「こんな昼下がりに暑いでしょうに~?」という私の声をしり目に、バスを途中下車。大徳寺に立ち寄ることにしました。近くてもなかなか機会がありません。
本坊はじめ、普段は、数多い塔頭もほとんどは非公開です。広い境内、石畳の上を歩きながら耳を澄ませば、確かに!あれは蝉の声でした。
時折、雲が日射しを遮ってくれますので、いっそう吹き抜ける風は心地よく、清涼剤となってくれます。 細川忠興の妻、細川がラシャ夫人の墓がある高桐院への参道です。苔むし、竹藪が囲い、松に、モミジの青葉が美しく静かな別天地のようです。 細川家の菩提寺、額縁入りの一枚の絵を見るごとき感覚の門前です。 高校の修学旅行できた大仙院。来年創建500年を迎えるに当たり本堂の屋根が修理中。枯山水のお庭に足組みができている状態でした。 枯山水の趣など味わうこともできず、ここのパンフレットの英文をそのまま利用して、旅行後の英語の宿題を仕上げた思い出があります。あのセンセイ、ちゃんと見たのかしら…。 ここの和尚さんのお言葉が壁に【五十六十は花なら蕾 / 七十八十は働き盛り/ 九十でお迎えが来たら/ 百まで待てと追い返せ】 和尚さん、にこやかなお顔で近くに座って折られました。 ここは禅寺、なるほど…。
時折、雲が日射しを遮ってくれますので、いっそう吹き抜ける風は心地よく、清涼剤となってくれます。 細川忠興の妻、細川がラシャ夫人の墓がある高桐院への参道です。苔むし、竹藪が囲い、松に、モミジの青葉が美しく静かな別天地のようです。 細川家の菩提寺、額縁入りの一枚の絵を見るごとき感覚の門前です。 高校の修学旅行できた大仙院。来年創建500年を迎えるに当たり本堂の屋根が修理中。枯山水のお庭に足組みができている状態でした。 枯山水の趣など味わうこともできず、ここのパンフレットの英文をそのまま利用して、旅行後の英語の宿題を仕上げた思い出があります。あのセンセイ、ちゃんと見たのかしら…。 ここの和尚さんのお言葉が壁に【五十六十は花なら蕾 / 七十八十は働き盛り/ 九十でお迎えが来たら/ 百まで待てと追い返せ】 和尚さん、にこやかなお顔で近くに座って折られました。 ここは禅寺、なるほど…。
なに色の?どんな花?と、先の“結果に思いを巡らせる”考え方は無意味ということですね。
日常を少しでも豊かに生きようとする思いの連続が、結果、自分の花となり色となるということでしょうか。“今”を生きているのですから。
わけもなく焦燥感にかられ、気分が滅入ることがあるのです。そうした気分をあえて吹き払うために力んでしまいがちです(自らを奮い立たせるように)。思い出すのは、やはりブログでお教えいただいてきたmatsuさんのお言葉で、「自分の器なみに過ごしてゆく」です。
思い出すのですが、やたらと滅入ってしまいます、その瞬間は...。立て直しますが。
変に力を入れずにいたいです。
自分の器なみに、今が自分にとっては最高の時ととらえて、それでも自分に水やりしながら自分育ての連続が大事、と考えればいいですね。
アドバイスありがとうございます。感謝します。やはり私には時折軌道修正が必要となるようで、自分に問いかける良い機会となります。
ならば、人間の一生で「旬」とは一体いつのことを言うのか。
生意気なようですが、私にとっての旬とは、昨日でもなければ明日でもない、もちろん20才の時でもなければ、生を終えるときでもない。
今日・この瞬間が私にとっての「旬」の連続だと思っているんですよ。
言うなれば「我が人生、今が旬」が、私のモットーです。
まだまだツボミ。どんな花を咲かせられるか、咲かせられずに終わるのか。結果なんてどっちでもいい。いつも花を咲かせる努力を忘れないように生きていたいなー…などと思っているんですよ。少しくどかったですかねー。
へこむことも多いですから、枯れ落ちぬよう、内なる気力こそみなぎらせねばなりませんが。
門をくぐれば拝観料、といったところと違い、広い境内をゆっくり散策というのには最適ではないでしょうか。紅葉の時期は美しいことでしょう。
京都は全人類が憧れる観光地と言ってもいいほどの、素晴らしい景観が随所に見られて結構ですね。
それらの場所には必ず故事来歴などが見られて心を洗われる気がします。
今回も「五十・六十花ならつぼみ」元気をもらう言い言葉に出会われましたね。お互いツボミですよ。