蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

汗をかくポイントが、ズレている

2012-08-09 | わたし

梅ちゃん先生、
いくらなんでも、若い二人の新婚部屋に、夜、思春期の男子をいっしょに寝かせるのは、いかがなるものかと。
ウケ狙いか?
押入れに入れても、だめだ。

ストーリー・テラー。
面白いだろうけれど、不自然は、よくない。


軟派と硬派。
わたしは、どちらかといえば、軟派だ。
人は年齢を重ねると、硬派だった人も、人生経験を積んで、味のある軟派になっていたり、
軟派だった人も、それなりに、真面目になっていたり。
基本のかたちは、あっても、その後の肉付けによって変わってくるようだ。

わたしは、どっちも好きだ。
だが、どっちか片方だけでなく、両方あるのが望ましい。
ほどよいブレンド、ミックス。

美しいことばかり言っていては、世の中、生きていけないし、
フマジメなことばっかりやっていても、世の中、生きていけない。
清濁併せ持ち、でも、それでいて、基本は清らかなのが理想だが、そうは、うまく行かない。
清と濁の、配分バランスが微妙だ。


話は、変わるが・・・

自分を認めてくれなかったり、関心をもってくれない人には、自分も好意を抱かない。
逆に自分と似たような人、相性があうもの同士は、お互いが好意を抱く。
性格がどう、とか、能力がどう、とか、行いがどう、とか、
自分と似ているんだから、説明をいちいち聞かなくても相手のことが、手っ取り早く理解しやすい。

自分を認めてくれる人に自分が好意を持つ、ということは、人に見返りを期待するんだろう。
つまり、どこのどんな人よりも、だれよりも自分のことが好きなんだろう。

わたしも自分のことを自己肯定しているようらしいが、
人に言われて気が付いた。

自己肯定をもう一歩、強く進むと、「自慢」になる。

自慢したい気持ちは、うずうずあったとしても、表面にはっきりくっきり現すのは、
よほど、どこの誰が見ても認められる、オリンピック級のことでもないと、かっこわるいと、わたしは思っている。
自慢というよりは、どんなにサエない、つまらない、くだらない、レベルの低いことであっても、
自分の核となる、一種の、人としての誇みたいなもの、アイデンティティ、
これなら、表明しても、鼻持ちならないことはないのかも知れない。

世の中には、他人に自慢をしている人が多くいる。
それは、自己肯定なのだが、他者が見ても非常にわかりやすい。
こんなレベルでも自慢してもいいんだ~・・・なんて、もし、わたしが思ったとしたら、
とてつもなく、わたしは嫌なヤツだ。
自慢内容は、内容やレベルを他者と客観的に比べるものではない。

たとえば、子供自慢は、聞いていて嫌なかんじがするけれど、孫自慢は、ほのぼのする。
鼻が上向いていて、お世辞にもカワイイと言おうとすると、口が、もたもた、もたつきそうな
そんな、どんなに客観的に見ても、容姿、外見が、かわいくない孫でも、ジジババにとっては、かわいい。
見目かたちではなく、存在そのものが、かわいい。

「こんな手芸、してるの」
楽しそうに、いきいきと、その作品を見せてくださる。
その作品が、センスがおわってようが、およそ使い道がなかろうが、どこがいいのか、さっぱりわからなかろうが、
ご本人が、楽しければ、それでいい。
(わたしの小説も、そうだろう・・・)


わたしは、かなり嫌なヤツだ。
自覚している。
だからこそ、それが、外部に漏れないよう、他者にわからないよう、ひた隠しにしている。
どう嫌なヤツかというと・・・
(ひた隠しにすることを努力しているくせに、自分からカミングアウトするのは、矛盾している)

わたしは、理想が高い。
現実や、自分自身は、理想にはまるで手が届かないくせに。
これが、自分の最も嫌な性格である。
あと何十年あるか知らないが、残りの人生をかけて、この性格を修復、なおしていきたい。
(これまでのウン十年、半世紀が、、無理だったのに、これから、果たして出来るのか?)

理想には絶対に手が届かないということを知っているから、現実は、イマイチでもさして不満はない。

多くの良いもの、優れたものを知っている。
これは、知っているだけであって、決して身についていないところが、わたしの欠点だ。
なので、自分はたいしたことがないという、動かせない事実があるにもかかわらず、
世の中のいろんなものを、自分が見聞きした良いものと比べてしまう。
そして、それを誇りに思ったり、自慢している人に対して、「世の中には、もっと上には上があるよ」と思ってしまう。
そう思う自分、その上から目線、それが許せない。

「ほっといてくれ。人がせっかく喜んでるのに。満足しているのに。水をさすな」
そう思われるだろう。
なので、そういう人には、ぜったいに、わたしの胸のうちを悟られないようにしている。
というか、世の中のだれ一人にも、胸のうちは、ださない。
(アタマから足の先まで、上から目線根性が詰まっている。
タイヤキでいえば、アタマからしっぽまで、あんこが詰まっている)

人の口に戸は立てられない、というが、
人のこころにも、戸も、映倫カットも、検閲も、できない。
なので、こころが、勝手に、なんの妨げもなく、すいすい、いろんなことを感じ、思ってしまう。
これは、しかし、罪にはならないと思う。
が、重荷に感じる人は、こころを悔い改め信仰に救いを求めるとか、熱心にボランテア活動をするとか、
身内、あるいは、人のために、身を尽くすとか、
いろいろやると、よいだろう。

で、わたしは、なにもしていない。
無意味に、無駄に、汗をかきながら(立秋とはいえ、まだ暑いので)、
黙々とパソコンのキーボードにパチパチと入力しているだけだ。

でも、自分の本心から、すばらしい、と思うこともたくさんある。
その場合は、共鳴、賛同の意を声に出して表現する場合もある。
問題は、素晴らしくないと感じた場合だ。
しかも、ご本人が自慢している。
その場合は、わたしは、「そうですかぁ~」と、ふつうの顔で、平然と、なにごともなかったかのようにしている。
それに対して良心の呵責を感じている。

・・・・・
なあんだ、そういうことか。
文字にしてみると、世の中にはよくある、けっこう、ふつのことかも知れない。

つまらないことに、文字数を割いてしまった。
入力に専念するために、NHKテレビのオリンピックの中継を消してまで、書くような内容か?

まあ、そんな日もある。

 

 

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