「ハムレット」観劇日記【その1】の続きです。
〈この記事は敬称略で書かせていただいています。〉
【その1】の最後に
「次に私が感じた事は、ゆっくりパンフレットを読んでいたら、全く思った事と同じことが書かれていました。
亀山郁夫氏の「『ハムレット』、または擬制としての父殺し」のページに書いてあることなので・・・」と書いてしまいましたが、よくよく考えてみれば、すこぶる傲慢な発言であったかと思い反省しました。氏のコラムは内容充実、すこぶる説得力があるのに、さもそれに乗っかって「同じです。」とはいかにも図々しいかも。
思った事をどうせ書ききれないような気もするので、結構薄い事を言ってしまうかもしれませんが、逆に読みやすいかもしれませんね。
舞台や物語にたびたび登場してくる「エディプスコンプレックス」と言うテーマ。
舞台冒頭で権力も愛する妻も手に入れて上機嫌なクローディアスが、優しい声でハムレットに語り掛けます。
「ハムレット、わが甥にして我が倅。」
と、ここで、私は片隅にいてまるで存在感のないかのようなハムレットに気が付くと言う始末。
―えっ!? そこにいたのか。
と私は思ってしまいました。光の中のクローディアスと闇の中に落ちているハムレット。
その対比が素晴らしい。
でも・・・しかし、見えにくい。
思うに2階以降の右側の席からは全滅だなあ。
と、舞台の構図的な不満を少々思いつつ、この時感じたのは、ハムレットの心痛は尊敬していた父王の死よりもあっという間に再婚してしまった母への失望だったと思いました。
ハムレットのグチグチとしたすこぶる分かりやすいセリフが続きます。
ワタクシ、ちょっとだけ思ってしまいましたよ。クローディアスももっと上手くやれば良かったのにって。
急いては事を仕損じるって言うじゃないですか。権力と妻を同時にではなく、権力そして次はハムレット、そして妻の順で懐柔して行けば上手くいったかも。
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」ってやつですよ。
と、何で悪い奴の反省点をチェックしてるんだ💦
まあ、ハムレットは馬にはならないタイプだと思いますが。
「ハムレット」のお芝居の中で、無垢なる人であるオフェーリアよりもダントツにエロスの神は母、ガートルードに宿っているように思います。
愛してやまない母を褥に招くことが出来るのは、尊敬してやまない父だったから許せることだったのです。それがその死から時を空けずに母は近親相関の褥に赴くのです。
ハムレットの絶望はそこにあったと思います。
この近親相関と言う考え方は、今の血の繋がりで言う関係ではなくて、その当時では血の繋がりのあった兄弟と結ばれることも指して言っていて、あまり良い事ではなかったのですね。要するに「恥」でもあったわけ。
物語の中では、あまりガートルートの気持ちは表現されていません。あの母は何を思ってクローディアスに嫁いだのかー。
寝室でハムレットに責められた時に、おのれの気持ちに初めて向き合ったのでしょうか。欲望のままに受け入れたのだと。
ホレイシオとその他の目撃情報があるから、父王の亡霊は亡霊なんだと思うのですが、やっぱり私的には、その亡霊はハムレットの深層心理が映し出している鏡のようなものに感じてしまうのですよね。(と言うか、前の記事でも書きましたがシェークスピアの時代だったら亡霊は亡霊じゃないと舞台として成り立たないですよね、きっと。〉
だからその亡霊は言うのです。
「決して母を傷つけ追い詰めてはならない。」と。
死してまでそして裏切られても、それでも妻を愛している父王。だけれどそれはハムレットの本意ではないからなのではないかと思えるのでした。
だけれど母の寝室で、ハムレットは責めに攻めまくります。
するとそこにまた亡霊が現れるのですね。
だけどその亡霊は母には見えないのです。
亡霊は父王の姿を借りたハムレットだから・・・・・・?
そしてここでは藤原竜也の「貴女程の歳の者ならば・・・」と言う所からガートルートを責めまくっていくところ見ごたえがありましたね。
思うに「ハムレット」と言う物語は凄い傑作の物語なんですね。
そしてシェークスピアは凄い!!
古典を知ると言うことは大事な事なんだと本当に思います。
なぜ4世紀以上も人々は彼の物語に惹かれ演じ続けられてきたのかー。
それは面白さが網羅しているからなのかも知れません。
クローディアスの懺悔を試みると言うか苦行の祈りをしようとしていると言うのか、あのシーンも好きです。
そこにたまたま通りかかってしまうハムレット。復讐のチャーンス!!
だけれどハムレットはクローディアスが本当に祈っていると思って、留まるのですよね。
この物語は少々の宗教的理解がないと、「良く分からないけれど、まっ、いいか」と言う部分が出て来てしまいそうです。
今そこで殺してしまっては、彼は許されて天上に上ってしまうと思ったからと言う解釈でいいのでしょうか。
最初の亡霊との会話で善の王で偉大だった父王が、地獄の業火に焼かれると嘆いたのは、唐突に殺されて懺悔をしていなかったから。
なんて酷い事と嘆くハムレットが印象的でした。
だけどハムレットがその場を立ち去った後、クローディアスはその本性をむき出しにするのです。
ちっとも悔いてないから懺悔など出来ないと。
彼は彼なりにその時までは努力してきたのだと思うのですが、その本性は闇の人。
そこからクライマックスまで迷うことなく「悪」と言うのが分かりやすくていいですよね。
それからオフェーリアの墓を掘る墓守との絡みのシーンも好きです。
男でもなく女でもなく、女であった者の墓。
なんだか悲しいセリフです。
墓を掘ると、前の遺体の骨が出てくると言うのも凄まじいなと思うのですが、その骨がハムレットにも縁のあったものの骨だったと言うシーンのセリフにも心惹かれるものがありました。
「To be or not to be, that is the question.」と言うセリフを
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。」と訳したのは、訳者が素晴らしいのだと思います。だけれどこの「生きる」「死ぬ」と言う言葉が浮かんできたのは、この物語全体にたびたび登場してくる「生」と「死」の対比のセリフなのではないかと感じました。
「この者は生きている時には・・・」
「この老人は生きている時には・・・
死んでやっと・・・・」
みたいな。
常に生と死が見え隠れしている「ハムレット」。
ああ、見ごたえ十分だったなと満足してさい芸を後にしようとしたその出口で、背後からおばさま方の怒りの声が聞こえてきました。
「本当よね。もう怒りのレベルよね。」
何を怒っていらっしゃるのかと思わず耳ダンボ。
「何を言ってるのか、何も聞こえないのよ。もうイライラしちゃって。」
ああ、なるほど~と思いました。
フォーティンブラスの声は、私当たりの年でギリギリです。かなり耳を澄ましてしまいました。
人は悲しいけれど、年と共に視覚も失っていくけれど聴力もなんですよね。
どうも演出が、劇場中に聞こえてしかも抑える声と言うものらしいのですが、そこはちょっと厳しいものがまだあるかもですね。
私は一応聞こえていたのですが、後からパンフレットの内田健司ーフォーティンブラスのページを読むと、彼は血気盛んで世間知らずの若者らしいのですが、彼の話し方では凄く物静かで知略に富み理性的な若者にしか感じられなかったと言う点においては微妙なところかもしれません。
でも内田健司は素敵な人ですね。
「ハムレット観劇日記」は【その3】まで続きます。
オフェーリアは、心惹かれる大切な人。来週には満島ひかりの特集があるみたいなので、それを見てから書きたいと思います。
あっ、そうそう。
シェークスピアって凄いなあとぼんやり考えていたら思い出しました。
彼の生家に行ったのでした。
その記事は→こちらです。