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何度も書き込んで必要もないアピールをしているようで、なんだか申し訳ないような気もする「月一実家帰り」。その時に、ついでに横浜で少し遊んでこようかなと思っている私です。
ところが姉が、なーんとなく言うには、「どっちがついでなんだか・・・。」
いや、そんな事はないですよ。
こっちがついでです(^_^;)
今回も、いつも遊んでくださる星子さんが相棒です。
その彼女の、前からのリクエストによって、「三渓園」に行って参りました。
「三渓園」は懐かしい場所です。
小学2年生の時に遠足で行きました。その頃は今は埋め立てられてしまいましたが、裏手が浜辺で潮干狩りも出来たのです。袋いっぱいに取れる子もいれば、私のように3つか5つくらいしか取れない子もいました。だけどそんなちょっとのアサリを、母は無駄にはせずにみそ汁の中に入れてくれたので嬉しかったです。
それで私にとって、「三渓園」は楽しい所と言う風に刷り込まれてしまいました。
ルート君が生まれて実家に帰っていた時に、小さな彼を母に預けて、夫とやはり小さなラッタ君と三人で、楽しい所と思い込んでいる「三渓園」に行きました。
この三人のお出掛けも楽しかったと言う記憶があるものの、何をしたのか何を見たのかまったく覚えていません。ただ帰ってみたら、母がルート君のミルクの量を間違えていてメチャクチャ濃いミルクをあげていて、吃驚し、一気に憂鬱になってしまったのです。このせいで記憶がすっ飛んだのかも知れませんね。
で、それ以来、「三渓園」には来ていません。
という事は30年以上って事ですね。
そして「三渓園」はやっぱり楽しい所でした。
今の私が好きな場所です。
正直な事を言うと、まるで何も覚えていなかったのです。
むしろ若いパパさんとママさんと小さな子供がやって来て、「楽しかったのかな ?」と過去の自分たちを不思議に思いました。
いいえ、たぶん私は昔から、こういう場所が好きだったのかも知れません。
それに今は子供たちが来ても楽しめる工夫もされているようです。
東京国立博物館でもやっていた、いま流行りの「謎解き」、ここでもやっていました。
上の画像は、もしかしたら私の手が映りこんでしまって、なにげに不気味な感じになってしまったかも。
この絵の中に亀は居ないのかしら。
ジーッ!!
居ないような・・・・
でも池には亀がたくさん居たのですよ。
蓮の花はやっぱり終わっていました。
それでもハグレは居ないかと、じろじろ見ていました。ハグレと言うのは、後からマイペースでポツンと咲いている花の事です。よそでは通用しない言葉ですが、私がそういうと、ちゃんと星子さんには説明なしで通じました。だけど土も乾いてしまっていて、ハグレの蓮もいなかったようです。
同じ事を睡蓮でしていましたら、ハグレ睡蓮を発見。
かなり遠い場所で、まったく綺麗に撮れませんでしたが、咲いていてくれてありがとうと思いました。
《鶴翔閣》結婚式場などに使われるみたいです。
今って、廃墟とか撮るのが流行ってませんか。「三渓園」は古い建物がいっぱい。でもちゃんと保護されているので、皆綺麗です。だけど探すと(実は何も探していません。目の前にありました。)、こんな場所にも行きあたるのです。
何気なく撮った《御門》
「三渓園」のHPの説明によると
『京都・平安神宮近くの寺院・西方寺にあった、江戸時代の宝暦5年・1708年ごろに造られた門です。三溪園には大正時代の初めごろに移築されました。
戦前、三溪園では、一般に開放されていた外苑に対して、内苑は原家の私的なエリアとして使用され一般の人は立ち入ることができませんでした。その境界にあった建物がこの御門です。この先にある臨春閣は当時、豊臣秀吉が建てた桃山時代の聚楽第の遺構とされ、「桃山御殿」と呼ばれていたため、この門も「桃山御門」、または「桃山御殿門」と呼ばれていました。 』
ちょっと悔しかった《臨春閣》
と言うのは、この場所の一般公開が、私たちの訪れた16日の翌日の17日からだったのです。だけど、特別招待客の先行見学会があったのか、開いていて中には人が。関係者以外はダメという事で、見張りの人が立っていました。別にみ針の人の好きを狙って入ろうなんて、露ほども思っていないわけですが、ちょっとだけ寂しい気持ちになりました。
でも私的には、外観でかなりの満足をしました。
《旧天瑞寺寿塔覆堂 (きゅうてんずいじじゅとうおおいどう)》
『天正19年・1591年豊臣秀吉が、病気から快復した母・大政所の長寿を祈って建てた、生前墓の寿塔を覆っていた建物です。』
遠くに見えるのは《聴秋閣 (ちょうしゅうかく)》
『徳川家光の上洛に際し、元和9年・1623年に二条城内に建てられ、のちに家光の乳母であった春日局がこれを与えられたといわれ、嫁ぎ先の稲葉家の江戸屋敷に伝えられていました。三溪園への移築は大正11年・1922年で、これをもって三溪園は完成となりました。』
この建物の横には、小川が流れ、秋には紅葉した木々に囲まれ、まさに秋を聴く庵と言う感じがしました。
その脇の道をフゥフゥと上っていくと、《月下殿》に出ます。
『徳川家康が慶長8年・1603年に京都伏見城内に建てた諸大名の控えの間であったと伝えられています。』
『原三溪の構想によって大正7年・1918年に建てられた、一畳台目、すなわち一畳と約4分の3の大きさの畳からなる極めて小さな茶室で、月華殿と連結されています。《金毛窟》の名前は、床柱に京都・大徳寺の三門・金毛閣の高欄の手すりの古材を用いていることにちなみます。 』
《天授院 (てんじゅいん)》
『鎌倉の建長寺近くにあった心平寺の地蔵堂の建物と考えられています。禅宗様を主体とし、全体に室町時代の様式が見られますが、修理の際に慶安4年・1651年の墨書銘が確認され、江戸時代の初めごろに建てられたことが明らかになりました。
三溪園には大正5年・1916年に移築され、原家の持仏堂として用いられました。天授院とは、三溪の先代、原家初代・善三郎の法号です。 』
凄いですね。自分の家の敷地内に持仏堂があるなんて・・・。
こんな風に、「三渓園」には移築された、由緒ある建物がたくさんあります。ほとんどが重要文化財か市指定有形文化財です。
この他にも、「春草廬 (しゅんそうろ)」とか「蓮華院 」などもありましたが、だいたいこの頃になると、少々飽きて、写真なども撮らなくなったりする私。
だけど、こう言うものを見るのは好きなのです。
「なかなか鬼瓦が怖いわね。」と言うと、「柿もあるわね。」と言うのでよく見ると、「桃じゃないかしら。」となりました。
「鬼と桃」。
なにげにドラマチックじゃないかな~ ?
そして三重塔を目指して登っていく私たち。
だけどその前に行ったのは、展望台。
目の前に広がった海の風景に、心が晴れ晴れとしたのに、なんだか画像は、手前にたちこめていた黒い雲のせいで、暗い印象になってしまいました。
そして《旧燈明寺三重塔 (きゅうとうみょうじさんじゅうのとう)》
降りて来て、もう閉まっていた茶店の写真も撮りました。
展望台に居た時に、警らの人が巡回していて、あと30分で閉まりますと教えに来てくれました。
たぶん茶店のお国も建物があって、「旧燈明寺本堂 」とか「旧東慶寺仏殿 」などを見逃したと思います。
そして少々の野の花マニアタイム
三色のミズヒキ。咲く前のアザミ。秋の花はひっそりとしていますね。
これ、足元のゴミを間違えて写したの ?
と、聞かれそうな画像ですが、単に写真を撮る腕がないだけです。後、壊れかけたスマホ殿となかなかお別れしないからだと思います。
可愛らしい紫の花が咲き誇っていたのです。土など見えないくらいに蔓延っていたら、きっと可愛らしく色づいて見えたと思います。
下の写真も、何を撮っているのかと聞かれそうですね。
これは、咲き始めの萩の花です。萩のように楚々とした花には、ずうずうしくらいに咲き誇って頂きたいものです。
この日は風が吹くと気持ちがいいと言うものの、お日様があるとこは、まだまだ暑かったです。それでも季節は、ちゃんと秋の気配・・・・。
「三渓園」、本当に久しぶりに来ましたが、やっぱりこの場所は、私にとって楽しい場所でした。
そして美しかったです。
ちょっとだけ残念だったのは、帰りに買おうと思っていた干菓子のお土産が買えなかったことくらいかしら・・。
(干菓子、好きなんです^^)
今、外は凄い雨です。
(9月24日1時半ごろ)