枕草子 第百五十一段 羨ましげなるもの
羨ましげなるもの。
経など習ふとて、いみじうたどたどしく、忘れ勝ちに、返す返すおなじところを読むに、法師はことわり、男も女も、くるくるとやすらかに読みたるこそ、「あれがやうに何時の世にあらむ」と、おぼゆれ。
心ちなどわづらひて臥したるに、笑(エ)うちわらひ、ものなどいひ、思ふことなげにてあゆみ歩く人見るこそ、いみじう羨ましけれ。
(以下割愛)
羨ましく見えるもの。
お経などを習っていると、自分はひどくたどたどしくて、とかく忘れがちで、繰り返し繰り返し同じ所を読むのに、法師は当然のこと、男にしろ女にしろ、すらすらと楽に読んでいるのを聞くと、「あのように、いつなれるのだろう」と思われます。
気分が良くなくて臥せっている時に、楽しげに笑い、おしゃべりしたり、何の悩みもない様に出歩く人を見るのは、大変羨ましい。
稲荷の社に、思い起こして詣でた時、中の社の辺りが急坂で、とっても苦しいのを我慢しながら登っていると、少しも苦しそうな様子もなく、後から来るなと思っていた連中が、どんどん追い越して行って先にお参りするのは、実に大したものです。
二月の午の日(稲荷社の祭日は、二月の初午・二の午の日)に、明け方から急いで出かけましたが、坂の半分ほど歩いたところで、巳の時(午前十時頃)の頃になってしまいました。ぼつぼつ暑くさえなってきて、まったく情けなくなり、「どうして、こんなに暑い日でなく、ちょうど良い日があるでしょうに、何のために今日お参りしたのかしら」と、涙まで流して、疲れきって休んでいるのに、四十余りの女で、壺装束(女性の外出着)などではなくて、裾をからげただけの格好なのが、
「私は、七度参り(一日に七度詣でる)をするのですよ。三度はすでに参りました。あと四度など、大したことではありません。まだ羊の時(午後二時頃)には帰れるでしょう」
と、道で出会う人に話しかけて、下って行ったのには、普通の所では目につきそうもない女なのに、「この女の身に、今すぐなりたい」と、思ったものですよ。
女の子でも男の子でも、出家させた子でも、良い子を持っている人は、とても羨ましい。
髪がとても長くきちんと整っていて、下がり端(サガリバ・額から頬わきにかけて横顔を隠すように肩にかかるあたりで切り揃えた、その端のこと)などの美しい人。
また、高貴な方が、多くの人からうやうやしい扱いを受け、かしずかれておられるのを見ると、とても羨ましい。
字を上手に書き、歌を上手に詠んで、何か事あるごとにも、真っ先に選ばれる人は、羨ましい。
高貴な方の御前に、女房が大勢仕えているのに、とても大切な方へお出しになる手紙の代筆などを、そこにいる女房なら誰だって鳥の足跡みたいに下手なはずはないのに、自室などに下がっているのをわざわざ呼び出して、ご自分の硯をお下げ渡しになって書かせられるのは、羨ましい。
そのような代筆などは、そこに仕えて年功の女房ともなれば、本当に「難波わたり(筆跡が未熟なこと)」に近い者であっても、役目がらそれなりに書くものですが、この場合は、そうではなくて、公卿などの息女で、その上「お目見得に参上します」と中宮さまにお申し出のある立派な女性などには、格別に心配りをし、料紙をはじめ何かと整えなさいますのを、冗談にせよ、悔しがって呼ばれた人を中傷するらしい。
琴や笛など習うのも、同じように羨ましいものです。未熟な間は、「先生のように早くなりたい」と思うことですよ。
天皇や東宮の御乳母。
天皇付きの女房で、后や女御などどなたの所へでも気楽に出入り出来る人。
「羨ましい」という感覚は私たちと殆ど変らず、その意味で比較的分かりやすい内容だと思うのですが、
「高貴な方の御前に・・・」の部分は、羨ましいものの一例として書かれているはずなのに、推量や言い訳のような部分もあって、文脈としては少し乱れているようです。
どうやらこの部分は、少納言さま自身の体験で、出仕間もない少納言さまが大役を命じられた時のことのようです。
なお、「難波わたり」というのは、「難波津に咲くや木の花・・・」という手習いの最初に習う歌を指していて、まだ初心者程度という意味のようです。(第二十段にも、似た内容があります)
他にも、「難波の葦」から、「悪し、すなわち悪筆」という使われ方もしていたらしいです。
羨ましげなるもの。
経など習ふとて、いみじうたどたどしく、忘れ勝ちに、返す返すおなじところを読むに、法師はことわり、男も女も、くるくるとやすらかに読みたるこそ、「あれがやうに何時の世にあらむ」と、おぼゆれ。
心ちなどわづらひて臥したるに、笑(エ)うちわらひ、ものなどいひ、思ふことなげにてあゆみ歩く人見るこそ、いみじう羨ましけれ。
(以下割愛)
羨ましく見えるもの。
お経などを習っていると、自分はひどくたどたどしくて、とかく忘れがちで、繰り返し繰り返し同じ所を読むのに、法師は当然のこと、男にしろ女にしろ、すらすらと楽に読んでいるのを聞くと、「あのように、いつなれるのだろう」と思われます。
気分が良くなくて臥せっている時に、楽しげに笑い、おしゃべりしたり、何の悩みもない様に出歩く人を見るのは、大変羨ましい。
稲荷の社に、思い起こして詣でた時、中の社の辺りが急坂で、とっても苦しいのを我慢しながら登っていると、少しも苦しそうな様子もなく、後から来るなと思っていた連中が、どんどん追い越して行って先にお参りするのは、実に大したものです。
二月の午の日(稲荷社の祭日は、二月の初午・二の午の日)に、明け方から急いで出かけましたが、坂の半分ほど歩いたところで、巳の時(午前十時頃)の頃になってしまいました。ぼつぼつ暑くさえなってきて、まったく情けなくなり、「どうして、こんなに暑い日でなく、ちょうど良い日があるでしょうに、何のために今日お参りしたのかしら」と、涙まで流して、疲れきって休んでいるのに、四十余りの女で、壺装束(女性の外出着)などではなくて、裾をからげただけの格好なのが、
「私は、七度参り(一日に七度詣でる)をするのですよ。三度はすでに参りました。あと四度など、大したことではありません。まだ羊の時(午後二時頃)には帰れるでしょう」
と、道で出会う人に話しかけて、下って行ったのには、普通の所では目につきそうもない女なのに、「この女の身に、今すぐなりたい」と、思ったものですよ。
女の子でも男の子でも、出家させた子でも、良い子を持っている人は、とても羨ましい。
髪がとても長くきちんと整っていて、下がり端(サガリバ・額から頬わきにかけて横顔を隠すように肩にかかるあたりで切り揃えた、その端のこと)などの美しい人。
また、高貴な方が、多くの人からうやうやしい扱いを受け、かしずかれておられるのを見ると、とても羨ましい。
字を上手に書き、歌を上手に詠んで、何か事あるごとにも、真っ先に選ばれる人は、羨ましい。
高貴な方の御前に、女房が大勢仕えているのに、とても大切な方へお出しになる手紙の代筆などを、そこにいる女房なら誰だって鳥の足跡みたいに下手なはずはないのに、自室などに下がっているのをわざわざ呼び出して、ご自分の硯をお下げ渡しになって書かせられるのは、羨ましい。
そのような代筆などは、そこに仕えて年功の女房ともなれば、本当に「難波わたり(筆跡が未熟なこと)」に近い者であっても、役目がらそれなりに書くものですが、この場合は、そうではなくて、公卿などの息女で、その上「お目見得に参上します」と中宮さまにお申し出のある立派な女性などには、格別に心配りをし、料紙をはじめ何かと整えなさいますのを、冗談にせよ、悔しがって呼ばれた人を中傷するらしい。
琴や笛など習うのも、同じように羨ましいものです。未熟な間は、「先生のように早くなりたい」と思うことですよ。
天皇や東宮の御乳母。
天皇付きの女房で、后や女御などどなたの所へでも気楽に出入り出来る人。
「羨ましい」という感覚は私たちと殆ど変らず、その意味で比較的分かりやすい内容だと思うのですが、
「高貴な方の御前に・・・」の部分は、羨ましいものの一例として書かれているはずなのに、推量や言い訳のような部分もあって、文脈としては少し乱れているようです。
どうやらこの部分は、少納言さま自身の体験で、出仕間もない少納言さまが大役を命じられた時のことのようです。
なお、「難波わたり」というのは、「難波津に咲くや木の花・・・」という手習いの最初に習う歌を指していて、まだ初心者程度という意味のようです。(第二十段にも、似た内容があります)
他にも、「難波の葦」から、「悪し、すなわち悪筆」という使われ方もしていたらしいです。
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