森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

それでも朝はやってくる

2011-03-13 18:34:50 | 梢は歌う(日記)

皆様、お元気でいらっしゃいますか?
ご無事でいらっしゃいますか?

あまりに大きな出来事で、何をどう語って良いかも分かりません。タイトルさえ思い浮かばず、朝目覚めたときにふと呟いた言葉をタイトルにしました。

あまりにと言う言葉を繰り返してしまいますが、あまりのショックに「ご冥福を」とか「お見舞い」と言う言葉を言うことが出来ません。

ただ心の底から、祈っています。いろいろな想いで祈っています。時には涙と共に。

 

  ※        ※        ※        ※

 

3月11日14時47分頃、ニュース等では46分頃とありますが、私が揺れを感じたのは47分、大きな地震がありました。

その日はちょうど仕事に日で、3時頃から頭は仕事モードに切り替えて子供たちを待つのです。それのちょっと前、しばし休憩のつもりで珈琲を飲みながら、ツイッターで献血の事をおしゃべりしていました。

そうだ、今年のやりたい事のひとつに「献血」と言う項目を入れよう。
そんな事を暢気に考えていたその時、その揺れはやってきました。

「ああ、地震だわ。」「大きい!!」と私はツイッターに書き込んで、子供たちの部屋に飛んでいきました。

さっき覗いた時に、二人は暢気にお昼寝中だったからです。

ラッタ君は起きて既に椅子に座っていました。

「ヒーター、消しな。」と消して、ルート君の部屋へ。彼も布団の上で起き上がっていました。
「よし、起きているね。これ、結構大きいよ。」と言ったら、揺れが激しくなりました。

再び危ない廊下を通って(物がごちゃごちゃ)危ないキッチンを通って(関所)リビングに戻るのはどうかなととっさに判断し、ルート君の横に行き

「私もここで退避!!」

「人生で初めて経験した大きい揺れ」と言う言葉を他の方のツイートでお見かけしましたが、それは私にとっても同じでした。
あまりに大きく、そして長い。

関東人は、こんな時必ず思います。(他の人を巻き込んでごめんなさい)

「とうとう来た!」と。

何かが落ちる音がガチャンガチャンと聞こえました。ルート君の本箱から本がバラバラ落ちてきました。
しかしルート君の部屋は汚部屋ながら床散乱タイプなので、意外と思っていたより安全なのだと分かりました。狭い部屋でひとりでいるラッタ君に
「そっちは平気~~!?」と声を掛けました。
「おう!」と返事が来ましたが、それでもまだ地震は収まらず、私の胸はキリキリと痛み出す始末です。

私の恐怖指数はもうリミット。思わず子供に抱きついて「怖い。」と震えてしまいました。

でも私はこれを情けないとは思わないのです。家の中の弱者を守る、そう思う事は子供の中の成長以外にあり得ないからです。

「布団を被って。」とルート君が私に言いました。
上を見上げると電気の傘がヘリコプターのプロペラのように回っていました。

何とか揺れが収まった時、
これは俗に言う「関東大震災」みたいなものではないなと思いました。こんな程度で済むはずがないからです。それでも
「怖かったね。まだ揺れているけれど。。。手が震えているよ。。。」と次にツイッターに打ち込んだとき、書いたとおり手が震えていました。

もう無理かなと思いましたが、その後すぐに私は姑に電話を入れてみました。やはり無理!
次は夫、やはり無理。次は姉、やはり、む、いえ、これは通じました。
自分が掛けたくせに、瞬間誰が出たのか分かりませんでした。それだけ混乱していたのです。

横浜の姉も母も無事でした。
それが分かったので、次に私は、義母と夫と二人の妹に「大丈夫?怖かったね。」と言う短い文面でメールを送りました。幸い送るだけは出来ました。いつ見ても良いやと思っていました。

 

もちろん返事はすぐに返ってきませんでした。
だけど義母からはタイミングが良かったのか電話が掛かってきて無事が確認されました。夫よりも先に彼女に連絡をとったのは、私的にも意外な行動でしたが、彼女は独居老人です。テレビが転がり電子レンジは落下して壊れ、食器がいくつも割れたその部屋でひとり、どんなにか怖かったでしょうね。

私より先に夫は私にメールを送っていました。返事が返ってこなくてイライラした模様。「新着メール問い合わせ」をチェックすると言う事に少し経ってから気が付き夫からのメールを受け取った私は、それが返事かと思っていました。

夫の会社はめちゃくちゃ、片付けに時間が掛かって早くは帰ってくる事は出来ませんでしたが、家から近いところに会社があるので帰宅難民にはならずにすみました。

妹の一人は1時間半後に返信が来ました。代官山の高層ビル内に居たらしく、外に飛び出したそうです。

もうひとりの妹は6時間後にメールが来ました。なんと地震のときにディズニーランドにひとりで遊びに行っていて、それから帰り着いたのが午後10時過ぎだったのです。みんなの無事が分かって思わずホッとして涙が出そうになりました。姉の子供たちは、やはり会社に泊まって、朝帰ってきたそうです。大変でしたね。

実家の父はタイミング悪く、何がしの役員会議で伊豆に行っていました。その帰り道、渋滞に巻き込まれて深夜に帰ってきました。

私の地域は、もちろん震源地ではありません。でも大きく揺れれば家族を思う気持ちは同じです。

 

また、みんなの無事確認をぼんやり待っていたわけではなく、私はやる事が出来てしまいました。
普段から、ここはまずいんじゃないかと思っていた玄関の本箱と上に載せておいた季節の飾りをしまう箱は、箱は下に落ち、本箱は傾いでいました。これに倒れられては逃げ道を失います。本を抜き片付けなくてはなりません。

駄目なんじゃないかなと思っていたところは駄目なんだと分かりました。この傾いだ本箱の画像はありませんが、下のは散乱した廊下と玄関の画像です。

   柊を入れておいた花瓶は転がり、まだ仕舞っていなかったお雛様も他の飾りに攻撃されています。

だけど本箱の本たちは飛び出さず、食器も割らずにすみました。それは我が家がマンションの下の方の階だからなのだと思います。

今日、日曜日なのに管理人さんが割れた瀬戸物を捨てて良いとごみ置き場を開けてくれましたが、上層階の人たちは紙袋に二つ三つと入れて運んでいました。

 

他の時間はテレビの情報とツイッターに釘付けでした。
津波の映像は凄く恐ろしかったです。思わずおばさんモード全開になり、「そこで止まるな、走れ走るんだ。」と声が届くわけもないのにテレビの中の車に向かって叫んでしまいました。

その声に、子供たちもやってきて
「何じゃ、この映像は!」と食い入るように見ていました。

「おい、お前、何やってんだよ。家に帰っている場合じゃないんだぞ。」とラッタ君が突然私同様テレビに向かって言いました。すぐ後ろまで津波が迫っているのに、それが見えない車が自分の家の車庫に入っていくのが見えました。

「ああ」と言っていたら、映像は切り替わってしまいました。

あの人たちはどうなってしまったのでしょうか。

夜、夫が車ごと流されたけれど、助かった人も居たらしいと言っていました。

それが、あの人、またあの人でありますようにと祈るばかりです。

 

ところでこんな時にもツイッターに書き込むのかと思った方もいらっしゃるかもしれませんが、そうなんです。ここで書き込まなければ私がツイッターを始めた意味が無いのです。

地震が起きたとき、以前は必ずブログにちょっとだけ情報をアップしていました。でもブログはそこで終わりで、情報が入ってくるわけでもなければさらに発信出来るわけではありません。(読者様が1000人以上の人気ブログ様や、普段からコメント重視で情報のやり取りが活発なブログ様は違うかもしれませんが。)

自分が上に書いたよう体験をした時なら体験談としては書けるかもしれませんが、地震の様に生きた情報が欲しくてさらに発信し続けるような場所には、ブログはあまり適していないと思っていました。地震のような事にはタイムリーな事をツイッターで情報を得て、そして発信したいと思っていました。

だけど情報は得ても、その発信が役に立つかは分かりません。でも役に立ちそうなものはリツイートし続けました。リツートと言うのは、自分の所にまわってきた情報を、他の人にさらに発信するシステムです。

主に帰宅難民になってしまった人たちに、横浜や品川や池袋での解放避難所の情報だったと思います。

私の情報が役に立たずとも、朝方ようやく帰り着いた人の中には、ツイッターがひとりで歩く支えだったと言う人もいらっしゃいました。

ひとりではない。そんな感覚がこういう時には大切な事だと思うのです。

ただ今はちょっと静かにしています。なぜなら東京の帰宅難民の人たちは、ツイッターなどのツールが支えでも、今、被災地の皆様は停電の中に居て、情報を見ることが出来ないと思われるからです。

今私に出来る事は、募金に行く事とそれからテキパキと家事をこなし、早く寝て節電に協力する事かなと思っています。

 

まだまだちょっと大変な日々が続きますが、お気持ち強く持ち、皆様頑張りましょうね!

 

 

 

コメント (4)
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