今、私が時々思い後悔している事は、
それはどうしてもっと義父の話を聞いておかなかったのかと言う事。
父の話をもっと聞いておかなかったのかと言う事。
さらにさかのぼって祖母の話をたくさん聞いておかなかったのかと言う事なんです。
義父は生前、お酒を飲みながらこう言っていました。
「穴ばっかし掘らされていた。その穴をずっと朝から晩まで掘っていたら戦争が終わってしまった。」と。
「へえ」と思いながら、その穴の私の脳内イメージは良く戦争に出てくる塹壕と言うもの。
穴を掘っている間に戦争が終わっていたのなら、なんだかラッキーな感じもしたのでした。
でもその義父が亡くなってずっと経ってから「硫黄島からの手紙」と言う映画を見て、父の掘っていた穴と言うのは、この硫黄島のような穴ではなかったのかと、映画を見ながらハタとそう気がついたのでした。
もっと深く彼にその時の様子を聞くべきだったのだと思っても、今となっては後の祭りです。
それと同じように父の話、祖母の話をもっと聞いておくべきだったのだと思う時があるのです。
※ ※ ※
13日から夏休みの我が家の下の息子、ルート君が、
「やっぱし、休みにはばーちゃんの顔を見に行っとかなくちゃな。」と言いました。
このばーちゃんと言うのは、横浜で暮らしている私の母の事です。夫の母は独居老人ですが、なんたってスープが冷めないような〈多少は温くなる〉近くに住んでいるので、会う率は高いのです。
そんな可愛らしい事を言うので、14日の日に二人で横浜に行ってきました。
トップ画像は、その時母がごちそうしてくれたもので、ルート君はすき焼き膳。
私のはデザート付
ミニかき氷です。
昔はそのまま飲む抹茶は大好きだけれど、それのあれやこれやのバリエーションのモノは一切受け付けられなかった私なのに、時がその嗜好も変えて、抹茶味のあれやこれやが好きになりました。
13日は義父の墓参りに行ってお墓も綺麗にしてきました。
本来ならば父のお墓にも行きたいところですが、日帰りの予定で、ちょっと自分の疲労度を考えると無理があると感じたので、仏壇に長々と手を合わせる事にしました。
そんなわけでお供物になるようなものを買い求め、ついでに父も気に入っていたプリンなども買い求めました。
治一郎のバウムクーヘン | |
治一郎 | |
治一郎 |
ご参考に。
お供物は、このバームクーヘンとラスクのセット。私たちのおやつはプリン。
付いていたので、かき氷を食べてしまったけれど、更におやつのプリンまであったら、もう完璧と思い食事の後は実家にてのんびりする事にしました。
ところが姉は、私たちが来るからと人参ケーキを焼いておいてくれていました、母は母で山梨の父の弟さんが送ってくれた巨峰を洗って出してくれたのです。
その他にもやはり帰省してきた姉の長男君のお土産とか溢れるばかりのおやつ三昧。
でもそのテーブルで語られた話は、私たち家族の歴史です。
母や父の家族の中でも疎遠になっていってしまった彼らの兄たちの話。
それにはちゃんと理由はあるものの、残念でたまらない部分でもあります。だから父の願いは最後まで「みんな仲良く」だったのに違いありません。
家族の歴史と言うものには、恥部と暗部がつきものなのです。
だけれどもしもそこに蓋をして、次の世代に語っていくならば、家族の闇の部分に存在した人たちは記憶の底に埋没して言ってしまうでしょう。
もちろん誰かが誰かのエピソードを語れば、それは話した人の主観に基づくものになってしまうのは確かです。
でもそれを知りそれを覚えていようと思うのは、語られる人の家族に他ならないのでそれで良いのだなんて事は、私は思いませんが、その主観が異様に捻じ曲がっているものは、聞いていてかなりの違和感が付きまとうものなのだと言う事を、私は子供の頃から聞かされていた母のある話で身に染みて感じているのです。
さりげなく言わせていただければ、それは家族の会話であっても国レベルの話であってもだと思います。
母のある話と言うのは、とてもかき氷の画像と一緒に語る事が出来るものではありませんが、私たちの全く知らない揚子江を泳いでソ連兵から逃げた祖母の兄の話とか、外孫には全く愛情を抱かなかった母の祖母の疎開時のいじわるの話とか、もうそれは母にしか語ることの出来ない話です。
そしていつものように、母の父の死んだ話は簡単に語られて次にお話は進もうとしました。
その時私はその話を止めて
「クルクルクル。はい、巻き戻しました。おじいちゃんのお話をしましょう。」と言いました。
母の父は戦争に行き部隊が全滅しその中でたった3人生き残ったうちの一人でした。防空壕のような洞穴の中で生き延びて、アメリカ兵の「戦争は終わりました。」の呼びかけで投降したのだそうです。 〈本当かな?〉
その防空壕の中でひっそりと身をひそめながら彼は何をしていたのかと言うと、B29の残骸を切って丸めて指輪を何個も作っていたのだそうです。 〈たくましいじゃないか!〉
でも疎開先の福島に戻って来た彼は栄養失調で、そして体もですが心も貧相に様変わりしていました。
祖母は私の目から見たら、かなりの女傑でした。でもその祖母でさえ彼を支え切れず毎日喧嘩ばかりしていたと言うのです。
思春期一歩前の少女だった母には、ずっと一緒に暮らしてこなかった男性は愛すべき父には思えなかったのは、母の母が彼を愛してなかったからだと思います。
母の母、つまり祖母は疎開先を引き払うために家を探すと言う名目で、先に一人横浜に帰ってしまいました。
意地悪ばあさんの家で取り残された子供たち・・・・。
そこで私が子供の頃からうんざりするほど聞かされてきたエピソードが語られました。母屋で食べているトウモロコシ。それを見ながら幼い腹ペコの弟は「僕も食べたいよ」と母にすがるのです。意地悪ばあさんは外孫にはくれません。
切なくて畑の畦道を歩いていると、農家のおばさんが何本ものトウモロコシをもいでいました。
母が「そんなにたくさんどうするの。」と聞くと
「べこにあげるんだ。」と言いました。
べこというのは牛の事です。
「それだったら、少しだけ分けてくれないかしら。」と母は言いました。
その図々しい申し出に農家のおばさんは、お前は何々の家のもんかと尋ねました。そうだと言うと、
好きなだけ持っていけと言ってくれたのだと思います。
縁故疎開でも苦労した母たち。近隣の人たちはそれを知っていて気の毒に思っていた人もいたのですね。
でも私が驚いたのは、その話に母の父が登場してきたことです。
伏せって寝てばかりいた母の父も一緒にそのトウモロコシを喜んで食べたと母は初めて語りました。
横浜に帰ってきた後、母の父は祖母の家を出て最果ての地北海道に流れていき、そこで死にました。
でも母には、なぜ父が家を出て北海道に行ったのか、全く知らない事だったのです。一度も母の母、祖母に聞くこともなかったのです。
私は言いました。
「思うに、職を求めて炭鉱に行ったんじゃなかったのかしら。いわゆるタコ部屋ってやつよ。」
なんとなく納得するみんな。
こうして家族の歴史と言うのは、良く分からない部分をその時の想像力で穴埋めされてしまうのでした。
ああ、真実はどこに・・・・。
死んだと言う知らせに、女手一つで家族を養っていた祖母に北海道に行くようなお金がありません。お手紙を書いて遺骨を送ってもらう事にしました。
布団にくるまれて、遺骨は送られてきました。
彼が家を出ていく時に、誰もがそっぽを向いていた中、母が握り飯を作って見送りました。
その事を母の父は喜んで、途中で立ち寄った福島の親戚に嬉しそうに報告していたのです。そしてくるまれた布団の中の遺骨とともに1通の手紙が入っていました。
母への短い手紙。
それは母の父の、母への感謝と幸せを祈るものでした。
「なぜ!?」
私と姉は声をそろえて言いました。
そんな話は初めて聞きました。
そこで私はある事を言ったのですが、それは上記にあげた母の「ある話」に関係のあることなので、そこはスルーなのですが、その後、私は言いました。
「私はね、ずっと物心がついてから、ずっと私には祖父は山梨のおじいちゃん一人しかいないような気がしていたんだよ。それは生まれる前に死んでいたからじゃないんだよ。でも今日、私には祖父が二人になったような気がする。初めて。」
それは母の中に父がいなかったからだと、私は思います。
私の祖父はやっとの思いで生き延びましたが、その時のトラウマから抜け出せず帰国した後も、家族や社会の中に溶け込めませんでした。体力も回復せず北海道に流れていきそこで死にました。
もしかしたら自殺であったかもしれません。
― おじいちゃん。おじいちゃんは、戦争にゆっくりと殺されてしまったんだね。
そう私は思いました。
そしてまだ子供だった母にとっても、心まで病んでいたような父をかばい切れるわけもなく、そして好きにもなれなくて、そして遠い最果ての地で死なせてしまったのは蓋をしたい出来事だったのではないのかと思いました。
迎える家族の事はあまり語られることはないかもしれません。語られたとしても良妻賢母の女性像ばかりが流布しているのではないでしょうか。
母への短い手紙は、本当は祖母にあてたものではなかったのかと私はチラリと思いました。そこに母への感謝と幸せを願う言葉が添えられていたのだと思います。
でなかったら、ずっと北海道に行くのが祖母の悲願であったわけですが、そうはならないと思うからです。そしてその祖母は、その悲願の北海道旅行の翌年胃がんになって死にました。まだ70歳前でした。
祖母が席を立った後、おやつをむしゃむしゃ食べていたルート君は言いました。
「腹もいっぱいだが、ばーちゃんのありがたいような話がなかなか重くて、そっちも胸も腹もいっぱいだ。」
「だなー。」と笑いながら私。
※ ※ ※
夜はピザを姉が取ってくれると言いましたが、義母がウナギを買ってくれると言うので4時ぐらいに横浜の家を出て、今度は夫の実家で夕食を食べました。
今年はまたウナギが高いので、姉が
「そりゃ、ウナギには負けるわね。」と笑って駅まで見送ってくれました。
夫の母が用意してくれた夕食はいろいろ美味しくて、またもお腹がいっぱいです。
よせばいいのに、夜、体重計に乗って・・・・・
まっ、予想通りです。