先週4月1日金曜日を最後に、オーストラリアに住む孫たち3人はイースター休暇に入りました。
その数日前の晩のことです。
「おれ、がんばってるねんけどな…。おれ、選ばれてん」
「えっとぉ、スペシャルモーニングティで男と女と あのー なんかー お菓子とか食べんねん」
オーストラリアに住む5歳の孫が、電話口で言葉に詰まりながら一生懸命に報告してくれるのです。母親によるとこういうことになります。
〈1学期に最も頑張った子が男女から一人ずつ選ばれ、4月1日の朝、校長先生と一緒にお菓子を食べながらお話するスペシャルモーニングティの時間がプレゼントされた〉
4歳半まで日本で生まれ育って英語力はないという言葉の不自由さを抱えながら、日々どう意思疎通を図っているのかと想像しますが、まあ、わかるはずありません。そして校長先生とのティータイムだって、どんな具合で過ごすのか、やはり思ってみてもわかりません。へらへら笑って済ませたのでしょうか。タイミングをとらえ、またしても先生方は一人の子供の存在を上手にすくい上げてくれたものです。
以前、幼稚園長であり大学で講師をもなさる山下太郎氏が、昔話の「こぶとりじいさん」「花さかじいさん」を引いてお話された中で、教えられたことがあります。
人として誠実に生き、目の前の道を喜びをもって一歩一歩進めば、きっと「何かよいこと」につながっている。それには、子供時代にどれだけ遊びに没入し、創意工夫を凝らしたかがポイントになると言われ、ここに幼児教育の意義があるというお話でした。
ただ、「何か」が何かは、あとになって振り返ったときに、今の自分につながった「何か」に気づかされるというわけです。
どうだったのかな?
「今日はスイミングの授業もあってお疲れ。もうおやすみになりました。お菓子があまり口に合わなかったらしいわ」
様子を聞きたいと思っていたのですが、あの元気者がはやばやと寝てしまったというので、母親との話に笑いがこぼれました。で、今日を持っていまだわかりません。
カメさんの歩みでもいいのです。