日曜日は少年野球の試合があって声援やら歓声やらで賑やかなグランドでした。
立ち止まって応援に必要な?わが子(孫)がいるでもなければ見知る子もいない。無心に見て楽しめるというほどの関心もなく横目にみながら通り抜け、周辺を小一時間ほど歩いたのでした。
先日、ブログを通じて吉川英治記念館があることを知った。
50歳になっての頃、唯一、吉川英治 歴史時代文庫で『親鸞』(1~3)を読んでいるに過ぎなくて、氏のことも作品についてもほとんど知らずにいる。
少しその先をネット上で探っていて、吉川英治氏の〈至言〉とやらに出会った。
「小説というのは、自分を読むんですね。読者はめいめい自分を読んできたんです」
規制から解放された自由な連想での「感想という名の読書会」のやりとりが重なってくる。メンバーは超高齢者。混乱の記憶など、そのまま認めている。
自分勝手な発言のようで、課題本の作中人物の視点とずれてもおらず、寄り添いつつ、まさに我が事として意識されていく。
なかなか読み進まないのは、言葉(描写)の過剰な文章がまだるっこくて、呼吸が合わないせいだろう。ページをのべつめくり返している。
でもそうした過剰さによって、かえって高齢者集団のやりとりの様相がうまく表されているとも感じる。
ひとこと言うたびに中断され、能天気に無駄話。何か言うたびにおこるどよめき。「いま、なんて?」と聞き返しては、確認し合う。
「たとえ聞こえなくても、いちいち、みんなで確認しないこと!聞こえなくても聞こえてるフリしましょう」と会長のいら立ち。
そうかとおもえば、彼らの耳がよく聞こえるようになったりする。
こうした「読む会」の進行がこってり描写されるのだ。
一方では、「何かひとつ意見が出ると、それにみんながわあっと飛びつき、全乗っかり」で「他人とピッタリ歩調をあわせ」てくる。
(ある、ある。こういうこと何度も見ている、聞いている)と私自身、過ごしてきた体験を根っこに読んでいるのだ。
自分自身のこととしても、(ああ、おっしゃる通りです)と至言にうなづく。
今日、報恩講を前にして世話方さんたちと当番の組から数名とが寄ってくださった。
本を見せて、ここまでの荒筋を紹介して、笑いあって、オススメしてみた。
本に関心を示した一人、二人。
わが身を重ねれば、いずれは記憶の混乱だってひと事じゃなくなるだろうし、どことなくおかしくて、どことのう切ないような。
93歳のまちゃえさんの発言に88歳の会長がキレた!
「ちょっとアンタね」
「よくまあ言ったシリからポンポンポンポン出まかせが言えるもんですネぇ!ええ?…」
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