじゃ、無礼にもほどがあろう」と叫ぶと、義元がやってきて言うには「甲州での舅殿の人を人とも思わぬ悪行に臣も領民も皆怖れていることは聞き及んでおります、また長子晴信は際立った才を持ち、且つ孝心にも厚い御曹司であるものを、これを廃去して二子信繁に家督を相続させるのはいかにも大きな過ちでございましょう
このままでは甲州に大乱が起ること間違いなく、某も親戚のこととて危惧いたしました
今日のこの企ては、老臣たちが途方にくれた末のことです、こうなった以上、帰国の念は捨てて舅殿には駿府にて、ごゆるりと余生を過ごし下さい」

義元の、落ち着き払って理路整然とした意見を聞いて、信虎は思いを巡らせて首を垂れた。
異国の地に取り込められて、初めて信虎は我が身を振り返って冷静かつ客観的に己を見つめることが出来た。
そして思うに(孝子である晴信が親を捨てる不孝を行うとは、よくよくのことであっただろう、老臣ともども予を見限ったのは、これこそ身から出た錆、どの面さらして甲州に戻られようか、もはや騒いでみてもむなしい)
そう思うと流石は甲信に名をはせた胆力ある剛勇の大将、きっぱりと今の境遇を受け容れると同時に甲州への未練も断ち切ったのである。
それ以後は甲州での信虎は何であったのかと思うほど大変身を遂げて、心穏やかになり禅宗の僧侶らと交わりを持って禅瞑想にふける日々を送った。
後に今川義元公が桶狭間にてお討ち死になされた時には、晴信が何度も信虎を「甲府にお戻りください」と誘ったにもかかわらず、彼は、それを断り京に上って菊亭(大納言晴季)の基で暮らした。
信虎は長命を保ち、晴信(信玄)が亡くなった翌年に80歳で生涯を終えた。

甲府では、この大事件で騒然としたが、晴信の堂々たる態度、老臣たちの一致した深慮に、まず典厩信繁が歩み寄り兄晴信に臣下の礼を取ると、信虎股肱の臣もまた晴信の家督相続を認めて背く者はなかった。
それらの主だった重臣は晴信御舎弟孫六信連(のぶつら)、小幡織部正虎盛、浅利式部少輔信音、諸角豊後守昌清、教来石民部景政、小山田弥三郎、皆晴信に目通りして忠誠を誓った。
甲州の民も皆これを喜び、これより晴信は武田家第十九代の家督相続を給う
晴信御年十八。


雪降る中のドライブ 北信濃

2024年03月12日 10時11分38秒 | ドライブ

 3月9日、昨日だったらよかったのに、天気だけはどうにも自分の力では変えられない
国道8号沿いの海岸部では富山にしろ新潟にしろ、ほとんど雪を見ることがない
ところが今日の天気予報は長野市周辺は雪のち曇り、松本市付近は晴れのち曇りだったので、長野県に行くなら148号沿いが良いと思って、そっちに回ったが新潟、長野県境の平岩温泉あたりから、どんどん雪が降ってきて道路はもうわだちが出来ている。
これではスタッドレスタイヤでなければ通行不能だ、気が早い人は2月下旬の春の陽気続きの時に履き替えてしまった。
私は毎年3月いっぱいは換えない、何度か痛い目に遭ったことがあるからだ。


長野県の小谷村から白馬村にかけても道路の除雪はまだ始まっておらず、車のわだちを頼りに走った。
時々、片側だけ除雪している場面に出会ったが、不意打ちの感があって間に合わない様子だった。
なにしろ148号は平岩から白馬の間は峠が多い上に道が狭く曲がりくねっているから除雪もままならない
ただトンネルやスノーセットも多いから、その分は救われる


長野へ向かうオリンピック道路と大町に向かう148号の分岐の交差点では、赤信号で停車中の車が追突されて、3台の玉突き事故
雪降る中で、運転手らしき若い男性が数人外に出て、処理の話なのかしていた
スタッドレスだろうが四駆だろうが、スピードが出ていたり、前方不注意で急ブレーキをかければスリップしてすぐには止まらない
最近の車は性能や設備がととのっていて、なかなか事故が起こりにくいが雪に慣れていないと、こんな事故は起きる。

我々世代は、安全性能の低い車で今より遥かに多い雪の道を走っていたから、何度も痛い目に遭って、雪道の走り方を身に着けた。
だから雪道を早く走ろうという気持ちにはならない、軽くブレーキを踏めば止まる速度を意識して走る。





オリンピック道路に入って、小川村まで行ったらもう道路には雪が無くて快適に走れるようになった、路肩や田畑は真っ白だが。
19号に出ると、もう全然心配がない、長野市まで行ったら晴れ間も見えてきてもう148号のあの雪景色が、夢を見ていたのではと思うほど違っている。
だから予報は逆になった、長野市方面は晴れたり曇ったり、148号は大町付近までは雪であった。

長野市の茶臼山まで行って、恐竜公園で散歩しようと思ったが、外に出たら寒すぎる、気温はせいぜい2度くらいしかなさそうだ


それでもう家に帰ることに決めて、千曲川を渡って松代へ出て、須坂経由で帰って来た。




信越県境まではスムーズに来たが、新潟県に入って妙高高原辺りからまた雪が降って来た、但し道路の雪は見事に除雪されていて走るのに全く支障がなかたった。
中郷から高速に入ったが、入り口でタイヤの点検をしていた
上信道から分かれて北陸道に入ったら、もう天気も晴れや曇りになっていて、雪の心配はなかった、もっとも上越市から富山県の朝日町までは約70kmの間に36本のトンネルがあって、雪の心配はほとんどしなくてよい。