12日の土曜日の夜、姉から電話がありました。
「一応報告だけするね、」
どきっとしました。
「なあに。」
「おばさんが、昨日亡くなったの。」
「えええ~~、あの地震で!?」
「ううん、肺炎で。」
「なんちゅう空気読まずな死因・・・」
おっと、大失言。
悪魔kiriyはうっかり言ってしまいました。
でも天使kiriyは
「死んでいくのに、空気なんか読めるか、あほ。」と、そんなもうひとりの自分を諌めました。
ずっと昔からこの人たちと両親はお付き合いをしていません。と言うより、最近までどこに住んでいたのか分からなかったのじゃないかしら。この人たちと言うのは、このおばさんとその夫。夫の方が母と一応兄弟なのです。一応とは、小説のような出来事がまあいろいろあるのですよ。両親にとってはかなり辛いような事がこの人たちとあったのかも知れません。ただ私は自分に実害がないと、人を嫌いにはなれない人なので、どう言う訳かこの人たちをあまり嫌いになれなかったのです。
おじさんは頭が良くて飛び級で大学に行ったと言うのが母の自慢でした。今は復活しているその制度ですが、昔もあったみたいなのです。でもそのせいで、母が犠牲になりました。女だからと言う理由。
でもおじさんは頭が良かったかもしれませんが、心は弱くて会社の倒産、子供の障害には立ち向かう事が出来なかったのか、お酒に溺れていきました。私は母から自慢と言うか恨み節と言うか、その飛び級の話を聞くたびに、犠牲になるのに値しない人だと子供ながらはっきりと思いました。はっきり言ってろくでなしです。でも、子供の頃しか会っていませんが、おじさんは私の事が好きでした。
私は次女と言うポジションゆえに、あまり両親に愛されていると自覚が持てない子供でしたので、自分のことを好きになってくれた人の事はやはり嫌いになれないのかもしれません。
そしてその妻は、つまりおばさんは子供の目から見たら、深く物事を考えない人のように思えました。もう言う事がボロカスですが、正直なその時の気持ちです。
それでもそのおばさんは、絶対にアル中に違いないおじさんも見捨てずに
「パパは愉快な人だから。」とパパ、パパと言っていました。
本当は何も考えないようにしていたのかもしれません。夫に失望したり、子供の事で悩んだり、思う事は一杯あったのかもしれないけれど、へらへら笑っている事が、とっても大事な事だったのかもしれません。いやいや、もしかしたらもっと強かな人だったのかもしれません。私はたぶん、何も知らないのかも知れません。
だけど障害のある息子と、家族を支えてくれた娘と4人で肩寄せあって生きてきたのは間違いのないことです。
その最後の日、誰もが余震と津波の恐怖に打ち震え、身近な人の、または見知らぬ誰かの命を思って祈らずにいられなかった日、そんな日におばさんは逝ったのでした。
ちょっと経つとがががががと揺れ、またちょっと経つとゴゴゴゴゴと揺れ、またユサユサと揺れ、そんな中で逝くなんて・・・。
命の炎は消える日は選べない。
この日に消えていった命がひとつ。
「いつ」と言う日にちは忘れてしまっても「どんな日に」と言うのは、みんな忘れないと思います。
おばさん、静かに安らかに眠ってね。
※ ※ ※ ※
一つ前の記事で、まだ「ご冥福を」と言う言葉を使えないと、私は書きました。こうして書くことは出来ますが、それは言葉としてであって、言っているわけではないのです。どうしてなんだろうと思っていましたら、テレビを見ていて分かったような気がしました。この人たちはまだ家族の元に帰っていないからかも知れないなと思いました。
ようやく津波の心配が去って引き上げが始まったと思いますが、目視でも200から300あった溺死体と言われていましたが、1000人以上の遺体の確認とか安否不明が一万人以上とさらに言われています。
でも家族の方々は、その命を信じて待っていると思うのです。
まだまだ諦め切れません。奇跡がどうぞ一つでも二つでも数多く起きますようにと、お祈りいたします。