秋風の いたりいたらぬ 袖はあらじ
ただわれからの 露の夕暮れ
作 者 鴨長明
( No.366 巻第四 秋歌上 )
あきかぜの いたりいたらぬ そではあらじ
ただわれからの つゆのゆうぐれ
* 作者は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての神官・歌人・随筆家。位階は従五位下。( 1155 - 1216 ) 行年六十二歳。
* 歌意は、「 秋風が 吹き至る袖至らぬ袖の 区別はあるまい それなのに わが心から涌きいずる涙が 袖を濡らせる 露の夕暮よ 」といったもので、「秋歌」に入っているが、抒情的な意味合いが強く感じられる。
* 作者は、賀茂御祖神社(下賀茂神社)の神事を統率する禰宜である鴨長継の次男として生まれた。
1161年、七歳にして従五位下を叙爵。これには、高松院の愛護を受けていたとされる。高松院とは、鳥羽天皇の皇女で、二条天皇の中宮となり、後に女院号を授けられた女性であるが、朝廷・公家・武家が激しい権力闘争を展開した保元・平治の時代に三十六年の生涯を送った女性である。
幼くして冠位を得た長明であるが、十八歳の頃に父を亡くして後見を失ったこともあって、この後冠位をあげることが出来なかった。
* 幼いころから、和歌・琵琶を学び、歌人としては後鳥羽院の和歌所寄人の一人に任じられており、当時の歌人としては一流といえる。新古今和歌集には10首が撰ばれており、勅撰集全部では25首が入っている。
しかし、鴨長明といえば、「方丈記」の存在があまりに大きく、現在の私たちは著述家あるいは随筆家として捉えがちであるが、それでは彼の生涯を見誤るような気がする。
「方丈記」については、本稿では割愛させていただくが、ぜひ一度は手にしたい作品といえる。
* 鴨長明の生涯を考える場合、その反省は、賀茂社の禰宜の地位を廻る闘いの日々であったようにも思われる。少々大げさな表現かもしれないが、1204年、五十歳の頃、禰宜の地位を廻る最後のチャンスに敗れた長明は、神官への道を諦めて出家している。
後世に輝く名著「方丈記」を完成させたのは、1212年の頃であることを考えれば、禰宜に就くことに拘っていた長明は、現世の利益に振り回されていたのかもしれず、出家後は、長明にとって別の生涯なのではないかとも思うのである。
* 1216年、鴨長命は六十二歳で生涯を閉じた。出家してからおよそ十二年後のことである。その最期の時にあたって、その生涯を どのように俯瞰していたのだろうかと、しみじみと想わせてくれる人物である。
☆ ☆ ☆
鴨長明は、ある人に言わせると、「45歳まで仕事もせず歌と楽器にうつつを抜かすオタクニートだ」と。後鳥羽院に見いだされて本領を発揮し、遂に50歳になって引き隠って、後世まで名を残したと私は思っております。引き隠らなければ普通の歌人の評価で終わっていたでしょう。
この時代の歌は、本歌が何かと言うのが、とても重要です。この歌も古今集の伊勢物語歌が本歌です。
「抒情的な意味合いが強く感じられる」と言うご感想もそこの所を感じられたのでしょう。幽玄の俊恵の弟子ですね。
又楽しみに拝見いたします。
拙句
秋風は真っ先に来い午後の道
(物悲しい秋風でも良いから吹いてくれ!と言う暑さです)
コメントありがとうございます。
鴨長明に関しましては、貴兄の博学には及びませんが、かなり以前に、私も少々勉強した時期がありました。その動機は、「父を亡くしてから禰宜への希望を棄てる迄の長明について作品を書きたい」というものでしたが、私には荷が重すぎました。
今は、方丈記をもう一度じっくりと読む機会を作りたいと思っています。
ありがとうございました。