「 序
栂尾高山寺を囲む山の稜線から朝日が少しずつ覗いてくる」
の一文で始まる『あかあかや明恵』(梓澤要)。
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冒頭の一文には、高山寺の寺号の由来となる「日出先照高山」 - 日出でて先ず高山を照らす、が下敷きあるのだろう。
一途に華厳思想復興を志した明恵上人。8歳で両親と死別した明恵は、亡き父母の面影を釈迦に重ね合わせるかのように深く信仰したという。
明恵上人時代の唯一の遺構、石水院
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富岡鉄斎による「石水院」の木額 財善童子(華厳経に出てくる求道の菩薩)
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34歳の時、後鳥羽院から神護寺の別所・栂尾の地を賜り、ここが明恵上人の後半生の活動拠点となっていく。その徳業は多くの人々の信仰を集め、そして「鳥獣人物絵巻」に代表される多くの文化財も集積されていった。
梓澤氏の『荒仏師運慶』にも明恵は登場した。
〈人気のない薄暗い木立の中でひとり、座禅している…年若い色白で華奢な美僧の姿は、神々しいまでの静寂に包まれていて驚嘆したが、よく見ると衣の裾のあたりや腰のあたりに、リスが何匹もちょろちょろ動き回り、肩には小鳥が止まっているのだった。〉(運慶の弁)
樹上座禅象
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世俗を嫌い、隠遁を繰り返した孤高の生涯。印象深い言葉がある。
※「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきよう)と云う七文字を持つべきなり」- 人はそれぞれの立場や状況における理想の姿(あるべきよう)とは何かを、常に自分自身に問いかけながら生きてゆくべきである。日々、日常の中で。
※「愛心なきはすなわち法器にあらざる人なり」 - 愛する心がなければ、仏法を十分に理解できる人とはいえない。
24歳の時、右耳を切ったこと。そしてこの御詠草
「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」
などは読み知るが、何度か高山寺を訪れてはいても明恵上人についてこれといった書を読んだことがない。
ちょっと敷居が高くて…。それなのに、これまではずっと書店で背表紙を眺めるだけだった『あかあかや明恵』を読んでみよう、とまさに一念発起の感で思いついた。なぜかわからないけれど。
その前に、今日は高山寺を訪ねてみたのだった。
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史実と虚構や脚色。どのような世界が描かれているのか。少し気持ちに力を入れて一歩踏み込まなくてはならないものがあるようだ。
栂尾高山寺を囲む山の稜線から朝日が少しずつ覗いてくる」
の一文で始まる『あかあかや明恵』(梓澤要)。
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冒頭の一文には、高山寺の寺号の由来となる「日出先照高山」 - 日出でて先ず高山を照らす、が下敷きあるのだろう。
一途に華厳思想復興を志した明恵上人。8歳で両親と死別した明恵は、亡き父母の面影を釈迦に重ね合わせるかのように深く信仰したという。
明恵上人時代の唯一の遺構、石水院
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富岡鉄斎による「石水院」の木額 財善童子(華厳経に出てくる求道の菩薩)
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34歳の時、後鳥羽院から神護寺の別所・栂尾の地を賜り、ここが明恵上人の後半生の活動拠点となっていく。その徳業は多くの人々の信仰を集め、そして「鳥獣人物絵巻」に代表される多くの文化財も集積されていった。
梓澤氏の『荒仏師運慶』にも明恵は登場した。
〈人気のない薄暗い木立の中でひとり、座禅している…年若い色白で華奢な美僧の姿は、神々しいまでの静寂に包まれていて驚嘆したが、よく見ると衣の裾のあたりや腰のあたりに、リスが何匹もちょろちょろ動き回り、肩には小鳥が止まっているのだった。〉(運慶の弁)
樹上座禅象
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世俗を嫌い、隠遁を繰り返した孤高の生涯。印象深い言葉がある。
※「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきよう)と云う七文字を持つべきなり」- 人はそれぞれの立場や状況における理想の姿(あるべきよう)とは何かを、常に自分自身に問いかけながら生きてゆくべきである。日々、日常の中で。
※「愛心なきはすなわち法器にあらざる人なり」 - 愛する心がなければ、仏法を十分に理解できる人とはいえない。
24歳の時、右耳を切ったこと。そしてこの御詠草
「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」
などは読み知るが、何度か高山寺を訪れてはいても明恵上人についてこれといった書を読んだことがない。
ちょっと敷居が高くて…。それなのに、これまではずっと書店で背表紙を眺めるだけだった『あかあかや明恵』を読んでみよう、とまさに一念発起の感で思いついた。なぜかわからないけれど。
その前に、今日は高山寺を訪ねてみたのだった。
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史実と虚構や脚色。どのような世界が描かれているのか。少し気持ちに力を入れて一歩踏み込まなくてはならないものがあるようだ。