現代詩は難しくなりすぎていないか。まっすぐに心に響くような書き方を忘れてしまった、
と日本現代詩人の会の方が言われていた。
戦後間もない東京の飲み屋街でフツーのおじさんが「よごれちまったかなしみにきょうもこゆきのふりかかる」と口ずさんでいたような、
普通の人が口ずさめる詩を書いている人がいない、というのだった。
前登志夫氏に「橋」と題した詩がある。
花びらがこぼれて
追憶の眼窩をうづめ
はるかにとおいどこかの方に
失われた時間がふくらみはじめる
わたしは見ることができるのです
おびただしい運命の通過のあとを
樹液の重さにうなだれた
しののめの梢のような
孤独な睡眠の
はてに
あ 橋が刃物のように架けられて
いる わななく讃歌よ
『望郷』(S26)
言葉を投げかけられても、むこう側へ渡れない、感応できない私…。
読解力の違いと片づけてしまっては、考える意味も学ぶ意味もない。
とはいえぐっと単純に、どうして自分は詩を遠ざけるのかなあと考えるのだ…。
詩の本質とは「ひとすじの呼びかけ」だ、「ひとりの人間が、一人の人間へかける、細い橋のような」声である。という石原吉郎の言葉を教えられた。
胸の内から自分の思いを誰かに届けようとする真摯な声の響きが、巷間から消えているように思えてならないと河津聖恵さんが言われる。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
学生時代に所属していた会で、酒宴のお開きには必ず歌ったのが「初恋」の詩だった。
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