京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

焚火のぬくみも

2022年12月04日 | 日々の暮らしの中で

かき集めておいた松葉や枯れ葉を境内の隅で焚くようなことは、かつては季節を問うことなく行ってきた。思い出せば、ぱちぱちとはぜる音が聞こえ、煙のにおいさえ脳天に抜けるようだ…。

大晦日には除夜の鐘を撞く鐘楼脇で、松葉や柴、薪を運んでおいて焚火で暖をとった。そのぐるりに寄りあう人たちの身体を甘酒やお酒がより温め、いっときのお喋りのあと、よき年を願う言葉を交わし、顔ぶれが変わって行く。人と人が近かった。


『土を喰う日々―わが精進十二カ月』のなかの「十二月の章」で、水上勉さんは書かれていた。
馬鈴薯を丸ごとよく洗って、銀紙に包んで焚火の中にさし入れ、「忘れた頃」まで火灰の中へひそませる。塩を振るかバターをぬるかしてスプーンで食べる。
「おお、この美味さよ。たかがじゃがいもと、いわれるものが、まことにデリケートに舌を酔わせる」と。
そして石を3つならべ即席のくどを作り、ヤカンをかけて徳利を入れて…。酒は進み、腹はふくれて、冬の寒い夕暮れが時を忘れるくらいに楽しい、と綴られる。

「火掻棒持つより焚火守となる」 稲畑汀子。
そう、火掻棒を持って、火の守番よろしい格好の人が一人はいたものだ。


もう焚火の光景は見られないのかもしれない。煙ったいなんて声は聞いたことがなかったが、環境汚染となると何も言えない。
「焚火」という季語も消えていくのかしら。
コメント
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