梅ちゃん先生、
いくらなんでも、若い二人の新婚部屋に、夜、思春期の男子をいっしょに寝かせるのは、いかがなるものかと。
ウケ狙いか?
押入れに入れても、だめだ。
ストーリー・テラー。
面白いだろうけれど、不自然は、よくない。
軟派と硬派。
わたしは、どちらかといえば、軟派だ。
人は年齢を重ねると、硬派だった人も、人生経験を積んで、味のある軟派になっていたり、
軟派だった人も、それなりに、真面目になっていたり。
基本のかたちは、あっても、その後の肉付けによって変わってくるようだ。
わたしは、どっちも好きだ。
だが、どっちか片方だけでなく、両方あるのが望ましい。
ほどよいブレンド、ミックス。
美しいことばかり言っていては、世の中、生きていけないし、
フマジメなことばっかりやっていても、世の中、生きていけない。
清濁併せ持ち、でも、それでいて、基本は清らかなのが理想だが、そうは、うまく行かない。
清と濁の、配分バランスが微妙だ。
話は、変わるが・・・
自分を認めてくれなかったり、関心をもってくれない人には、自分も好意を抱かない。
逆に自分と似たような人、相性があうもの同士は、お互いが好意を抱く。
性格がどう、とか、能力がどう、とか、行いがどう、とか、
自分と似ているんだから、説明をいちいち聞かなくても相手のことが、手っ取り早く理解しやすい。
自分を認めてくれる人に自分が好意を持つ、ということは、人に見返りを期待するんだろう。
つまり、どこのどんな人よりも、だれよりも自分のことが好きなんだろう。
わたしも自分のことを自己肯定しているようらしいが、
人に言われて気が付いた。
自己肯定をもう一歩、強く進むと、「自慢」になる。
自慢したい気持ちは、うずうずあったとしても、表面にはっきりくっきり現すのは、
よほど、どこの誰が見ても認められる、オリンピック級のことでもないと、かっこわるいと、わたしは思っている。
自慢というよりは、どんなにサエない、つまらない、くだらない、レベルの低いことであっても、
自分の核となる、一種の、人としての誇みたいなもの、アイデンティティ、
これなら、表明しても、鼻持ちならないことはないのかも知れない。
世の中には、他人に自慢をしている人が多くいる。
それは、自己肯定なのだが、他者が見ても非常にわかりやすい。
こんなレベルでも自慢してもいいんだ~・・・なんて、もし、わたしが思ったとしたら、
とてつもなく、わたしは嫌なヤツだ。
自慢内容は、内容やレベルを他者と客観的に比べるものではない。
たとえば、子供自慢は、聞いていて嫌なかんじがするけれど、孫自慢は、ほのぼのする。
鼻が上向いていて、お世辞にもカワイイと言おうとすると、口が、もたもた、もたつきそうな
そんな、どんなに客観的に見ても、容姿、外見が、かわいくない孫でも、ジジババにとっては、かわいい。
見目かたちではなく、存在そのものが、かわいい。
「こんな手芸、してるの」
楽しそうに、いきいきと、その作品を見せてくださる。
その作品が、センスがおわってようが、およそ使い道がなかろうが、どこがいいのか、さっぱりわからなかろうが、
ご本人が、楽しければ、それでいい。
(わたしの小説も、そうだろう・・・)
わたしは、かなり嫌なヤツだ。
自覚している。
だからこそ、それが、外部に漏れないよう、他者にわからないよう、ひた隠しにしている。
どう嫌なヤツかというと・・・
(ひた隠しにすることを努力しているくせに、自分からカミングアウトするのは、矛盾している)
わたしは、理想が高い。
現実や、自分自身は、理想にはまるで手が届かないくせに。
これが、自分の最も嫌な性格である。
あと何十年あるか知らないが、残りの人生をかけて、この性格を修復、なおしていきたい。
(これまでのウン十年、半世紀が、、無理だったのに、これから、果たして出来るのか?)
理想には絶対に手が届かないということを知っているから、現実は、イマイチでもさして不満はない。
多くの良いもの、優れたものを知っている。
これは、知っているだけであって、決して身についていないところが、わたしの欠点だ。
なので、自分はたいしたことがないという、動かせない事実があるにもかかわらず、
世の中のいろんなものを、自分が見聞きした良いものと比べてしまう。
そして、それを誇りに思ったり、自慢している人に対して、「世の中には、もっと上には上があるよ」と思ってしまう。
そう思う自分、その上から目線、それが許せない。
「ほっといてくれ。人がせっかく喜んでるのに。満足しているのに。水をさすな」
そう思われるだろう。
なので、そういう人には、ぜったいに、わたしの胸のうちを悟られないようにしている。
というか、世の中のだれ一人にも、胸のうちは、ださない。
(アタマから足の先まで、上から目線根性が詰まっている。
タイヤキでいえば、アタマからしっぽまで、あんこが詰まっている)
人の口に戸は立てられない、というが、
人のこころにも、戸も、映倫カットも、検閲も、できない。
なので、こころが、勝手に、なんの妨げもなく、すいすい、いろんなことを感じ、思ってしまう。
これは、しかし、罪にはならないと思う。
が、重荷に感じる人は、こころを悔い改め信仰に救いを求めるとか、熱心にボランテア活動をするとか、
身内、あるいは、人のために、身を尽くすとか、
いろいろやると、よいだろう。
で、わたしは、なにもしていない。
無意味に、無駄に、汗をかきながら(立秋とはいえ、まだ暑いので)、
黙々とパソコンのキーボードにパチパチと入力しているだけだ。
でも、自分の本心から、すばらしい、と思うこともたくさんある。
その場合は、共鳴、賛同の意を声に出して表現する場合もある。
問題は、素晴らしくないと感じた場合だ。
しかも、ご本人が自慢している。
その場合は、わたしは、「そうですかぁ~」と、ふつうの顔で、平然と、なにごともなかったかのようにしている。
それに対して良心の呵責を感じている。
・・・・・
なあんだ、そういうことか。
文字にしてみると、世の中にはよくある、けっこう、ふつのことかも知れない。
つまらないことに、文字数を割いてしまった。
入力に専念するために、NHKテレビのオリンピックの中継を消してまで、書くような内容か?
まあ、そんな日もある。