同じように、この世に生を受け、生きて、死んでいっても、
名もなく、ほんの一握りの人にだけその存在を知ってもらうだけの人と、
大勢の人々に、愛され、別れを惜しまれ、
さらに、最も身近な最愛の人にも、いつまでも愛され続ける人がいる。
近年、没した有名女流歌人(昨日まで、その存在すら知らなかったが)の関連記事を読んでみると、
その大きな差に、うなだれる。
総理大臣は、限りなく孤独である。
偉業を成し遂げても、反対の立場の人には、全否定される。
しかも全人格をも否定される勢いで。
歌人の仕事とは、まったく、評価基準や評価内容が違う。
(当たり前のことだけれど)
無名の人の、無数の死、無数の家族の悲しみ、無数の家族の愛がある。
それは、文章にしていたとしても、閉ざされた範囲の中であり、外には出ない。
有名実力派歌人ともなると、絶大な評価をされる。
その生をも歌にしていると、さらに評価が上がる。
皇后陛下からも、うんうんかんぬんと、お言葉?物品?が送られた、とか。
確かに素晴らしい業績を残されているようだ。
業績ゆえの、大騒ぎ?
もっと静かに、この世を去れないのか?
有名税のようなもの?
自分の病のみならず、死までも、
最後の力を降り注ぎ、歌に詠むのは、こりゃまた壮絶と、さらに評価に拍車がかかる。
人の死は、軽く扱われるべきではない。
病気で亡くなるのは、家族も本人も、言葉にできない深い底なしの闇がある。
が、(適切な発表の場で)、それを言葉にする人は、評価が上がる。
でも、なんだか、わたしは、・・・・こころのなかで、不思議な痛みを感じる。
多くの無名の死、多くの家族たち、・・・言葉にできない、言葉にしない、表面に出ない人々・・・
表面に出ない人は、あえて、出ない人もいるだろう。
ナイーヴなプライバシー、個人個人にとっては、とても重く辛い苦しみではあるが、
そこのところ、あえて自分たちのことを世間に発信するかのごとく、が、
ヒネまがり人のわたしには、よくわからない。
それが、歌人の役目?
歌人ってなに?
家族以外のまわりの他人にとって、
大好きな、狂信的に絶賛する歌手、俳優が亡くなったら、ファンが大勢、偲ぶ会に詰め寄せるようなもの?
それが大物政治家だったり、実業界の大物だったり、活動家だったり、奉仕人だったり、教祖様だったり、
そんなかんじ?
自分でも、決して良いとは思っていないことなのだが、
わたしは、ヒネた性格なので、どこのどんな人にも必ずあるプライバシーを全面開放するには、抵抗がある。
ステーキに、ウエルダム、ミディアム、ミディアムレア、レアなどと焼加減があるように、
パスタの茹で方にも、好みがあるように、
プライバシーの開示段階・程度は、好みの問題だろうけれど。
他人さんの場合、
よかったね、ふーーん、で、それで?
たいへんだったね、で、それで?
と、やたら、わたしは冷静になりすぎる傾向がある。
で、どうしたいわけ?
なにが、言いたいの?
わたしに、どうしろと?
要請もされていないのに、勝手に自分が、なにかしろと要求されているようで、落ち着かない。
黙って聞くだけ。
黙って、うなずくだけ。
黙って、微笑むだけ。
わかっていても、そういうことしか、できないが。
特に、生まれる、生きる、病気になる、老衰、死ぬ・・・
これは、ある特定の人だけでなく、この世に生まれてきたからには、必ず訪れることだ。
老衰で、天寿を全うして死ぬのが、いちばん幸せな一生だと、わたしは思うが、そういかないことも多々ある。
それを、自分たちの家族以外にも切々と訴えるかのごとく、開示するのは、わたしは苦手だ。
個人的恋愛だけでなく、家庭生活だけでなく、病や死までも。
だが、
難病指定されていない難病に冒され、世論や政治を巻き込んで、治療費の工面や、難病撲滅に一役買う、という、
そういう役割があるなら、また別だ。
同合慰霊祭などは、純粋に鎮魂の大きな役割がある。
あるいは、闘病記や恋愛記を読んで、自分よりも辛い人がいることを知り、自分は甘かったと反省するなり、
明日への夢や希望を見出すなり、
なんらかの、読み手に感動を与えるのも、ひとつの役割だ。
いろんな書き手がいて、いろんな読み手がいて、何が悪い、良いではなく、あれもこれも、
それで、いいんじゃないですか?
(まとめるのが、めんどうになってきている・・・というか、まとめる能力なし)
・・・ああ、いい加減な性格・・・
蛇足中の蛇足です。
これを書いた後で、ふと思ったが、(ぐっと感じた)
わたしのブログへの訪問数は、右肩下がりで、ひゅーんと降下していくだろう。
おんなじようなことばかり、書いているから、じつに、つまらない。
というか、「突き抜ける天然キャラ」だったはずが、
なぜか、ここのところ「イチモツ内蔵型もの言わぬヒネ・キャラ」に、移行している・・・