枕草子 第二百五十九段 御前にて
御前にて、人々とも、またもの仰せらるるついでなどにも、
「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心ちもせで、『ただ、いづちもいづちもいきもしなばや』と思ふに、ただの紙のいと白う清げなるに良き筆、白き色紙、陸奥紙など得つれば、こよなう慰みて、『さばれ。かくてしばしも生きてありぬべかんぬり』となむ、おぼゆ。また、高麗端の席青うこまやかに厚きが、縁の文いとあざやかに黒う白う見えたるを、ひき展げて見れば、『なにか、なほこの世は、さらにさらに得思ひ捨つまじ』と、命さへ惜しくなむなる」
と申せば、
「いみじくはかなきことにも慰むなるかな。『姥捨山の月』は、いかなる人の見けるにか」
など、笑はせたまふ。さぶらふ人も、
「いみじうやすき息災の祈りななり」
などいふ。
(以下割愛)
中宮さまの御前で、他の女房たちと話す時も、また、中宮さまが私に話しかけて下さるついでなどでも、
「世の中のことに腹立たしくて、むしゃくしゃして、僅かな時間さえ生きているのが嫌になって、『もう、地獄でもどこへでも行ってしまいたい』と思っている時に、普通の紙なら真っ白で美しいのに上等の筆を添えてとか、白い色紙、それも陸奥紙などが手に入ったら、すっかり気持ちが慰められて、『まあいいわ。このままでしばらくは生きていてもよさそうだわ』とね、思うんです。
また、高麗端の席(コウライハシのムシロ・白地に雲形や菊形などの文様を黒糸で織りだした畳などのヘリ。高給というより清少納言の好み。ムシロは、ござ・うすべりのようなもの)の青くて目が細やかで厚みのあるもので、ヘリの文様がとてもあざやかに黒く白く見えているのを、広げて眺めますと、『なんのなんの、やっぱりこの世は、どうしてどうして捨てられたりは出来るものか』と、命さえ惜しくなってきます」
と申しますと、中宮さまは、
「随分とつまらないことで気持ちが慰められるのね。それでは、『姥捨山の月』は、どんな人が見たのかしら」(古今集の「わが心慰めかねつ更科や 姥捨山に照る月を見て」を引用して、「姥捨山の月を見ても慰められない人がいるのに」と、清少納言の楽天ぶりを笑った)
などと、お笑いになられる。お側の女房たちも、
「随分と安直な厄除けの祈祷みたいね」
などと言う。
そのようなことがあって、大分たって、思いあまる悩み事があって、宿下がりしていた頃、中宮さまがすばらしい紙二十枚を包んで、下さりました。表向きの仰せ言としては、
「早く参上せよ」
など、ご命じになり、
「これは、お耳にとめておかれたことがあったのでね。悪いようなので、寿命経も書けそうもないわね」
(中宮の言葉であるが、女房が代筆しているため、敬語が混じっている)
と仰せになっておられるのが、とてもすばらしい。
私自身が忘れてしまっていることを、覚えておいて下さったのは、ごく普通の人であってさえ、すばらしいことでしょう。まして、中宮さまですから、あだやおろそかに思っていいことではありません。感極まって、ご返事の申し上げようもなく、ただ、
「『かけまくもかしこきかみの験(シルシ)には 鶴の齢となりぬべきかな(口にするのも畏れ多い神<頂戴した紙>のお陰で、千年も寿命が延びてしまいそうです)
大げさすぎるでしょうか』と、申し上げて下さい」
と、ご返事をお願いしました。
台盤所の雑仕女が、御使いに来ていました。青い綾の単衣を祝儀として与えなどして帰らせたあと、心をこめて、この紙を冊子に造るなどして、お大騒ぎをしているうちに、不愉快なこともまぎれる気持ちがして、「ふしぎなものだ」と、心の底から思いました。
二日ばかり経って、赤い(退紅色。下人の服色)狩衣を着た男が、畳を持ってきて、
「これを、持参しました」
と言う。わが家の召使の女たちが、
「あれは誰なの」
「家の中が丸見えじゃないの」
などと、いきなり入ってきた無作法を責めるように、無愛想に言ったので、使者は畳を置いて帰ってしまいました。
「どちらからなの」と尋ねさせましたが、
「行ってしまいました」
と言うので、御簾の中に取り入れて見ると、特別仕立ての[御座」(ゴザ・オマシともよむ。貴人の敷物で、普通の畳の上に重ねて敷く)という畳の形式で、高麗へりなど、実に美しい。
心のうちでは、「中宮さまからに違いない」とは思いましたが、それでも不確かなので、召使たちを走らせて使者を探させましたが、どこへ行ったか見つけられません。
不審がっていろいろと言うが、使者がいないのでは、どうにも格好がつかず、
「届け先を間違えたのであれば、何とか言ってくるだろう。それより、宮中あたりに事情を伺いに上がらせたいが、中宮さまからでなかったら、間の悪いことになる」と思うが、「それにしても、果たして誰が、冗談半分にこんなことをするだろうか。やはり、中宮さまがおっしゃったことに違いない」と合点しましたが、そのお心がとてもすばらしい。
二日ばかり何の音沙汰もなく、間違って届けられたものではないので、右京の君(出自未詳。清少納言が可愛がっていた若い女房で、女蔵人階級らしい)のもとに、
「このようなことがあったの。そんなことがありそうな様子を御覧になりましたか。そっと実情を教えて下さいな。そのようなことを見ていなければ、私が『このような手紙を差し上げた』ことは、決して口外なさらないでね」
と書いて届けさせたところ、
「とても内緒になさっていらっしゃったことです。絶対に、『私が申し上げた』とは、口先にも出さないで」
と書いてきたので、「やっぱりねぇ」と、思った通りで、可笑しくて、手紙を書いて(誰から誰へとは分からない形で、ただ、畳をいただいて感謝している者がいることが、それとなく中宮の耳に入るように工夫したものと考えられる)、また、畳を、こっそりと御前の縁側の手すりの所へ置いて来させたところ、使いが慌てていたので、置いた拍子に取り落として、階段の下まで落ちてしまったそうです。
少納言さまと中宮の、何とも微笑ましい交流を描いた章段です。
文中の、中宮からの手紙の部分でも説明をつけさせていただきましたが、中宮などの手紙は大半が上臈女房などが代筆するのが普通のようです。そのため、例えば中宮が謙遜した言葉を使った場合など、書き手はそのまま表現しにくい場合があるようです。そのため、現代の私たちが読むと少々変な言葉遣いになってしまう部分が出来てしまいます。ただ、当時の人としては承知のことだったのでしょう。
御前にて、人々とも、またもの仰せらるるついでなどにも、
「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心ちもせで、『ただ、いづちもいづちもいきもしなばや』と思ふに、ただの紙のいと白う清げなるに良き筆、白き色紙、陸奥紙など得つれば、こよなう慰みて、『さばれ。かくてしばしも生きてありぬべかんぬり』となむ、おぼゆ。また、高麗端の席青うこまやかに厚きが、縁の文いとあざやかに黒う白う見えたるを、ひき展げて見れば、『なにか、なほこの世は、さらにさらに得思ひ捨つまじ』と、命さへ惜しくなむなる」
と申せば、
「いみじくはかなきことにも慰むなるかな。『姥捨山の月』は、いかなる人の見けるにか」
など、笑はせたまふ。さぶらふ人も、
「いみじうやすき息災の祈りななり」
などいふ。
(以下割愛)
中宮さまの御前で、他の女房たちと話す時も、また、中宮さまが私に話しかけて下さるついでなどでも、
「世の中のことに腹立たしくて、むしゃくしゃして、僅かな時間さえ生きているのが嫌になって、『もう、地獄でもどこへでも行ってしまいたい』と思っている時に、普通の紙なら真っ白で美しいのに上等の筆を添えてとか、白い色紙、それも陸奥紙などが手に入ったら、すっかり気持ちが慰められて、『まあいいわ。このままでしばらくは生きていてもよさそうだわ』とね、思うんです。
また、高麗端の席(コウライハシのムシロ・白地に雲形や菊形などの文様を黒糸で織りだした畳などのヘリ。高給というより清少納言の好み。ムシロは、ござ・うすべりのようなもの)の青くて目が細やかで厚みのあるもので、ヘリの文様がとてもあざやかに黒く白く見えているのを、広げて眺めますと、『なんのなんの、やっぱりこの世は、どうしてどうして捨てられたりは出来るものか』と、命さえ惜しくなってきます」
と申しますと、中宮さまは、
「随分とつまらないことで気持ちが慰められるのね。それでは、『姥捨山の月』は、どんな人が見たのかしら」(古今集の「わが心慰めかねつ更科や 姥捨山に照る月を見て」を引用して、「姥捨山の月を見ても慰められない人がいるのに」と、清少納言の楽天ぶりを笑った)
などと、お笑いになられる。お側の女房たちも、
「随分と安直な厄除けの祈祷みたいね」
などと言う。
そのようなことがあって、大分たって、思いあまる悩み事があって、宿下がりしていた頃、中宮さまがすばらしい紙二十枚を包んで、下さりました。表向きの仰せ言としては、
「早く参上せよ」
など、ご命じになり、
「これは、お耳にとめておかれたことがあったのでね。悪いようなので、寿命経も書けそうもないわね」
(中宮の言葉であるが、女房が代筆しているため、敬語が混じっている)
と仰せになっておられるのが、とてもすばらしい。
私自身が忘れてしまっていることを、覚えておいて下さったのは、ごく普通の人であってさえ、すばらしいことでしょう。まして、中宮さまですから、あだやおろそかに思っていいことではありません。感極まって、ご返事の申し上げようもなく、ただ、
「『かけまくもかしこきかみの験(シルシ)には 鶴の齢となりぬべきかな(口にするのも畏れ多い神<頂戴した紙>のお陰で、千年も寿命が延びてしまいそうです)
大げさすぎるでしょうか』と、申し上げて下さい」
と、ご返事をお願いしました。
台盤所の雑仕女が、御使いに来ていました。青い綾の単衣を祝儀として与えなどして帰らせたあと、心をこめて、この紙を冊子に造るなどして、お大騒ぎをしているうちに、不愉快なこともまぎれる気持ちがして、「ふしぎなものだ」と、心の底から思いました。
二日ばかり経って、赤い(退紅色。下人の服色)狩衣を着た男が、畳を持ってきて、
「これを、持参しました」
と言う。わが家の召使の女たちが、
「あれは誰なの」
「家の中が丸見えじゃないの」
などと、いきなり入ってきた無作法を責めるように、無愛想に言ったので、使者は畳を置いて帰ってしまいました。
「どちらからなの」と尋ねさせましたが、
「行ってしまいました」
と言うので、御簾の中に取り入れて見ると、特別仕立ての[御座」(ゴザ・オマシともよむ。貴人の敷物で、普通の畳の上に重ねて敷く)という畳の形式で、高麗へりなど、実に美しい。
心のうちでは、「中宮さまからに違いない」とは思いましたが、それでも不確かなので、召使たちを走らせて使者を探させましたが、どこへ行ったか見つけられません。
不審がっていろいろと言うが、使者がいないのでは、どうにも格好がつかず、
「届け先を間違えたのであれば、何とか言ってくるだろう。それより、宮中あたりに事情を伺いに上がらせたいが、中宮さまからでなかったら、間の悪いことになる」と思うが、「それにしても、果たして誰が、冗談半分にこんなことをするだろうか。やはり、中宮さまがおっしゃったことに違いない」と合点しましたが、そのお心がとてもすばらしい。
二日ばかり何の音沙汰もなく、間違って届けられたものではないので、右京の君(出自未詳。清少納言が可愛がっていた若い女房で、女蔵人階級らしい)のもとに、
「このようなことがあったの。そんなことがありそうな様子を御覧になりましたか。そっと実情を教えて下さいな。そのようなことを見ていなければ、私が『このような手紙を差し上げた』ことは、決して口外なさらないでね」
と書いて届けさせたところ、
「とても内緒になさっていらっしゃったことです。絶対に、『私が申し上げた』とは、口先にも出さないで」
と書いてきたので、「やっぱりねぇ」と、思った通りで、可笑しくて、手紙を書いて(誰から誰へとは分からない形で、ただ、畳をいただいて感謝している者がいることが、それとなく中宮の耳に入るように工夫したものと考えられる)、また、畳を、こっそりと御前の縁側の手すりの所へ置いて来させたところ、使いが慌てていたので、置いた拍子に取り落として、階段の下まで落ちてしまったそうです。
少納言さまと中宮の、何とも微笑ましい交流を描いた章段です。
文中の、中宮からの手紙の部分でも説明をつけさせていただきましたが、中宮などの手紙は大半が上臈女房などが代筆するのが普通のようです。そのため、例えば中宮が謙遜した言葉を使った場合など、書き手はそのまま表現しにくい場合があるようです。そのため、現代の私たちが読むと少々変な言葉遣いになってしまう部分が出来てしまいます。ただ、当時の人としては承知のことだったのでしょう。
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