京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 紀伊路はよろづ春色

2011年04月03日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
    たわわに実るみかんの木々に触れんばかりにして歩いた山中の小道だった。バスの車窓から常緑の葉が艶やかに陽ざしを受けて映えているのが見える。白い小さな花が咲くのは来月だろうか。

 
             光明寺                    若宮社遺跡
2日朝の予報では和歌山県18度、温かい気温の紀伊路の桜は行く先々で一足早く咲いていた。スターチスの花も開け放ったハウスに覗ける。そこにカスミソウ、カーネーションが新たに加わってきているのに母の日が近いのを思った。畑にストックの花色が明るい。ひと月たってソラマメが大きく生りだしていた、絹さやも…。

    タツミソウ
石垣のすき間や土手に、足元にもスミレは咲き乱れる。小さな紫色をした「ジゴクノカマノフタ」とか恐ろしげな名がついた花が、地に這うように咲いてもいた。れんげの花も見える。紀伊路は春色満色の感。
かわいい、すでに練習中とは思えない上手なウグイスの声が聞こえてきたりする。
        梅林

             
ハウスの向こうに少し靄がかかったような切目の海、遠くの岬や島影がかすんで見える。だが空気も陽ざしも明るい。白波も見えない雄大な紀伊水道の大洋と、黒潮洗う太平洋がぶつかる地、「潮の目」とは良く知るが、ここはそうした「切り目」でこの地の名の由来だと聞いた。

         万葉歌碑
    
      磐代の浜松が枝を引き結び  真幸(まさき)くあらばまた還り見む 
遊離する魂を草木の霊力に頼って結びとめて、生命の長久を祈る「結び松」の信仰。
囚われの身でこの地を旅行く有間皇子、行く先に死を予感させる中にあって「真幸くあらば」、もしも無事であるならばと詠う、19歳。
洋々たる海原を前にしては皇子の無念さを今に思いやるよりも、海を見ることが少ない者の心弾みのほうが大きかった。

  
       切目中山王子          岩代王子            三鍋王子
18128歩、疲れをこらえ足など痛くない振りしてバスに乗り込むことも無かった。一日通して気分は上々、爽快だった。
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 海のきらめきを…

2011年04月01日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
明日は熊野古道ウォーキングの第7回目。

               あんずの花
どこと言って悪いところもないはずだが、どうも気分が低調で気が上がらないひと月だった。ぶらっと陽気に誘われるように外へ出た午後。気温は一気に上がり、うっすらと汗ばむほどの陽気となった。
キャベツの畑にモンシロチョウが飛んでいた。桜もボチボチ楽しめるし、杏の花のまあ美しかったこと。


            (左・あんずの花          右・さくら)
3月5日、6回目の終着地は、駅前の店に大きなうつぼの開きがぶら下がるJRきのくに線の切目駅だった。この度の大震災のおよそ一週間前のこと。南海大地震の津波で大きな被害が出た印南漁港に立っていたのが、地震発生時刻の頃だった。

明日、切目駅の先は鉄道も国道(42号線)も海岸沿いへと回っているが、古道は切目から榎木峠への急坂を越え、海沿いの道を経て岩代(岩代王子)へ向かっている。
南部の梅林があり、やがて海がめが産卵にやってくるほどの美しい海とされる千里の浜を歩く。ゆるやかな上り坂で南部の石仏まで、三鍋大橋を渡ってしばらく、三鍋王子が終着地となる11.5kmの行程だ。

きれいな海。海のきらめきを、気持ちよくのんびりと、穏やかに、目に焼き付けておこう。
有間皇子や中皇命が、道の神に対して松が枝を結んだ鎮魂の習俗のお話も得られることだろうと期待している。
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 海沿いに歴史の足あと(2)

2011年03月07日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
             
塩屋王子から切目王子まで12.4キロのコースは、樹齢600年の木の気を浴びてスタートした。
穏やかな日和には一部海路を使ったとも言われる万葉人だが、日高川を渡って塩屋から南へは海沿いの道を切目にまで至る。

 
              腰賭けた石(十)      草履を脱ぎ捨て(十二)  
真砂の里から田辺、印南と安珍を追い走り続ける清姫は切目付近で追いついた(八)   
     清姫が自分の姿を映したという印南川(九)
            

 
仏井戸。上野王子の旧地で、「王子の本地仏」三尊が井戸の中の壁に彫られているとあるが、見ることはできない。
   上野王子跡

国道42号線に沿って印南町に入る。津井(叶 かのう)王子を過ぎればあと1時間とのことで、斑鳩王子・切目五躰王子でゴール。
  
願い事“かないますように”、願掛けも多い叶王子に椿の花。  斑鳩王子はビューポイントだそうな…。
           

    
桧皮葺の風格の切目王子。由緒書きによれば、秀吉の紀州攻めで焼失(1585)、全山廃墟と化すが、氏子の力で再興(1594)された。数百人もの宿泊者となったとある。
    ウツボの干された駅前店の軒先。
JR切目駅に向かって、計20988歩で完歩の第6回目。様々な顔、表情を持った海辺のコース、良く歩いたこと!楽しかった~~。でも、やはり少し疲れた。




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 陽のさす海南の風土(1)

2011年03月06日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
建仁元年(1201)、当時40歳の藤原定家は後鳥羽院の熊野行幸に随行している。10月11日明け方、宿舎を出て塩屋王子から上野王子、津井(叶)王子・斑鳩王子・切目王子へと進んでいった。
6回目となる今回は、ちょうどその足跡をたどるように歩く。
王子社は潔斎、遥拝の社、上皇や法皇の宿泊に当たっては、神前での催しも多く行なわれてきた。明治の合祀で社がなくなり碑だけが残る王子社も多い中、切目王子は格式の高い五躰王子社のひとつで、藤白王子とで二社目になった。

            
予告もなく眼前に開けたこの大洋、定家も見ただろう海。彼が目にしたのは、明るさを増した早朝、初秋の海だけれど…。
今回は、海・海・海と、日頃馴染みのない私には海が見えるのがやたら嬉しかった。水平線の青さ、洋々とした広がり、気持ちは開放され浮き立つ思いだ。坂を下りながら目にする明るくきらめき返る美しさ。小さな白波、潮の香、…ついついこうして修辞を重ねてしまう。
            

     印南(いなみ)港。
このあたりは南海の大地震(1946年12月)で津波の被害を受け、17名の犠牲者がでた。印南に生まれたこの日の語り部さん。津波からの避難で3歳の弟と0歳の赤ちゃんに手を取られたお母さんは、5歳でしかなかった彼女を、あねさん!!と叱りつけながら急き立てた。その声の記憶は消えることがないと語られた。
          
              電柱に、ここは海抜約2.0m、…7.7mなどと、いたるところで注意を喚起している 
公民館々長、文化財保護活動の会長に、習字に着付けの指導、祭りのときのお化粧役に、印南の町の案内を語り部として…。70歳、地域に向ける心根の温かさ熱さあふれる女性の先導で過ごした一日だった。

    向こうは海
         左上までびっしり
みかん畑は姿を消して、海辺から小高い山の上にまで一面に広がるハウス・ハウス、ハウスの棟。
地に緑が青々と、これもお豆さん。
この規模、絹さや・うすいえんどうなど、お豆さんは印南町が日本一の産地だと言われてもあっさり頷ける。スターチスの花の紫色もビニールを透けて見える。

行き倒れを覚悟で、難路を歩く苦行こそが功徳を積むことになると考えられていた熊野古道。南海のこの明るい風土の陽光を受けて、これも先人が歩いた道ではあった。
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 ひと目、と

2011年02月16日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
                 
広がった青空の一日、左京区岩倉の地にある顕本法華宗 総本山妙満寺を訪ねた。
広々とした境内に踏み入ると、真っ直ぐ続く参道の奥に大きな本堂が一段高く構えられているのがわかる。
屋根瓦が陽に映え、静かな落ちつきがあっていい感じだ、たたずまいも美しい…。

 
ただそれも、高さ約20メートルの仏舎利塔を除けば、だった…。
初めて目にしたこの景観は、異様だった。見たこともない。ただただ正直驚かされた。

仏舎利塔は、釈迦が悟りを開いた地にアショカ王が紀元前200年頃建てた供養塔・ブッダガヤ大塔を模したものだそうだ。
1973年に建てられ、外壁には釈迦像が500体近く安置されているという。
「仏教最高の聖跡」か…、インドへの旅行、これまた頓挫で若き日の夢物語になってしまっている。

    比叡山を借景に
実は今日ここへは、安珍・清姫伝説の鐘を拝見したくてやってきたのだった。次回の熊野行きまでにはぜひ見ておきたかった。

鐘は展示館に安置されていた。
戸をあけて入って閉めて、誰もいない。いくつものカメラが姿を監視しているのだろう。

安珍を鐘の中に閉じ込め三時(さんとき)ばかり炎を噴射し続けて止めると、両眼から地の涙をポタポタとこぼしながら境内を這い出ていった蛇体の清姫。…伝説の世界だ。

清姫ののろいか災厄が続き、400年の歳月が流れてようやく2代目の鐘が完成。盛大に供養を営むところに白拍子が現れ、呪力で鐘を引き摺り下ろすと、白拍子は蛇体の本性を現し、日高川に飛び込んで姿を消した、とか。
「鐘に恨みは数々ござる」・・・
 
依然と続く災厄に、清姫のたたりと恐れた寺は鐘を竹林に埋めてしまうのだが、後にその話を聞いた「秀吉根来攻め」時の大将が掘り起こし、妙満寺へ。供養し怨念を説いたら美しい音色を響かせた。
と、まあこんないきさつの伝説の鐘を京都で目にすることができたわけだが…。
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 安珍清姫の地は萌え立つ気配

2011年02月06日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
            
梅がほころび、かぐわしい香りを放つ木もそこかしこ。まっ黄に染まった畑が見える。見上げる頭上に木蓮の蕾が光り、路傍に広がるオオイヌフグリの小さな花。お豆さんの白い花も満開状態で咲いていた。
                   
アスファルトのに上に咲く花もある。左、日高町原谷特産の黒竹で囲って内側には笹ゆりか。花の栽培が盛んな御坊市では、中央にスイトピー、スターチスにカスミソウをあしらって?  

立ち止まり、家並みの切れ目から右手はるかかかなたに霞む二つの山を指して、あの後ろ側の山のふもとまで歩きます、と語り部さん。
だが、道は右手方向を目指すのではなく、左へと案内する道標に従って迂回、遠回りをして熊野古道は続いて行くのだった。
昔この地域が海であったためだという。大きな期待で足を運んだ道成寺も、そんな迂回の順路途上にあった。
寺への少し手前、田んぼが広がる道路脇に清姫入水の地と伝える「きよひめじゃづか」の石碑が立つ。田んぼで入水でもないが、ここも昔は海だったと知って、なるほど~。

 
             
「道成寺の七不思議」について、何も事前に説明もされず危うく見逃すところだった。
遠近法を用いて、下からは階段が短く見える逆「八」の字の工夫がなされているという階段。苦にせず楽に上れるようにと。
本堂から門、参道まで一直線に1300年以上変わらず見守る観音様のまなざしが届く。そうした配置も七不思議のひとつに。
  
   入水を示す碑            安珍と鐘を埋葬        あんちん釣鐘まんじゅう
          日高川

  
    塩屋王子神社ふもと               美人王子ではみめ麗しき子を~と

温かく、一足早い春を感じながら絶好のウォーキング日和であった。
バスに戻ってどっかり腰を下ろし… 20633歩。ちょっと、かなり疲れた…。
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 清姫 恋の炎は

2011年02月04日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
明日は熊野古道ウォーキングの5回目。
前回の終着地・紀伊内原を出発し、日高川を渡ってからは流れに沿って南下しながら塩屋王子へと至る、歩行距離12.1kmの平坦なコースになっている。コースには男女の恋物語や美人にまつわる史跡が多く含まれるとあって、語り部さんからはどのようなお話が伺えるのか、興味深い。

まずひとつは、安珍清姫の物語が残る道成寺。安珍を焼き殺した鐘楼のあとや安珍塚・蛇塚があるという。
          
     若い山伏・安珍にひと目惚れした13歳の清姫。  「安珍さまに逢いとうて お傍にいとうて」

          
     鬼女の狂騒、怒りの炎が体から燃え立ち、頭から下が蛇体となって追いかける清姫。
  
          
             恋の炎!?

          
             結末は・・・

もうひとつが、安産・無病息災・永遠の美を祈願され信仰されている「美人王子」で知られるという塩屋王子神社。
祈願すると美しい子供が授かると言う伝説があるのだそうだから、ぜひともここでは懇ろに…?。

道成寺の参道にあるお食事処あんちんで「あんちん風松花堂」をいただく今回の昼食も、また楽しみなこと。
明日のことを考えて静かに膝もいたわって過ごしていた。
明朝は4時起き、7時15分バスで京都駅を出発する。お天気の心配は要らないのがありがたい。
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 やおよろずの気配・・・ 

2011年01月10日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
はるか東山連峰の稜線が茜色に染まる光景を目にしながら、まだ暗いうちからリュックを背負い歩いているのを妙に嬉しく感じていた。八日、新年第一回目となる熊野古道ウォークの朝。

事故渋滞に巻き込まれて、到着時間は大幅に遅れた。11時、バス車内で昼食を済ませてからの出発となった。
紀伊路でも難所の一つと言われる鹿ヶ瀬峠・熊野古道では最長の503mに及ぶ石畳道を歩き、初めて見た黒竹の林を抜けて、棚田が広がる原谷の里で見上げた空の青さ―、変化に富んだコースだったと思う。
 
              右下からやって来て
   
 木の洞が狭くなって中から外へ転がった馬頭観音。台座は洞に残したまま新たに
 ここに祭る。馬がクサを抓んで食べるように人間の苦悩を摘み取っていただけると…
 
             

  
九十九折(つづらおり)の山道には、いのししが鼻先でつけたとされる跡がずっと筋状に続いていた。こうして自分達が歩き去った後の森の静寂を思った。
一歩一歩敷き積もった落ち葉を踏み締める音だけを耳に、滑らないよう気を使って無言で歩いていて、ふーっと意識が遠のくような、周囲の静けさに吸い込まれるかのような一瞬の錯覚?… 歩いていて眠気を催すのだった。睡眠不足かなと思いもしたが、木漏れ日の差し込む、豊かな森の霊気に包まれた微妙な時間帯だった気もしてくるから不思議だ。

  
         小峠を振り返って                内原王子神社
太い枝が縦横に伸びた巨木に驚き、「なに!?これは」と問えば「椨(たぶ)の木」だと言うことだった。白檀などの香木を混ぜて線香の原料になる木。その傍には「樒(しきび)」、葉を折れば強い香がする。線香もしきびも仏事用だ。
今回の終着地、内原王子神社の境内には、やはり常緑樹の高木で春先に開花する「招霊(おがたま)の木」が植えられていた。神前に備え、神霊を迎える木。写真は、秋に生った赤い集合果がすべて落ちた後のものだが、…今にも聞こえてきそうな鈴の音。巫女が手に持ってシャンシャンと鈴を振って舞う巫女神楽、その神楽鈴の原型になったものだと教えられた。

  
            実は落ちて               神楽鈴

そこかしこで日本人として八百万の神にも触れることができる「ふる道」なのかもしれない、熊野古道。
19名の参加者と歩いた12,2km、歩数計は17097歩を示していた。
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 前夜

2011年01月07日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
                                     熊野本宮大社をめざして…
「何を着ていこうかなあ~…」「何でもいいやろ?あるもん着て行けば!?」
そりゃあそうなんだけどね、着込みすぎて汗をかくのはイヤだし、かといって寒さを我慢する一日もかなわない。基本的に3枚、そのほんのちょっとした加減に悩んでしまう。

明日は熊野古道を語り部と歩くウォーキングツアーの第4回目。河瀬(このせ)王子から紀伊内原までの12.2km、どうやらお天気の心配はなさそうだ。
今回は出発後ほどない時間から紀伊路最大の難所といわれる「鹿ヶ瀬峠」越えがある。藤原定家より100年も前に熊野詣をした藤原宗忠が「その道はなはだ険しく…」と嘆いたとされる道。まだ体力がある時間帯だけにクリアーの可能性も大だと信じたい。

ところがだ、「何事にも最初は勢よく飛び出すが、その勢いが長続きせずどんどん落ち目になっていく」ことを表す「いかち馬」という言葉があるのを知った。とは言っても、対策などあろうはずもない。
ただただ、どんな景色が見られるのか、どんな土地なのかとその楽しみだけは尽きない。

ウォーキング入門の記事によると【長い距離を無理なく歩くコツ】は、
目  真っ直ぐ前方を見る。景色を楽しんであるくといい。
姿勢 胸を張って。
肩  力を抜いてリラックス。
腕  脚の動きに合わせて自然に振る。ひじを軽く曲げて振ると疲れにくい
足  かかとから着地し、足全体で地面につけてからつま先でしっかり地面を蹴る。
   いつもより大股で。

と、確認~。新人、一応合格! 感動が薄れない程度にコースの予備知識も入れた。
お守りも一緒に準備完了。きっと楽しみながら歩けるだろう。
では、明日は早いのでこのへんでおやすみなさ~い。あーしたてんきに~・・・ なるはずでした~。
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 みかん畑輝く熊野古道

2010年12月06日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
  
4日、2時間ほどバスに揺られて着いたJRきのくに線の紀伊宮原駅。風の冷たさに思わず首をすくめた第1歩、万歩計をセットして上着を着込んだ。実際はもう少し薄手で間に合ったが、このへんの調節が難しい。やがてリュックにしまい込んでしまった。
前々日、2日は大雨警報発令、前日も大荒れという天気が噓のような、この青空!
有田川に架かる宮原橋を渡り、万葉集にも詠まれた糸我の里から歩き始める。
   足代過ぎて絲鹿の山の桜花  散らずあらなむ還り来るまで

                  
中将姫ゆかりの得生寺、日本第一稲荷の糸我稲荷神社、隣接する熊野古道歴史民俗資料館と立ち寄り、糸我峠・方津戸峠を越えると、醤油発祥の地として栄えた宿場町・湯浅の町に入る。旧街道を進みながら河瀬(ごのせ)王子が終着地になる。

参加者19名、語り部・添乗員さん含めて21人の同行になった。長髪の語り部氏は、ユーモアと笑顔が持ち味か、手ぶら拡声器、タイピンマイクでの説明が聞き取りやすい。

小さな文字でびっしりとメモを取る82歳の男性。毎朝、琵琶湖ホールの階段を1段おきに上ることを繰り返し、筋力を保つ努力をされているそうだ。25年間鍛えてきが、「いっぱいいっぱいだ」と笑いながら歩かれる。隣り合わせてみて、歩幅は大きく、膝をバネにするかのように多少からだが上下に揺れるのが特徴で、リズミカルに一定した歩調なのがわかった。それにしてもあまりのマイペース、「あ~、ぶつかるな~」と見ていると案の定の追突! 渋滞などとは無縁のはずだが、前方不注意、スピード違反? 「びっくりした~」とは追突者の弁、お元気お元気だ。

資料館には、藤原定家が御幸に随行した際の記録が、イラスト入りの工夫で展示されていた。行きは一日平均26km、帰りは52km、暗いうちに松明を照らして進む。宿泊所は寒い。各王子へは先参りを済ませねばならない役目に、毎朝の水浴びが伴う。心身のお清めとあって、風邪引きでも免れることはかなわない。一ヶ月に及ぶ熊野御幸への同行は厳しかったことだろう。

     
     

目の前に地面・足元が迫るという急勾配の糸我峠。周囲のみかん畑に演歌が流れ、収穫中の女性がいた。どうしたら取り尽くせるのかと思うほどのみかんだけれど、いずれ出荷されるのだろうか。振り返れば紀伊宮原方面が一望できる。こればかりは上らなくては見られない光景だ。だから歩きながらいつもよく振り返る。
そして、下ろうとした視線の先に! うわ~ぉ、これから行く湯浅の町の眺望だ。
                     
湯浅から温暖で水利の便のいい千葉県の銚子へと醤油製造業者は進出したのだと知ったが、
銚子は醤油のにおいより干物のにおいが強烈だったと記憶する。醤油と言えば野田かな。
蒸し器のせいろを利用した「せいろミュージアム」や灯篭のアイディアの楽しさが目を引いた。        
                
  
天保9年(1838)の大きな石の道標、背後の家の2階を囲む銅版、ともに富の集積の証しだとか。中世・近世・現代の熊野古道が交差する地。
             
「すぐ熊野古道」の石碑は「まっすぐ進め」と教えているのだと。
熊野本宮大社を目指して、まだまだ先は長く遠い。順調に進んで一年後のことだ。

遠景も近景も、振り返った眼下にも、見事なまでの青空の下にみかん畑が輝いた熊野古道だった。万歩計は18479歩…。
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 準備OK

2010年12月03日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
“100人に聞きました”、そうだ。
今回(11/20~23日)の京都観光に「満足」「やや満足」の回答は92%。
京都観光が初めては6%、10回以上は31%、の結果だそうで、リピーター率は高い。
「歩く街」を唱えるにしては、渋滞緩和策の周知徹底や受け入れ態勢の整備の不充分さ、環境公害などと問題点は多く、解消には「まだまだ」という新聞紙面だった。

さて、明日は熊野古道ウォーキングツアー、第3回目の日だ。
紀伊宮原から醤油発祥の地として栄えた宿場町湯浅を進んで、河瀬(このせ)王子まで。
カーナビも渋滞にも無縁の11.7km。

地図を片手に(一応用意はしてみるものの…)、自分自身の感覚と判断で、現在置や進むべき方向を確認して歩くという能力が問われるわけではない。語り部さんの道案内であとに付いて、という気楽なツアーである。
そのお気楽さをいただくぶん、余った感覚、五感をフルに活用しなくてはもったいない。

前回の藤白坂、峠道のそこかしこでは陽を浴びて自生する石蕗の花が、息せき切って歩く者に道端から優しくパワーを与えてくれたものだった。この道を古来どれ程の人が歩いたかと想像するだけで、心弾む道中になる。
周りの自然の魅力にこころを敏感に働かせて、目や耳で楽しむのだ。
なんともワンダフル!!な世界。 正直、それが楽しい。

1回でも多く参加したい。足腰のお守りもリュックに潜ませた。極力怪我をしないよう注意を払うことも大事なことだと思っている。
ハレハレのテルテル坊主の心意気は効力抜群!お天気になるはずだ。手袋、マスクにカイロと準備おさおさ怠りなし! もちろんマフラーも加わる。寒さも忘れるだろう。


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 熊野古道は「ふるみち・触る道」

2010年11月07日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
「今回のコースを歩いた人は、もう14回(全コース)歩いたも同然です」とは、添乗員さんの言葉だった。

海南市の藤白神社から有田市の紀伊宮原駅までの12.3kmを4時間10分で歩く第2回目は、
藤白坂・拝ノ峠と二つの峠を越える険しい道が続き最も難関な行程となるようだった。
歴代上皇・法皇の熊野御幸は延べ100回に及び、必ず藤白王子に宿泊され特別な催事が行われたという。

  クスノキの巨木 

その熊野九十九王子中、最も格式の高い五躰王子の一つ、熊野聖域の入り口であった藤白神社で、宮司による安全祈願ののち出立のお守りをいただいた。この者たちに楽しい旅を授けたまへ~ …と。
熊野本宮大社の阿弥陀如来、その右に熊野神宮の薬師如来、左には熊野那智山の千手観音、三体の本地仏を祀り、神仏混合だ。

熊野「古道」は、熊野「ふるみち」・「触る道」であった。
神に・行き交う人に・気に、霊気に触れながら歩く道なのだ。神々が宿っているのだという意識、敬虔な気持ちを抱いて歩いて欲しい。
なるほど!! 神主さんのこの言葉に目の覚める思いがした。熊野を歩くことのすべてが語られ、心には大きな思いを託された気がした。

古来、行き倒れにもなりかねないほどの困難を極めた信仰の道。万が一のときに備え、人は襟元に一文銭を縫いこんだという。菩提を弔ってもらえるように…。
神仏のご加護を得ようと祈りつつ歩いた道であったのだろう。

  

山の上まで広がるみかん畑。石が転がり丸太で階段が組まれた落ち葉積もる野道、時に鬱蒼とした竹藪を抜け、長い長い上り坂が続く藤白坂。
一丁・109mごとに祀られている丁石地蔵の可愛さに癒され、眼下の深い緑に心を洗い、海を遠望しては深呼吸。

  

  

休憩を挟み40分も登って塔下(とうげ:まだ峠という和製の漢字がなかったために塔下を用いている)王子に着。標高250mに達していないだろうか。なんとも楽しい胸突き八丁、だったかも知れない。
     

裏手に上り御所の芝から眺めた万葉集にも歌われた景勝地、和歌の浦。景観は「国民共通の財産」と位置づけられた地だ。
  和歌の浦に潮みちくれば潟をなみ 葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る  山辺赤人

ようやく登りつめながら下り、王子跡をいくつも過ぎてもう一つの難所、拝ノ峠にある蕪坂塔下王子を目指す。
今度は風車の見える♪あの山越えて~。舗装された超!急坂、足首は45度になっているのではないか?

  

黙々と一歩!また一歩!と足を踏み出して上る。さすがに汗をかいた。
77歳の語り部さんを前にして「えらい~」とは言い難い。

  

標高は320mぐらいだろうか、いつの間にかに登りつめた。上れば下りる。風車を背にして膝に痛みを感じながら急坂を下る。なぜか足並み揃った今日の仲間、笑い声が上がる気持ちよささえ伴う。再会を約して…。

現地でバスを降り、再び乗り込むまでの一日、万歩計は20539歩を示していた。
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 旅は道づれ

2010年11月05日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
目覚まし時計がなかった時代、早起きが苦手な人はどうしていたのだろうか。
約束の時間に間に合わない、などということもあったのではないか。

  ほのぼのと明石の浦の朝霧に
        島かくれ行く船をしぞ思ふ

(ほのぼのと明石の浦の朝霧のなか、島の陰に消えてゆくあなたの乗った舟のことが思われる)
『古今和歌集』にある作者不詳の歌。
三回唱えて寝ると望みの時間に目が覚めるそうな…
今夜はしっかり唱えて試してみよう。むろん、目覚まし時計も併用だが。

京都駅7時15分集合。
旅は道連れ?? 一日ぴったり身につけて、数えてみるとしよう。

明日は晴れ、紅葉狩り日和とか。
熊野での一日が大いに楽しめますように~。
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 熊野古道、雨中の歩み(2)

2010年10月05日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
矢田峠越えでも海抜100メートルまで、下りながら伊太祁曽神社までの約3.6kmを1時間あまりで歩いたことになる。昼休みなどと言うほどの休憩もなく、後半がスタート。

            右下に柿の葉寿司、お腹をいっぱいにして

みかん畑と別れ、周囲の田に彼岸花が咲き乱れる山里の風景に目を奪われながら、着いた先は、武内神社だった。仁徳天皇まで5代の天皇に300年近く仕えたとされる、昔の一円札のモデルだった武内宿禰を祭る。
キャベツの葉だとか、きれいに植えつけられた畑。これから収穫を迎えるイチジク園。
池に落ちる雨粒を見遣り、遠景を楽しむ余裕もまだ残っている。不思議だ、不思議と雨が苦にならない。

                 

先頭集団の先頭は若い夫婦、彼らが引っ張るようなペースだから、どうしても遅れがちな父(大正生まれ)娘組。遅れる上におしゃべりしながら写真を撮ってのマイペース。
休憩、説明場所、信号待ちなど以外に立ち止まることがない中、唯一、二人を待つことでストップがかかる。

「四つ石だって!大きなお地蔵さんね」
語り部さん「えっ、ありました?説明しようと思っていたのに行き過ぎました~」って。
彼女は、県道からそれて左の峠道へと入るためにコンクリートで固めた急な箇所をほんの少し上がりきるのに失敗。黄色いカッパを着て、左に説明用の資料が入ったクリアーケースと布の提げ袋、右手で傘を持つ。後ろ向きに滑り降りるのを如何ともしがたいのだろう、止めてあげた。
と、横からも一人、男性が後ろ向きに立ったままでバックして行った。雨で滑るのだ。矢田峠入り口を前にしてのことだったが、時折のハプニングはあるものだな。

少しづつ雨の降りようもきつくなる。
汐見峠、峠とは名ばかりだが、車の往来も激しく足元は雨が流れる路面が続く。右手に海が見えるというが見えない。安政の大地震による大津波の時、村人を高台へと呼び上げて命を救ったと伝えられる呼び上げ地蔵の祠。この頃受けた説明の多くは雨と共に流されて記憶に乏しい。民のために尽くした徳本さんの話などもどこか上の空だった。

ただ二度と歩くことはないだろう道、せめて風景だけでも心に残してと欲を出す。
ゴロゴロと鳴り出し雨脚が一層強まる。引っ張られるようにぐんぐん歩く。さすがに足の疲れを感じ出していたが、格式の高い五体王子の一つ、第2回目の出発点であり本日の終着地藤白神社、とにもかくにも無事到着!! ♪歩き通しましたよ~

   

【歴代上皇、法王が100回に及ぶ熊野御幸のたびに必ず休泊され、神前で和歌会(わかえ)、白拍子、里神楽(獅子舞)、相撲等特別な催事(法楽)が行われた】と説明がある。

     
        バスへと向かう                 足元には…

昼食時以外に腰を下ろすこともなく、定点での説明と休憩、最後はそれさえカットで先を急いだ。どちらかといえば強行軍ではないのだろうか。「きれいねー」と言葉を発するものの、足も気持ちも即、前へと向けざるを得ない。どんどん進むのだ。

同年輩か少し先輩かとお見受けする健脚ぞろい。まったく足はどうもないとおっしゃる。
月末は伊勢路、来月初めに西国街道を歩くと車内の後ろから聞こえてきた。振り向くと、文庫本を広げている。笑顔の優しさが印象的だった女性だが、恐れ入りました!
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 熊野古道、雨中の歩み (1) 

2010年10月04日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
            紀伊の山並み

3日午前7時40分、四条大宮を経由してやって来た20分遅れのバスで京都八条口を出発。
参加者15名で紀伊路・中辺路の「熊野古道を語り部と歩く」ウォーキングツアーの始まりに、京都の朝は晴れていた。

昨年から取り入れたという特別な見所もないおよそ16kmのコースは、今後の熊野古道を歩くための導入、まずはひたすら歩き続けることの体験化を狙っているようだ。紀ノ川の南岸、JR和歌山線布施屋駅に近い布施屋の渡し場でバスを下車。語り部さんと合流、渡し場の説明を聞き、近くで準備体操などして体をほぐし、いよいよの出発である。9時半過ぎ、雨がぽつっ! やっぱり降ってきた。降り出したら最後、回復は望めない今日の天気だった。

【布施屋から‐川端王子‐大庄屋旧中筋家住宅‐矢田峠‐平緒王子‐伊太祁曽(いたきそ)神社‐奈久智王子‐竹内神社‐四つ石地蔵‐松坂王子‐汐見峠‐松代王子‐菩提房王子‐熊野一の鳥居跡(祓戸王子)‐鈴木屋敷の傍を歩きながら‐海南市の藤白神社へ】

紀伊路・中辺路に限って九十九(と言えるほど多くの)の王子が散在していたという。つまりブームのように数多くの皇族や貴人が熊野に詣でるようになり、その接待、休憩所や宿泊所の役を果たす神社は自然と増えていったとか。祠があったり碑だけのものもあるが、特に格式の高い五つの王子を五体王子と言い、本日の終着地はその一つになる。

       
 道に埋め込まれた導き石             矢田峠入り口

矢田峠にかかる前に小休止、喉を潤しカッパを着込む人も多かったが、きついとされる峠道、暑いだろうね…と声を交わして傘だけで進む。起伏も多く足元の悪さもあったが苦にならず。道の両脇は真っ青な紀州みかんが鈴なりに、かと思えば食べごろかと見える小粒がいっぱい落ちている。はるか向こう、紀伊の山並みが幾重にも煙って見える。雨中の行進に心晴れる瞬間、雨だから出会える美しい風景だった。

            
                矢田峠山中、立て膝に頬杖の阿弥陀さま
     
先頭を歩く語り部さんの説明が聞けるだけの位置をキープし、傘で手がふさがった歩きながらの写真撮影には苦労した。決められた場所以外立ち止まることがないのだ。

伊勢神宮・出雲大社と比べても古さにおいては引けをとらない伊太祁曽神社での昼食を念頭に、ただただひたすら歩き続ける一行と化す。途中雨脚は強まりカッパを着ずにはいられなくなっていた。柿の葉寿司が入った古道弁当「紀ノ川」でお腹いっぱいにした後、参拝にバスの車外へ。

  

傘を脇に下ろし、「こうして耳を澄まして歩くと周囲のいろいろな音がよく聞こえる」
ひとつ傘で一緒に歩いていた学生時代の先輩が教えてくれたのを思い出す。
雨の音が、傘での囲いが聞こえるはずの音をさえぎる一日。
昼食後、ここから藤白神社までが遠い。そここそが「熊野の入り口」とかだ。
雨はますます激しくなっているが、疲れも悲壮感もない。ただまったく遊びがなく、ひたすらのコース消化には少しのゆとりが欲しい…。


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