蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

大人の会話

2012-08-13 | わたし

人には、いろんな意見、考え、感性がある。

どれが正しくて、どれが間違っているかということは、話題によって様々だろうけれど、
そのために、世界のどこかで、戦争が起こったりもする。

自分の意見が通らないからといって、相手を否定するのは、ちょっと気が短い。
自分の意見は、自分の意見、相手の意見は、相手の意見。
お互いの意見である。
その意見が、正反対だった場合は、どうする?

ふたりで、なにかモノゴトを決めて進める場合は、話し合って、妥協し合って、納得し合って、手探りで中間をとる。

たとえば、その内容が、まったく、個人の趣味に委ねるようなものだった場合は・・・?

ミカンが好きな人と、りんごが好きな人。
ミカンが絶対に美味しい、りんごなんか、一口も食べたくない。
かたや、りんごは、大好き。ミカンは嫌い。
では、この両者が論争をしたとする。
お互い、ミカンと、りんごの長所、短所をあげ、理解を深め合おうと努力する。

でも、いくら、口に泡をとばして、延々、朝まで大ディスカッションをしても
片方は、やっぱりミカンが好き。片方は、やっぱりりんごが好き。

そこで、決裂する。
なにさ、りんごなんて、最低。
ふん、ミカンこそ、最低中の最低。

自分の好きなものを充分、愛しみ味わえばいいと思うのだが、それ以外をけなす必要はないと思う。

大人なんだから、大人の会話テクニックで、
どんなに自分がミカンが嫌いで、りんごが好きであっても、相手は、ミカンが好きだって言ってるんだから、
「ミカンのいったい、どこが美味しいの? 気が知れない。
それより、りんごが嫌いなんて、ありえない感覚ね」なんて、口が裂けても言ってはいけない。
押し付けは、よくない。

さらっと、「そうですよね、ミカンはおいしいですよね」と言おう。
「ミカンもおいしいと感じる人には、おいしいですよね」と、へんに理屈っぽい注釈をつけてはいけない。
「わたしは、キライですけれど」の一言は、余計だ。
「わたしは、食べませんけれど」の一言も、余計か?

よくわからなくなってきた。

ミカン派は、りんごに距離を置き、りんご派は、ミカンに距離を置けばいいのか。
あるいは、ミカン派は、りんごを笑い飛ばし、りんご派は、ミカンを笑いとばす?
(フルーツを笑い飛ばすって、どうやるんだろう? この行為はしたことがないし、仕方がわからない)

ちなみに、わたしは、ミカンも、りんごもキライではないが、チョコは好きで、ケーキも、おかきも、好きで、
カレーも、飲茶も、フランス料理も、おにぎりも、ヤキソバも、精進料理も、懐石料理も、お好み焼きも好きだ。

めんどくさくなってくると、
ミカンがあっても、なくてもよくて、りんごがあっても、なくてもよくて、
ミカンはミカンでなくてもよくて、りんごはりんごでなくてもよくて、
ミカンもりんごも、どうでもよくて、
好きなんだか、嫌いなんだかも、どうでもよくて、・・・
いっぱいもらうと、食べ切れなくて、・・・
ミックスジュースにすると美味しくて、けっこう好きで、・・・

ますます、わけがわからなくなってきた。


ぎゅっと簡潔に、考えをまとめるのは、じつにヘタ、不得意で、
考えれば考えるほど、ぴりっと引き締まったピンポイントの結論とは逆のほうに、どんどん放射線状に拡がっていく。
問題点を解決できないまま、
さらっと大人の会話ができるようになるまでには、まだまだ修行の身は続きそうだ。

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