

と西野文代さんの著書にあった。
娘家族が5年間ほど大阪に住まいを移していたとき。
長女の孫娘が小学校卒業を控えて、家族でやって来た。雛膳づくりに一緒に包丁を持っていたとき、突然、娘の悲鳴にも似た声が上がった。
「あぁ―、ルーカスあぶない! こわれるよ!」
1歳3ヵ月になる第3子が仕丁の人形を払いのけ、赤い毛氈が敷かれた壇上に上がろうとしたのだ。
「あー、あー」としきりに指を指す。
女雛を見ていたのかしら。きれいだよね。
橘の花の黄色い花芯が落ちていた。
ひなあられのつまみ食いはよくあることでも、この雛段に上るという発想はなかったので、
夫と二人の眠りかけたような平素とうって変わった、こらえても笑いがこぼれるひとときを過ごさせてもらっていた。

何かに触れて、普段は眠っている思い出が器のなかから顔をだす。
「人間とは思い出の器」とは福島泰樹さんの言葉だが、古いものの上に新しいものが積み重なっても、けっして器が満杯になることはない。
意識的に忘れ去ったり、こぼし棄てたり、あたためつづけたり、出したりしまったり様々あれど、人は記憶で出来ていると納得する。
折に触れて思いだすことがある、できることは、幸せなのだ。
「あー、あー」とおしゃべりしていた子も3年生になってひと月余りがすぎた。
微笑ましい思い出が「想い出の器」の中から出てきたのですね。
想い出の器・・・いい言葉ですね。沢山沢山おありでしょうね。
お孫ちゃんがひな壇に登る・・・お元気なお子様に育ったわけですね°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°
私は小さな時、兄と一緒にお雛様を壊してばかりでした。
ついで言いますと、私は着物の袂にいれる筥迫も壊したんです。バイオリンも壊したのです。
自分の想い出の器の中には変な想い出がいっぱいですよ。
ああ~恥ずかしです。
上るにしても手を置くところを確保しようとするのか、
足元は踏みつぶす勢いですからあわてます。
この時、孫娘が友人と3人で『君の膵臓がたべたい』を読んでいたのを覚えています。
たぶん途中で挫折でしょう(笑)
クスリと思い出すものはよいですが、意に反して大切なものを壊してしまった思い出もあれば、
辛く悲しいこともいっぱい詰まっていますよね。
思い出も含めて、あれこれ身に詰めてきた様々なことで、「私」という人間は作られているのですね。
福島さんは「だから大切に葬ってあげなくてはならない」と言われていました。
人は「記憶の器」でもありますね。