中途半端に元気で、中途半端に、元気でない老人は、ややこしい。
いっそ、歩けない、食べられない、しゃべれない、確実に認知症、内科系重病疾患・・・
そういう人なら、本人の嘆きも相当ではあるが、自立できないので、まわりは、大変な負担を強いられるものの、
その中間は、じつに、ややこしい。
認知症ではないが、老化による適度なボケはある。(わたしにも、もうとっくの昔からある)
そういう人が、へんに決定権を持っていたり、お金を持っていたりすると、業者のカモになる。
中途半端なだけに、家族すらも口を出せない。
これが、いちばん、ややこしい。
・・・・・・・・・・・・
これとは、また話は別なのだが、、、、、
田舎の付き合いって、なんだろう?
人情味が厚い?
冠婚葬祭の、あの密度の濃さ。
昔なら、福祉も充実していなかったから、親戚や隣保による互助システムのように、
国や自治体に頼らず、自分達で、葬式代・その他を当座、工面してもらうために、
香典だの、なんだのをやりとりしていたのだろうか。
最近は、香典を辞退するお葬式もかなり増えている。
じゃあ、お祝い金は?
喜び、お祝いの気持ちをお金で表した?
今では、結婚式の引き出物も、カタログになったり、結婚祝いをとらない代わりに会費制をとったり、
と、現金のやりとりも、いろいろ様変わりしている。
田舎だけでなく、都会でも、職場でも、冠婚葬祭の現金のやりとりは、あるようだ。
ただ、わたしの住んでいる町(何十年も前、人工的に造成された大規模ニュータウン)では、
以前は、町内の誰かが亡くなったら、町内会の当番の人が、告別式のお知らせを一軒一軒配って回り、
知り合いの近隣の人々や町内会長さんが、告別式に出席していた。
だが、今は、回覧板で、だれそれがいつに亡くなり、告別式は済ませました、と報告があるのみ。
誰も、出席しなくていいし、ばたばた走り回ることもない。
あれ、こんな人、いたの?
あら、この人、亡くなったの?
負担も軽いが、一人ひっそり命の灯火が消えても、まわりに与える影響もない。
だが・・・
知りもしない、顔も知らない人の告別式に出るのは、付き合いなのか?
それが、いいかどうかは、別として・・・
それだけ、人や地域のつながりが、希薄になってきているといえる。
家族のない人や、地域の付き合いをしていない人は、孤独死もあるし、
社会の隙間で、死角となって絶望的な暮らしをしている人もあるだろう。
それは、ひとつの社会問題ではあるが・・・
田舎の閉ざされた一定地域の密度の濃すぎる付き合いに、へきへきしている身にとっては、
ああ、あっさりした付き合いは、なんと気楽なことよ!
と喜んでいるばかりとはいかないのは、いたしかたないことだ。
なんでも、100パーセント、いいように、うまくいくとはならない。
少しは、反動や逆流、揺り戻し、いいことも、悪いこともある。
田舎をあっさり切り捨てて、町に出てくると、気楽ではある。
田舎では、いちいち、だれそれが亡くなったといえば、親戚は当然のこと、近隣でも、ぞろぞろ、
告別式1回だけでは済まされず、その後も続く、ちまちま、あれこれ一連の行事に振り回されるという、わずわらしさも町にはない。
何代も何代も前の親戚の告別式だけでなく、延々と続く法要も、出席する側も、主催する側も、たいへん。
お年寄りがぞろぞろご存命、となると、いつもいつも、葬式と法要にスタンバイしなくてはならない。
今のお年寄りたちが、お亡くなりになったあとは、
もう、そんな、めまいがするほど遠い遠い親戚同士の、お互いの負担合戦はピリオドにすればいい。
近い親戚だけで、やればいい。
(おそらく、そうなることだろう)
遠い親戚間であっても、あえて、やりたい人だけが、やればいい。
(だが、呼ばれる方は、かなわない)
もう、何代も前から町で暮らしていると、田舎(地方出身)意識はない。
町流儀、自分たち流儀で、ことを行えばいいが、
田舎は、その地域の風習、慣習、流儀、やり方があり、
その通りでないと、「あのやり方は、間違っている」とかなんとか、非難の的になる。
「ほっといてくれ」というような人は、田舎には住んでいない。とっくに、町に出ている。
町に出られない事情の人は、やむなく田舎に住み続け、自分も嫌だけど無理やり頑張ってやっているんだから、
他の住民や親戚にも、自分と同じような流儀でやらせようとする。
町から、出て行った人は、涼しい顔で、
「よう、やってんなあ、そんな(無意味な疲れる)こと。お金と時間と労力、ご苦労様」みたいに、
自分は逃れられて、部外者になって、その選択は間違ってなかったように言う。
時代は変わり、インターネットの時代には、流行もデモ情報も、同時に流れる。
価値観も氾濫する。
当地に住んでいない人間が、当地の風習に従わないと、
「こっちに住んでいないからね」と、冷ややかな目で見られる。
当地に住まないのは、気に入らないからだろうと推測される。
その推測は当たっているのだが。
郷に入れば、郷に従え。それが嫌なら、郷に入るな。
住みたくないが、維持もしたい。
ものすごく遠方地なら家を処分するのも、やむをえないだろうが、
そう遠くない場合は、よっぽどのことでもない限り、売ったりしない。
たとえ、売ったとしても、二束三文、市場価値は、雀の涙で、限りなく低い。
先祖代々済み続けていた当家の人たちだけにとって、価値がある土地である。
他人には、なんの値打ちもない。
移民文化の民族には理解できないことだろう。
日本のように、土着農民スピリッツが、まだまだ延々と地方のあちこちには根付いている民、
特に、農民の、農地に対する思いは、重い。
生まれ育った土地を大切にする精神は、次世代である若い世代にも受け継がれている。
(震災で故郷を離れざるをえなかった人々の苦悩は、推して知るべし)
土地だけでなく、家も。
house(ハード面)ではなく、家制度のイエ。
とっくにそういう制度は、民法では廃止、消滅しているものの、
まだまだ長男が跡継ぎで、家督がどうの・・・と、こころの底には根付いているようだ。
たいした家柄ではなくとも、代々、継続させるというだけでも、目に見えない苦労がある。
日系2世や3世の人々は、外地の暮らしをし、外地の言語を話し、
ルーツは日本であるということには違いないが、日本で暮らす日本人とは、一線を画す。
ルーツだけを語り聞かされ外地で育つのと、
実際に、ありありと心物両面、物証が息づき物語る暮らしをするのとでは、臨場感、リアリティ、影響の濃度が違う。
延々と、なにが言いたいかというと・・・(自問コーナー設置)
自分の価値観を見極め、自分のこれからの行動の舵を、どう切ろうかと目下、わたしは熟考中だ。
自分の考えをまとめる前に、他からの圧力に負けて、屈して、あるいは、流されて行動するのでは、悔いが残る。
(逆のケースもあるかも知れないが。
あーでもない、こーでもない、と、つまらないことを、うだうだ、いつまでも考えて、ぐずぐず結論が出ないより、
なにも考えずに行動して、
プロセスは、まあ仕方ないにしても、結果的には、かえってよかったということもありえる)
時が解決してくれる、ということだってある。
先に事態が急展開、大転換して、考える余地、選択肢がないこともある。
田舎と、町。(夫の実家と、核家族の家)
両方に、右足と左足、両足を着け、中間バランスのスタンスでいくことを、今のわたしは望んでいる。
(中間は、無理でも、それぞれの事態に応じて臨機応変に)
我々の世代になると、どうなるのだろう・・・???
今は、世代が変わる、その少し前である。
老いた政治家は、なかなか引退しない。
いつまでも引退ぜずに、続けられるのなら続けていただいても、それはそれで、おおいに結構なのだが。
バトンタッチは、「夜明け前」なら、まだいいが、「日没」時か。
将来、自分が棺おけに足を突っ込みそうな頃は、 また違う考えになっていることだろう。
息子を中心に、子供達に、一切合切、まる投げの可能性、大である。
日没から夜半にかけて、親世代からバトンを受け取り、、深夜暗闇のなか、おろおろするだけで、
明け方未明に、次世代に「あとを頼む・・・」と世代交代し、次世代は、新しい夜明けを迎える。
そうなると、時間の流れのツジツマは合う。
(我々以外の世代は、陽が当たる時間に活動・活躍)
我々世代は、じいちゃん、ばあちゃん、こどもたちが、しっかりしていて、成長する機会を逃がし、
そのスキマに挟まれ、いっこうに活躍しないで、年は取っても中身は未熟なまま、この世を去る・・・
・・・これは、じつに、ありがたい、幸せなことではないか。
まともな人から、「けしからん、ふがいない」、とお叱りを受けそうだが。
でも、生きているといろんなことがあるので(いいことも、悪いことも)、楽観視ばかりもしていられない。
次世代に夜明けにバトンタッチしようと企てていたら、まんまと逃げられ、
結局、翌日も翌々日も、まるまる24時間体制で働かされ、苦労を強いられるかも知れない。
が・・・
人間、なるようになる。
不幸を追い求めてもしかたない。