名僧伝 増賀聖人 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 12 - 33 )
( (1) より続く )
増賀(ソウガ)は、このような奇異なふるまいが続いたので、一緒にいる学生(学僧)たちも交わろうとしなくなり、師の座主にも彼の様子を申し上げた。
座主も、「そのようになってしまった者を、今更どうすることも出来ない」と言っているのを聞いて、増賀は「思い通りになった」と思って、比叡山を下りて多武峰(トウノミネ)に行き、籠居して、静かに法華経を誦し、念仏を唱えていた。
多武峰の山上は、魔障(マショウ・仏道修行を妨げる悪魔による障害。)が強いというので、麓の村に僧房を造り、土塀で周りを囲んで、そこに住んでいた。
また、心をこめて三七日(サンシチニチ・二十一日間)の間、三時(日中に三回)の懺法(センポウ・罪過を懺悔する修法)を行っていたが、夢の中に、南岳大師(ナンガクダイシ・隋の高僧)と天台大師(唐の高僧)の二人が現れて、「殊勝なり、仏子(ブッシ・仏の弟子といった意)よ。お前は善根(極楽往生となる功徳)を行っている」とお告げになった。
その後は、ますます修業を怠ることがなかった。
やがて、増賀が尊い聖人であるという評判が高まり、冷泉天皇は増賀を召し出して護持僧(ゴジソウ・宮中で天皇の安泰を祈祷する僧。)とされたが、お召しに従って参上するも、様々な常軌を逸したような事を申し上げて逃げ去ってしまった。
このように、事あるごとに狂ったような振舞いばかりあったが、そうであるほどに尊いという評判は高まっていった。
そして、年八十余りになって、特別な病気はなかったが体調が思わしくなく、十余日前に自分の死期を知り、弟子たちを集めてそのことを告げ、「私が長年願っていたことが、今叶えられようとしている。今、この娑婆世界を捨てて極楽に往生することが間近となった。私が最も喜ぶことなのだ」と言って、弟子たちを集め、講演(説法)を行い、番論議(バンロンギ・法会の行事の一つ)を行わせて、その教義を語った。また、往生極楽に寄せて和歌を詠ませ、聖人自らも和歌を詠んだ。
『 みづはさす やそぢあまりの おひのなみ
くらげのほねに あふぞうれしき 』
( 八十余りの老いを迎えて、クラゲの骨に会うことが出来るのはうれしいことだ。 なお、「みずは(瑞歯)」は、老後再び生え替わる歯をいう。「くらげのほね」は、あり得ないものの例えで、極楽を指している。)
また、竜門寺(吉野にあった寺)の春久聖人(シュンクショウニン・伝不祥)という人は、増賀聖人の甥にあたるので、長年とても親しい間柄であったが、その聖人が来ていて傍に付き添っていたので、増賀聖人は大変喜んで、いろいろなことを語り合っていた。
やがて、聖人の入滅の日となり、竜門寺の聖人や弟子たちに向かい、「私が死ぬのは今日だ。そこで、碁盤を取ってきてくれ」と言われるので、傍らの僧房にあった碁盤を取ってきた。
その上に仏像でも据え奉るのかと思っていると、「私を抱き起してくれ」と言って、抱き起される。碁盤に向かうと、竜門寺の聖人を呼んで、「碁を一番打とう」と弱々しく言うので、「念仏を唱えようとなさらず、碁を打とうなどと物にとりつかれたのではないか」と悲しくなったが、畏れ敬っている聖人なので、言われることに従って、碁盤の上に石を十ばかり互いに置いていったが、「もう十分だ、やめよう」と言って、置いた石を崩してしまった。
竜門寺の聖人が「どうして碁など打つのでしょうか」と恐る恐る尋ねると、「昔、まだ小坊主だった頃、碁を人が打っているのを見たことがあるが、たった今、口に念仏を唱えながら、心の中にその時のことが思いだされて、『碁を打ってみたい』と思ったので打ってみたのだ」と答えた。
それから又、「抱き起せ」と言って、抱き起してもらう。
「泥障(アフリ・泥から衣服を守るための馬具)を一組捜して持ってきてくれ」と言うので、すぐさま捜して持ってくる。「それを結んで私の首に掛けてくれ」と言うので、言われるままに首に掛けた。
増賀聖人は大変苦しそうなのを堪えて、左右のひじを伸ばして、「古泥障をまとって舞うぞ」と言って、二、三度ばかり舞う格好をすると、「これを取り外してくれ」と言うので、取り除けた。
竜門寺の聖人が「どうして舞などされるのですか」と恐る恐る尋ねると、「まだ若かった頃、隣の僧房に小坊主たちが大勢いて、笑ったり騒いだりしていたので覗いてみると、一人の小坊主が泥障を首に掛けて、『胡蝶胡蝶と人は言うが、古泥障をまとって舞うよ』と歌って舞っていたのを、うらやましいと思ったが、長い間忘れていたのを、たった今思い出したので、それを成し遂げようと思って舞ったのだ。今はもう、思い残したことは露ほどもない」と言うと、人を皆さがらせて、仏堂の中に入って縄床(ジョウショウ・縄などを張って作った粗末な腰掛け。)に座し、口に法華経を誦し、手に金剛合掌の印を結び、西向きに座したまま入滅したのである。
その後、多武峰の山に埋葬された。
このように、まことに、最後に思い出したことは、必ず成し遂げるべきである。増賀聖人はそのことを知っていて、碁を打ち、泥障をまとったのである。
竜門寺の聖人の夢に増賀聖人が現れ、「私は上品上生(ジョウボンジョウショウ・浄土を九段階に分けた時の最上位。)に生まれた」と告げた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
( (1) より続く )
増賀(ソウガ)は、このような奇異なふるまいが続いたので、一緒にいる学生(学僧)たちも交わろうとしなくなり、師の座主にも彼の様子を申し上げた。
座主も、「そのようになってしまった者を、今更どうすることも出来ない」と言っているのを聞いて、増賀は「思い通りになった」と思って、比叡山を下りて多武峰(トウノミネ)に行き、籠居して、静かに法華経を誦し、念仏を唱えていた。
多武峰の山上は、魔障(マショウ・仏道修行を妨げる悪魔による障害。)が強いというので、麓の村に僧房を造り、土塀で周りを囲んで、そこに住んでいた。
また、心をこめて三七日(サンシチニチ・二十一日間)の間、三時(日中に三回)の懺法(センポウ・罪過を懺悔する修法)を行っていたが、夢の中に、南岳大師(ナンガクダイシ・隋の高僧)と天台大師(唐の高僧)の二人が現れて、「殊勝なり、仏子(ブッシ・仏の弟子といった意)よ。お前は善根(極楽往生となる功徳)を行っている」とお告げになった。
その後は、ますます修業を怠ることがなかった。
やがて、増賀が尊い聖人であるという評判が高まり、冷泉天皇は増賀を召し出して護持僧(ゴジソウ・宮中で天皇の安泰を祈祷する僧。)とされたが、お召しに従って参上するも、様々な常軌を逸したような事を申し上げて逃げ去ってしまった。
このように、事あるごとに狂ったような振舞いばかりあったが、そうであるほどに尊いという評判は高まっていった。
そして、年八十余りになって、特別な病気はなかったが体調が思わしくなく、十余日前に自分の死期を知り、弟子たちを集めてそのことを告げ、「私が長年願っていたことが、今叶えられようとしている。今、この娑婆世界を捨てて極楽に往生することが間近となった。私が最も喜ぶことなのだ」と言って、弟子たちを集め、講演(説法)を行い、番論議(バンロンギ・法会の行事の一つ)を行わせて、その教義を語った。また、往生極楽に寄せて和歌を詠ませ、聖人自らも和歌を詠んだ。
『 みづはさす やそぢあまりの おひのなみ
くらげのほねに あふぞうれしき 』
( 八十余りの老いを迎えて、クラゲの骨に会うことが出来るのはうれしいことだ。 なお、「みずは(瑞歯)」は、老後再び生え替わる歯をいう。「くらげのほね」は、あり得ないものの例えで、極楽を指している。)
また、竜門寺(吉野にあった寺)の春久聖人(シュンクショウニン・伝不祥)という人は、増賀聖人の甥にあたるので、長年とても親しい間柄であったが、その聖人が来ていて傍に付き添っていたので、増賀聖人は大変喜んで、いろいろなことを語り合っていた。
やがて、聖人の入滅の日となり、竜門寺の聖人や弟子たちに向かい、「私が死ぬのは今日だ。そこで、碁盤を取ってきてくれ」と言われるので、傍らの僧房にあった碁盤を取ってきた。
その上に仏像でも据え奉るのかと思っていると、「私を抱き起してくれ」と言って、抱き起される。碁盤に向かうと、竜門寺の聖人を呼んで、「碁を一番打とう」と弱々しく言うので、「念仏を唱えようとなさらず、碁を打とうなどと物にとりつかれたのではないか」と悲しくなったが、畏れ敬っている聖人なので、言われることに従って、碁盤の上に石を十ばかり互いに置いていったが、「もう十分だ、やめよう」と言って、置いた石を崩してしまった。
竜門寺の聖人が「どうして碁など打つのでしょうか」と恐る恐る尋ねると、「昔、まだ小坊主だった頃、碁を人が打っているのを見たことがあるが、たった今、口に念仏を唱えながら、心の中にその時のことが思いだされて、『碁を打ってみたい』と思ったので打ってみたのだ」と答えた。
それから又、「抱き起せ」と言って、抱き起してもらう。
「泥障(アフリ・泥から衣服を守るための馬具)を一組捜して持ってきてくれ」と言うので、すぐさま捜して持ってくる。「それを結んで私の首に掛けてくれ」と言うので、言われるままに首に掛けた。
増賀聖人は大変苦しそうなのを堪えて、左右のひじを伸ばして、「古泥障をまとって舞うぞ」と言って、二、三度ばかり舞う格好をすると、「これを取り外してくれ」と言うので、取り除けた。
竜門寺の聖人が「どうして舞などされるのですか」と恐る恐る尋ねると、「まだ若かった頃、隣の僧房に小坊主たちが大勢いて、笑ったり騒いだりしていたので覗いてみると、一人の小坊主が泥障を首に掛けて、『胡蝶胡蝶と人は言うが、古泥障をまとって舞うよ』と歌って舞っていたのを、うらやましいと思ったが、長い間忘れていたのを、たった今思い出したので、それを成し遂げようと思って舞ったのだ。今はもう、思い残したことは露ほどもない」と言うと、人を皆さがらせて、仏堂の中に入って縄床(ジョウショウ・縄などを張って作った粗末な腰掛け。)に座し、口に法華経を誦し、手に金剛合掌の印を結び、西向きに座したまま入滅したのである。
その後、多武峰の山に埋葬された。
このように、まことに、最後に思い出したことは、必ず成し遂げるべきである。増賀聖人はそのことを知っていて、碁を打ち、泥障をまとったのである。
竜門寺の聖人の夢に増賀聖人が現れ、「私は上品上生(ジョウボンジョウショウ・浄土を九段階に分けた時の最上位。)に生まれた」と告げた、
となむ語り伝へたるとや。
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