冬至が過ぎて二日ばかり過ぎました。
一日ごとに昼間の時間が短くなり続けてきましたが、一昨日を起点に、今度は一日ごとに昼間の時間が長くなっていくことになります。
ここ数年は、冬至の日には、カピバラさんが露天風呂にゆずの実をいっぱい入れてもらって、うっとりしている姿がテレビで報じられます。「ごくらく、ごくらく・・」とは言っていないのでしょうが、何だか聞こえてくるような気がして、見ているだけで幸せな気持ちになります。
また、人間様の銭湯でも、ゆずのサービスをしている所が結構あるようですし、各自の家庭でもゆずを浮かべてお風呂を楽しむ人は多いようです。さらには、地域によって差はあるのでしょうが、わが家のあたりでは、「ん」が二つ付く食材を食べる習慣があるようです。例えば、レンコン・ニンジン・ナンキン・キンカン・うどん(ウンドン)といった物です。
暦の感覚からすれば、冬至は夏至と対を成すものだと思うのですが、夏至には特別なことをするというニュースはあまりに聞かないような気がしますので、私たちにとって、冬至は特別な意味を持っているのかもしれません。
「一陽来復(イチヨウライフク)」という言葉があります。おそらく、陰陽思想に基づく言葉だと思うのですが、辞書で調べてみますと、「 ①陰がきわまって陽がかえってくること。陰暦11月または冬至の称。 ②冬が去り春が来ること。 ③悪い事ばかりあったのがようやく回復して善い方に向いてくること。」とあります。
つまり、冬至というのは、大変な転換点の日なのです。
古代中国においては、冬至を新しい年の始まりとした時代があったそうです。
古代の人に限りませんが、私たちにとって、闇は、やはり恐怖です。光りに満ちあふれた生活に慣れてしまっていますが、現代人であっても闇の空間に置かれますと、それだけで相当の恐怖を感じるはずです。古代の人にとって、闇が長くなっている状態が反転する冬至は、格別な意味があったのかもしれません。
「冬至十日経てば阿呆でも知る」という言葉もあります。ほんのわずかずつとは言え、一日一日昼間の時間が長くなっていきますので、二日や三日では無理でも、十日もすれば、どんなぼんやりしている人でも気がつくものだ、ということなのでしょうが、案外気がつかない人も多いようです。世間は阿呆で満ちあふれているなどと言えば叱られますが、現代人には案外気がつくのが遅い人は多いようです。
その一つは、私たちの生活パターンが、日の出や日の入りをベースにしたものから離れていることや、人工の光に囲まれていることにあります。
もう一つは、昼間の時間が長くなっていくと言っても、朝夕ともに均等に明るい時間が増えていくかといえば、そうではないからです。日の入りがもっとも遅くなるのは、冬至より2週間ほど前の12月上旬であり、日の出がもっとも遅くなるのは2週間ほどの1月上旬のことなのです。
つまり、日の入りに接することが多い人は、すでに日が長くなってきたなと感じていますが、日の出に接する機会が多い人は、まだまだ日が短くなっているように感じる可能性があるのです。
私たちが、生活設計の出発点にするのは、やはり元旦が一番多いと思われます。企業などに深く関わっている人などでは、4月1日だというお方もいらっしゃるかもしれませんが、冬至だというお方はまずいないことでしょう。
しかし、いくら偉そうなことを言っても、私たちは大自然の中で生かされています。素直にそれを受け入れるとしますと、私たちのバイオリズムに冬至は大きな意味を持っているのかもしれません。
今年の冬至はすでに過ぎてしまいましたが、二十四節気でいう冬至の期間は、1月の4日までを言います。ちょうどその頃には、日の出の時間も反転するはずです。
「一年の計は元旦にあり」という言葉もありますが、来年の元旦には、「○○でも冬至と分る」頃ですから、悠々たる大自然の息吹を感じながら一年の計を立てる、というのはいかがでしょうか。
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