わたしは、喜びや悲しみを短歌などに表すことは、できない。
見よう見まねで頑張れば、かたちだけ、表面上は、素人短歌が出来上がるのかも知れないが、
根本的に、無理。
だらだら書くのが、わたしのお気に入りスタンスなので、感性を研ぎ澄まして、無駄をいっさい省くと
まったく、一字、一句、残らない。
年末の「今年の一文字・漢字」みたいに選ぶとすると、とても選びきれないし、
逆に、めんどうなので、深く考えずに思いついた文字を、たいして検討もせず、ピックアップしかねない。
同じ、短文でも、
時間がなくて、手短にぱぱっと書くのと、
幾度となく涙や汗、血を流し、一滴、ぽとっと滴り落ちた句をひろうのとでは、おお違い。
南フランスに、グラースという街があり、そこは香水の街なのだが、
大量のバラから、ほんの一滴のエッセンスを得て、微妙な香りを生み出す。
その香りのために、どれだけのバラが、表舞台に出ずに葬られたか・・・。
わたしの場合、ひとつのバラも無駄にしない方針。
たとえば、バラなら、バラのジャム。
ぜんぶ、食べてしまうという手がある。
義姉に、ずっとずっと前にいただいた、ヨーロッパ製バラジャム、つい最近、完食した。
文字、俳句、短歌と、バラジャムは、まったく、関係ない話だ。
ご近所さんブログで紹介されていた、ある女流歌人の短歌は、
女であることを真っ向から、喜びも悲しみも肯定したものだった。
これまた、わたしには、無理。
自分がいかにヒネ曲がっているかということを強く自覚し、がくっと首を落し、うなだれた。
「ほんと、やな、やつ。かわいげない、自分・・・」
女であることだけでなく、自分の身に起こった素晴らしいことを自分の経験として、
がんがん光り輝いて肯定するのは、わたしは苦手だ。
悲しいことや、嫌なことは、表現されていても、べつに、そう対して嫌ではないのだが。
なぜなんだろう・・・???
いいじゃない、べつに。
他人が自分のことを喜んでいるんだから、素直に外からギャラリーとして喜んであげれば。
しかも、特異な体験でもなんでもなく、みんなに共通した共鳴できる、一般的なことであれば、なおさら。
普通のことを、素晴らしい、短歌で表現しているんだから、拍手喝さい以外のなにものでもない、はずだ。
その短歌や、歌人にケチをつける気など、さらさらまったくなく、
向こうを張って、勝負したい気も、まるっきり、全然なく、
その短歌を評価している人に、文句を言いたい気など、これっぽっちもなく、
・・・・
なぜだか、わからないけれど、わたしは、苦手だ。
和食が好き、洋食が好き、中華料理が好き、ミカン、りんごが好き、
各人、好みは色々・・・に、似たような感覚なのだろうか。
そんな大雑把、単純なものでもない。
今回は、たんに、自分がヒネくれていると感じた。
その内容、理由を分析すると、いろいろ出てくるのだが、書きたい気分にならない。
一生、書かないだろう。
(ああ、なんて、自分のブログ、エッセーって、自由で無責任で、いいかげんで、お気楽なの・・・
文末に「驚異のお腹ぺたんこ」の広告が載ってたって、おつりがくる)
書きたいことだけ、書いて、気持ちが晴れて、いいことばかり。
書きたくないことは、書かなくていい。
真実ではない、虚構の自分を創りあげることだって、可能だし。
それで、自分のこころが開放されるなら、やればいい。
わたしは、残念ながら、リアルの世界で、自分を開放している。
ブログや小説は、二の次。
一番煎じのお茶をリアルで満喫したあと、二番煎じで、ブログネタにする。
さらに、出がらしに近くなっても、まだまだ加工したりして楽しめる。
出がらし自体をまるごと食べてしまうバラジャムと同じだ。
(リアルが、これといったことがない時は、一番煎じが、ブログかも)
大事なものは、変色したり、化学変化したりしないように、なにかに包んで、自分の宝物入れに入れておく。
宝物入れを時間が経って、のぞいて見ると、あんなに光り輝いていた宝物が、色あせていたり、
逆に、実際より、もっともっと光り輝いていたりする。
宝物自体も、同じ人でも、その見る人の置かれた状況によって、変わってくるようだ。
(宝物は、おもに思い出や、人)