夫殿が2012年の夏に「めだか親父」になってから、みんなが出かけて部屋の中に私一人になっても、一人であって一人ではないと言う毎日が始まったように思います。
つまり、私と猫、そしてメダカたちの命の熱量が部屋の中に放射されているからです。
一人で家にいても、あまり寂しくないのはそんな理由もあるからなのかなと、時々思う私です
めだかの次はエビ、そして2013年のお正月には、すでにどじょうも我が家の住人になっていたようです。
この「ようです」と言うのは、これらの趣味は全く以て旦那だけのものであり、私はノータッチ。だから詳しい事は忘れてしまったのですね。
で、自分のブログで検索して確認しちゃいました。→「ああなってこうなって〈その2〉」
一応リンクしましたが、そこにリンクしてあるこれまた過去記事を読むと、我が家の水槽が増えていく経路がある程度分かります。「うちの旦那は趣味がなくて」と嘆かれている奥様には、ひとたびそのご主人がめだかなどの趣味を持つとどういう流れになっていくのかが少々分かるとは思います。
自分の場所だったところが占拠されることは、まずあり得る事なんじゃないかなと思います。
それでも趣味がないよりかはあった方が、今後の老後と言う未来のためにもいいと思うんですよね。
そのように理解のある事を言ってる私ですが、めだかには全く興味が持てず綺麗なオブジェのようにしか感じないのですが。もちろん単体では見分けがつかず名前などついてはいません。
だけどある日どじょうが死にました。
2匹しか飼ってなかったのですが、そのうちの1匹が死んでしまったのです。2年近く生きてきたからそんなものなのかと思いました。
どじょうは夜行性で夜になると二匹で狂喜乱舞の踊りのように泳ぎ回ります。最初はめだかの水槽に一緒に入れてましたが、その派手な踊り泳ぎの為に、2匹だけ別の水槽に入れたのでした〈彼が〉。
1匹が死んでしまった後、もう1匹の姿が見えなくなりました。それも何日も何日もです。
「砂の中に潜って、死んでしまったんだな。」と夫。
そして何もいなくなった水槽は緑の藻に浸食されて、汚い死の水槽になっていきました。
ある日、夫が決意したのか時間を作って、水槽のお掃除をしました。
砂の中のもう一匹の死骸を見つけようとして手を入れた時、
「あっ、いた。」と言いましたが、次の言葉は「わっ、生きてる。」だったのです。
上の「何日も何日も」が何も記録がないので詳しくは書けない所がすごく悔しいのですが、死んでしまったと思うくらいなので私の中では1か月以上と言う感覚なのです。でももしかしたらたったの10日ぐらいだったのかもしれません。
それでもそのどじょうが躍るのを止めて砂の中でじぃぃぃっとしていたのは事実です。
人以外の生き物は、その仲間同士の意思伝達の手段を何らかの形で持っているのに違いありません。元は人間だって似たようなものだったと思います。だけれど、人は住まう所を建て住まう以外の建造物を天に向けて築いていったのです。そんな文明の中で必要に迫られて幾つもの言葉を生み出していったのが人間。だけど、そんな人間以外の生き物はそういう選択をしてこなかったんですね。
それって不思議といえば不思議じゃないですか。
でも言葉を生み出してこなかった生き物も、きっと感情に当てはまる何かを持っていなかっただけで、「悲しい」「寂しい」と同じようなものを感じていたのではないのかと、私には思えてならなかったのです。
たった2匹しかいなかった水槽の中が世界のすべて。
それなのに居なくなってしまった仲間。
ー寂しいよ、悲しいよ。死んでしまいたいよ。
じっと砂の中に潜って、本能には負けて砂の中に落ちてくる苔やプランクトンを食べてしまうけれど、本当は静かな自殺の途中だったのかも知れないとそんなふうに感じてしまったのでした。
「あっ、生きてる!」と夫は急いでメダカがたくさんいる水槽に入れました。
するとどじょうは静かに泳ぎだし、しばらくするとまた踊るように泳ぎだしました。まるでそれは異種であっても水の中でようやく仲間を見つけ狂喜の舞を踊っているように見えたのでした。
―やあ、みんな、やあ、みんな。
僕はひとりじゃなかったんだね。―
ああ、そうだ。「僕」ではダメなんです。
だって私、このどじょうに名前をつけたんです。
「メグちゃん」と私が呼んでいたら、夫が
「メグちゃん? なんでそんな名前 ?」と言うので
「だって、『どじょっこメグちゃん』よ。」
「そ、それは『ど』じゃなくて『ま』だろ。」って。
チャンチャン。
メグちゃんに仲間が増えました。
なかなかどじょうって売っていなかったんですよ。でも先日ホームセンターに行ったら居たのです。
増えたのは1匹ですが、2匹は時々寄り添っています。
エビさんも