ちょっぴり『老子』 ( 74 )
三つの宝
私には三つの宝がある
「 天下皆謂我道大似不肖。夫唯大故似不肖。若肖、久矣其細。夫我有三寶。持而寶之。一曰慈、二曰儉、三曰不敢爲天下先。慈故能勇。儉故能廣。不敢爲天下先、故能成器長。今捨慈且勇、舎儉且廣、舎後且先、死矣。夫慈以戦則勝、以守則固。天将救之。以慈衛之。 」
『老子』第六十七章の全文です。
読みは、「 天下皆我が道を大にして不肖に似たりと謂(イ)う。それ唯大なるが故に不肖に似たり。若(モ)し肖(ニ)なば、久しきかなその細たること。それ我には三寶有り。持してこれを寶とす。一に曰(イワ)く慈、二に曰く儉、三に曰く敢(ア)えて天下の先とならず。慈なる故に能(ヨ)く勇なり。儉なる故に能く廣なり。敢えて天下の先とならず、故に能く器長(キチョウ)を成す。今慈を捨てて且(マサ)に勇ならんとし、儉を捨てて且に廣くあらんとし、後れるを捨てて且に先んずるとすれば、死せん。それ慈を以って戦えば則ち勝ち、以って守れば則ち固し。天将(マサ)に之を救わんとす。慈を以って之を衛らん。 」
文意は、「 天下の人々は、私が説く道を大げさで何物にも似ていないという。(だから信用できない。)だが、それは大き過ぎるものだから何物にも似ていないのである。もし何かに似ていれば、とっくの昔に細かな下らないものになっていただろう。私には三つの宝がある。私はそれを宝として大切にしている。その第一は慈しみの心、第二は倹約であること、第三は決して天下の人々の先に立とうとしないことである。慈愛がある故に勇気が湧いてくる。倹約であればこそ広く人々に与えることが出来る。決して天下の人々の先に立とうとしないから、それ故に人に推されて人々の長となることが出来る。そうであるのに、今慈しみの心を捨ててむやみに勇ましく振る舞おうとしたり、倹約を捨てて自分の勢力を広げようとしたり、へりくだって人の後ろにいることを捨てて人々に先んじようとしたりすれば、身を亡ぼしてしまうだろう。そもそも慈しみの心から湧き出る勇気でもって戦えば勝ち、その勇気で守れば固い。天はまさに之を救けてくれる。だから私は、人民を慈しむ心を以って国を衛(マモ)るのである。 」
「肖」は「似る」と同じ意味です。
「器長」は、これで一つの言葉として、有用な人材の長という意味のようです。
私たちの宝にもなる
『老子』は中国の春秋戦国時代の思想家ですから、その教えの対象は主として為政者に対するものです。この章で述べられている「三つの宝」というのも、為政者のあり方について述べていることになります。
しかし、この「三つの宝」というのは、私たちにとっても、宝として大切にする価値があるように思われます。
「慈故能勇」の部分については、ある参考書には、「慈愛に満ちた母親は、我が子の危難には驚くべき勇気を発揮する」ということを例に挙げています。つまり、名誉欲や物欲からも勇気は大いに湧いてきますが、慈愛からくるものが最も強いと『老子』は教えているわけです。
「儉故能廣」については、日頃倹約して財を貯めておくことで広く味方を募ることが出来るということのようです。私たちの日常ではそこまではいかないとしても、たとえわずかな蓄えでも、有ると無いとでは行動や判断に差が出ることはあることです。
三つ目の「敢えて天下の先に立たず」を私たちの日常に当てはめれば、「あまり出しゃばらない」ということではないでしょうか。
これらの「三つの宝」、スケールはともかく、私たちも宝とすることは可能のようです。
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三つの宝
私には三つの宝がある
「 天下皆謂我道大似不肖。夫唯大故似不肖。若肖、久矣其細。夫我有三寶。持而寶之。一曰慈、二曰儉、三曰不敢爲天下先。慈故能勇。儉故能廣。不敢爲天下先、故能成器長。今捨慈且勇、舎儉且廣、舎後且先、死矣。夫慈以戦則勝、以守則固。天将救之。以慈衛之。 」
『老子』第六十七章の全文です。
読みは、「 天下皆我が道を大にして不肖に似たりと謂(イ)う。それ唯大なるが故に不肖に似たり。若(モ)し肖(ニ)なば、久しきかなその細たること。それ我には三寶有り。持してこれを寶とす。一に曰(イワ)く慈、二に曰く儉、三に曰く敢(ア)えて天下の先とならず。慈なる故に能(ヨ)く勇なり。儉なる故に能く廣なり。敢えて天下の先とならず、故に能く器長(キチョウ)を成す。今慈を捨てて且(マサ)に勇ならんとし、儉を捨てて且に廣くあらんとし、後れるを捨てて且に先んずるとすれば、死せん。それ慈を以って戦えば則ち勝ち、以って守れば則ち固し。天将(マサ)に之を救わんとす。慈を以って之を衛らん。 」
文意は、「 天下の人々は、私が説く道を大げさで何物にも似ていないという。(だから信用できない。)だが、それは大き過ぎるものだから何物にも似ていないのである。もし何かに似ていれば、とっくの昔に細かな下らないものになっていただろう。私には三つの宝がある。私はそれを宝として大切にしている。その第一は慈しみの心、第二は倹約であること、第三は決して天下の人々の先に立とうとしないことである。慈愛がある故に勇気が湧いてくる。倹約であればこそ広く人々に与えることが出来る。決して天下の人々の先に立とうとしないから、それ故に人に推されて人々の長となることが出来る。そうであるのに、今慈しみの心を捨ててむやみに勇ましく振る舞おうとしたり、倹約を捨てて自分の勢力を広げようとしたり、へりくだって人の後ろにいることを捨てて人々に先んじようとしたりすれば、身を亡ぼしてしまうだろう。そもそも慈しみの心から湧き出る勇気でもって戦えば勝ち、その勇気で守れば固い。天はまさに之を救けてくれる。だから私は、人民を慈しむ心を以って国を衛(マモ)るのである。 」
「肖」は「似る」と同じ意味です。
「器長」は、これで一つの言葉として、有用な人材の長という意味のようです。
私たちの宝にもなる
『老子』は中国の春秋戦国時代の思想家ですから、その教えの対象は主として為政者に対するものです。この章で述べられている「三つの宝」というのも、為政者のあり方について述べていることになります。
しかし、この「三つの宝」というのは、私たちにとっても、宝として大切にする価値があるように思われます。
「慈故能勇」の部分については、ある参考書には、「慈愛に満ちた母親は、我が子の危難には驚くべき勇気を発揮する」ということを例に挙げています。つまり、名誉欲や物欲からも勇気は大いに湧いてきますが、慈愛からくるものが最も強いと『老子』は教えているわけです。
「儉故能廣」については、日頃倹約して財を貯めておくことで広く味方を募ることが出来るということのようです。私たちの日常ではそこまではいかないとしても、たとえわずかな蓄えでも、有ると無いとでは行動や判断に差が出ることはあることです。
三つ目の「敢えて天下の先に立たず」を私たちの日常に当てはめれば、「あまり出しゃばらない」ということではないでしょうか。
これらの「三つの宝」、スケールはともかく、私たちも宝とすることは可能のようです。
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