枕草子 第二十二段 すさまじきもの
すさまじきもの。
昼ほゆる犬、春の網代、三、四月の紅梅の衣。
牛死にたる牛飼、ちご亡くなりたる産屋、火おこさぬ墨櫃・地火炉。
うちつづき女児生ませたる。
(以下割愛)
不調和で興ざめなもの。
昼間ほえる犬。春まで残っている網代。三、四月に着る紅梅の着物。
牛が死んでしまっている牛飼。乳飲み子が亡くなってしまった産屋。
まだ跡継ぎの男児がいないのに、続けて女の子を産ませている。
方違えで行ってももてなししない所。ましてそれが節分違えなどである時はとても興ざめです。
地方から来た手紙に贈り物が付いていないもの。京からの手紙でも同じことを思うことでしょう。でもそれには、都の知りたい便りなどが伝えられているのですから、贈り物がなくても、ずっと良いものです。
特別丁寧に書いた手紙の返事を待ちかねて、「もう持ち帰る頃なのに、ひどく遅いな」と思っているところへ、先ほどの手紙を、正式の形式を備えた書状なのにひどく汚らしく取り扱い、ぶよぶよにし、上に引いてある墨なども消えてしまい、その上、不在だとか物忌とかで持ち帰ってくるのは、大変がっかりして興ざめしてしまいます。
また、必ず来るはずの人の所に車を迎えにやり待っている時に、来る音がするので、どうやら来たようだと、人々が出てみますと、牛車を車庫に引き入れてしまい、轅(ナガエ)をポンと打ちおろすのを、「どうしたのだ」と尋ねますと、「今日はよそにお出かけとかで、こちらへはお越しになりません」などと無造作に言って、牛だけ曳き出して帰って行くのは、まったく興ざめです。
また、家に迎えていた婿君が来なくなってしまったのは、たいそう興ざめなことです。
相当な身分の人で、宮仕えする女のもとに夫を取られて、取り残された妻が、恥ずかしいことだと家の中に閉じこもっているのも、全くみっともないことです。
乳飲み子の乳母が、「ほんの少し」といって出かけたので、その間乳飲み子を何とか機嫌を取って遊ばせて,「早く帰ってくるように」と乳母の家に車を迎えにやって言わせたのに、「今夜は帰れそうもありません」ということで、車を返してよこしたのは、、興ざめなだけでなく、とても憎らしくて我慢がなりません。
まして、愛人である女性を迎える男が、こんな目にあったら、どんな気がするでしょう。
待つ人がある女の家に、夜が少しふけてから、あたりをはばかるようにそっと門をたたくので、胸が少しどきりとして、人を出して尋ねさせると、その人ではない別のくだらない人が名乗ってやってきたのは、「返す返すも興ざめだ」というさえ馬鹿らしいほどです。
修験者が「物の怪を調伏する」ということで、いかにも自信ありげに、「よりまし」(一時的に霊などを取りつかせる人や人形)に法具や数珠などを持たせて、蝉のような声を絞り出して経を読み続けても、物の怪は少しも退散しそうな様子もなく、護法童子という鬼神さえもつかないものですから、一家全員が集まって祈念をこらして座っているのですが、そのうち男も女も「どうも変だなあ」と思っているうちに、所定の時間が過ぎるまで経文を読み続けて疲れてしまい、「いっこうに護法つかない。立ちなさい」と言って、「よりまし」から数珠を取り返して、「あーあ、ひどく効き目がないなあ」と言って額から上の方に手でしゃくるように撫で上げて、あくびを自分が先に立ってして物に寄りかかって寝てしまうのですよ。まったく何と興ざめでしょう。
ひどく眠たいと思う時に、たいして好意も感じていない人が、揺すって起こし、無理に話し掛けてくるのは、大変に興ざめなものです。
除目に官職を得られぬ人の家、これは興ざめなものです。
「今年は必ず任官できる」と聞いて、以前仕えていた者たちで、今は他家に行ってしまっている者や、近郷に引っ込んでいるような者たちが、みなこの家に集まって来て、出入りする訪問客の牛車の轅に隙間が見えないほど集まり、任官祈願の物詣でをする供に、「われもわれも」と随行参詣し、物を食べ酒を飲み、大声に騒ぎ合っているのに、任官の詮議が終わる夜明け方まで、吉報をもたらす使いが門をたたく音もしない。
「妙なことだ」などと、耳を澄まして聞いていると、先払いの声などが次々として、上達部などがみな宮中から出ておしまいになる。情報を掴むために、前夜から役所のそばで寒さにぶるぶる震えながら控えていた下男が、とても憂鬱そうに歩いてくるのを見つけた家内の者たちは、結果を尋ねることさえできない。
外から来合わせた者などが、「殿は何におなりになったか」などと尋ねると、その答えとしては「何々の前の国司ですよ」などと、きまって応じるのですよ。本心から期待していた者は、「実に情けない」と思っていることでしょう。
翌朝になると、ぎっしりと詰めかけていた者たちが一人二人と、こっそりと抜け出して、帰ってゆく。古くから仕えている者たちで、そうそうあっさり離れていくこともできない者は、来年に国司の交代がありそうな国々を、指を折って数えたりして、家の中をのっそりのっそりとうろついたりしている姿は、たいそう気の毒で、興ざめなものに見えます。
「まず良く詠めた」と思う歌を手紙に書いて人のもとに贈ったのに、返歌をしてこないのですよ。片思いの恋人であれば、返事がなくて仕方のないことでしょうが。
たとえそのような場合でも、季節の風情などを折り込んで贈った手紙に返歌をしてこないのは、幻滅してしまいます。
また、人の出入りも多く、今をときめく人の所に、世間から忘れられたような老人が、自分が退屈で暇を持て余している日頃のくせで、昔のよしみを思いだして、大しておもしろみもない歌を詠んでよこしたのは、興ざめなことです。
儀式用の立派な扇を、「格別大切なもの」と思って、その方面の心得があると思っている人に渡しておいたのに、その当日になって、思惑違いのとんでもない絵などを描いて返されたのですよ。
出産のお祝いや旅立ちの餞別などの使いに、ご祝儀を与えない人には、がっかりします。ちょっとした薬玉や卯槌(クスダマ・ウヅチ、ともに厄除けなどの縁起もの)を持って歩きまわる者などにも、やはりご祝儀は、ぜひ与えるべきです。
予想もしていなかったのに、思いがけずご祝儀をもらった時は、「たいへん使いのしがいがあった」と思うことでしょう。反対に「これは必ずご祝儀をいただけるはずの使いだ」と思って、胸をときめかせて行った場合は、もし無ければ、とりわけがっかりするものですよ。
婿を迎えて、四、五年たっても子供ができず産屋の騒ぎをしない家も、とてもさびしいものです。
もう成人した子供がたくさんあり、へたすると孫でも這いまわっていそうな歳の親どうしが昼間から寝床に入っているのですよ。そばにいる子供たちの気持ちにしても、親が寝床にいる間は、よりどころがなく、それはなんとも興ざめなものでしょうね。
大晦日の夜、一度寝たあと、また起きて精進潔斎のために沐浴するのは、寒い中でもあり、興ざめどころか腹立たしくなってしまいます。
大晦日の長雨。「たった一日の精進が守れないで」という諺もありますが、こういう長雨を「一日だけの精進潔斎」とでも言うのでしょうね。
「すさまじきもの」とは、不調和からくる興ざめで不愉快なもの、その場にそぐわないもの、季節はずれなもの、などといった意味です。
この章段には、多くの事項や情景が描かれています。個別の事柄の他、加持祈祷の様子や任官を逃した人の話などはなかなか興味深く、さらには、際どいほど艶めいた部分もちりばめられています。
例えば最後の部分は、大晦日の夜は元旦に備えて沐浴潔斎が習わしでしたので、一度沐浴を済ませていたのに再び湯浴みしなくてはならなくなったという、何とも艶っぽい話なのです。
ただ、この「すさまじきもの」を現在の私たちの言葉で表現するのはなかなか難しいように思われます。私も「興ざめする」という言葉を何か所かで使っていますが、意味は伝わるとしましても、日常あまり使わない言葉のように思います。
少納言さまがそれぞれの場所で使われている「すさまじきもの」の現代語訳を考えるだけでも楽しいのではないでしょうか。
すさまじきもの。
昼ほゆる犬、春の網代、三、四月の紅梅の衣。
牛死にたる牛飼、ちご亡くなりたる産屋、火おこさぬ墨櫃・地火炉。
うちつづき女児生ませたる。
(以下割愛)
不調和で興ざめなもの。
昼間ほえる犬。春まで残っている網代。三、四月に着る紅梅の着物。
牛が死んでしまっている牛飼。乳飲み子が亡くなってしまった産屋。
まだ跡継ぎの男児がいないのに、続けて女の子を産ませている。
方違えで行ってももてなししない所。ましてそれが節分違えなどである時はとても興ざめです。
地方から来た手紙に贈り物が付いていないもの。京からの手紙でも同じことを思うことでしょう。でもそれには、都の知りたい便りなどが伝えられているのですから、贈り物がなくても、ずっと良いものです。
特別丁寧に書いた手紙の返事を待ちかねて、「もう持ち帰る頃なのに、ひどく遅いな」と思っているところへ、先ほどの手紙を、正式の形式を備えた書状なのにひどく汚らしく取り扱い、ぶよぶよにし、上に引いてある墨なども消えてしまい、その上、不在だとか物忌とかで持ち帰ってくるのは、大変がっかりして興ざめしてしまいます。
また、必ず来るはずの人の所に車を迎えにやり待っている時に、来る音がするので、どうやら来たようだと、人々が出てみますと、牛車を車庫に引き入れてしまい、轅(ナガエ)をポンと打ちおろすのを、「どうしたのだ」と尋ねますと、「今日はよそにお出かけとかで、こちらへはお越しになりません」などと無造作に言って、牛だけ曳き出して帰って行くのは、まったく興ざめです。
また、家に迎えていた婿君が来なくなってしまったのは、たいそう興ざめなことです。
相当な身分の人で、宮仕えする女のもとに夫を取られて、取り残された妻が、恥ずかしいことだと家の中に閉じこもっているのも、全くみっともないことです。
乳飲み子の乳母が、「ほんの少し」といって出かけたので、その間乳飲み子を何とか機嫌を取って遊ばせて,「早く帰ってくるように」と乳母の家に車を迎えにやって言わせたのに、「今夜は帰れそうもありません」ということで、車を返してよこしたのは、、興ざめなだけでなく、とても憎らしくて我慢がなりません。
まして、愛人である女性を迎える男が、こんな目にあったら、どんな気がするでしょう。
待つ人がある女の家に、夜が少しふけてから、あたりをはばかるようにそっと門をたたくので、胸が少しどきりとして、人を出して尋ねさせると、その人ではない別のくだらない人が名乗ってやってきたのは、「返す返すも興ざめだ」というさえ馬鹿らしいほどです。
修験者が「物の怪を調伏する」ということで、いかにも自信ありげに、「よりまし」(一時的に霊などを取りつかせる人や人形)に法具や数珠などを持たせて、蝉のような声を絞り出して経を読み続けても、物の怪は少しも退散しそうな様子もなく、護法童子という鬼神さえもつかないものですから、一家全員が集まって祈念をこらして座っているのですが、そのうち男も女も「どうも変だなあ」と思っているうちに、所定の時間が過ぎるまで経文を読み続けて疲れてしまい、「いっこうに護法つかない。立ちなさい」と言って、「よりまし」から数珠を取り返して、「あーあ、ひどく効き目がないなあ」と言って額から上の方に手でしゃくるように撫で上げて、あくびを自分が先に立ってして物に寄りかかって寝てしまうのですよ。まったく何と興ざめでしょう。
ひどく眠たいと思う時に、たいして好意も感じていない人が、揺すって起こし、無理に話し掛けてくるのは、大変に興ざめなものです。
除目に官職を得られぬ人の家、これは興ざめなものです。
「今年は必ず任官できる」と聞いて、以前仕えていた者たちで、今は他家に行ってしまっている者や、近郷に引っ込んでいるような者たちが、みなこの家に集まって来て、出入りする訪問客の牛車の轅に隙間が見えないほど集まり、任官祈願の物詣でをする供に、「われもわれも」と随行参詣し、物を食べ酒を飲み、大声に騒ぎ合っているのに、任官の詮議が終わる夜明け方まで、吉報をもたらす使いが門をたたく音もしない。
「妙なことだ」などと、耳を澄まして聞いていると、先払いの声などが次々として、上達部などがみな宮中から出ておしまいになる。情報を掴むために、前夜から役所のそばで寒さにぶるぶる震えながら控えていた下男が、とても憂鬱そうに歩いてくるのを見つけた家内の者たちは、結果を尋ねることさえできない。
外から来合わせた者などが、「殿は何におなりになったか」などと尋ねると、その答えとしては「何々の前の国司ですよ」などと、きまって応じるのですよ。本心から期待していた者は、「実に情けない」と思っていることでしょう。
翌朝になると、ぎっしりと詰めかけていた者たちが一人二人と、こっそりと抜け出して、帰ってゆく。古くから仕えている者たちで、そうそうあっさり離れていくこともできない者は、来年に国司の交代がありそうな国々を、指を折って数えたりして、家の中をのっそりのっそりとうろついたりしている姿は、たいそう気の毒で、興ざめなものに見えます。
「まず良く詠めた」と思う歌を手紙に書いて人のもとに贈ったのに、返歌をしてこないのですよ。片思いの恋人であれば、返事がなくて仕方のないことでしょうが。
たとえそのような場合でも、季節の風情などを折り込んで贈った手紙に返歌をしてこないのは、幻滅してしまいます。
また、人の出入りも多く、今をときめく人の所に、世間から忘れられたような老人が、自分が退屈で暇を持て余している日頃のくせで、昔のよしみを思いだして、大しておもしろみもない歌を詠んでよこしたのは、興ざめなことです。
儀式用の立派な扇を、「格別大切なもの」と思って、その方面の心得があると思っている人に渡しておいたのに、その当日になって、思惑違いのとんでもない絵などを描いて返されたのですよ。
出産のお祝いや旅立ちの餞別などの使いに、ご祝儀を与えない人には、がっかりします。ちょっとした薬玉や卯槌(クスダマ・ウヅチ、ともに厄除けなどの縁起もの)を持って歩きまわる者などにも、やはりご祝儀は、ぜひ与えるべきです。
予想もしていなかったのに、思いがけずご祝儀をもらった時は、「たいへん使いのしがいがあった」と思うことでしょう。反対に「これは必ずご祝儀をいただけるはずの使いだ」と思って、胸をときめかせて行った場合は、もし無ければ、とりわけがっかりするものですよ。
婿を迎えて、四、五年たっても子供ができず産屋の騒ぎをしない家も、とてもさびしいものです。
もう成人した子供がたくさんあり、へたすると孫でも這いまわっていそうな歳の親どうしが昼間から寝床に入っているのですよ。そばにいる子供たちの気持ちにしても、親が寝床にいる間は、よりどころがなく、それはなんとも興ざめなものでしょうね。
大晦日の夜、一度寝たあと、また起きて精進潔斎のために沐浴するのは、寒い中でもあり、興ざめどころか腹立たしくなってしまいます。
大晦日の長雨。「たった一日の精進が守れないで」という諺もありますが、こういう長雨を「一日だけの精進潔斎」とでも言うのでしょうね。
「すさまじきもの」とは、不調和からくる興ざめで不愉快なもの、その場にそぐわないもの、季節はずれなもの、などといった意味です。
この章段には、多くの事項や情景が描かれています。個別の事柄の他、加持祈祷の様子や任官を逃した人の話などはなかなか興味深く、さらには、際どいほど艶めいた部分もちりばめられています。
例えば最後の部分は、大晦日の夜は元旦に備えて沐浴潔斎が習わしでしたので、一度沐浴を済ませていたのに再び湯浴みしなくてはならなくなったという、何とも艶っぽい話なのです。
ただ、この「すさまじきもの」を現在の私たちの言葉で表現するのはなかなか難しいように思われます。私も「興ざめする」という言葉を何か所かで使っていますが、意味は伝わるとしましても、日常あまり使わない言葉のように思います。
少納言さまがそれぞれの場所で使われている「すさまじきもの」の現代語訳を考えるだけでも楽しいのではないでしょうか。