光明皇后の想い人(1) ・ 今昔物語 ( 巻11-6 )
今は昔、
聖武天皇の御代に、玄(ゲンボウ)という僧がいた。俗称は阿刀の氏(アトノウジ)、大和国の人である。
幼くして義淵(ギエン・原文は意識的な欠字になっている)という人に従って出家して仏法を学んだが、聡明にして理解が早かった。
震旦(シンタン・中国)に渡って正しい教えを持ち帰り、仏法をも広く学ぼうと思い、霊亀二年(716)唐に渡り、知周法師という人を師として、彼の唱える大乗法相の教法を学び、多くの正教(ショウキョウ・仏典)を持ち帰った。
その国の天皇は、玄を尊んで、三品の位を授け紫の袈裟を付させるようにした。そういうことから、その国に二十年いて、天平七年という年に、遣唐使の丹治比真人広成(タジヒノマヒトヒロナリ)が帰朝するとき、一緒に日本に帰ってきた。経論五千余巻と仏像などを持ち帰った。
そして、朝廷に仕えて僧正となった。
ところが、天皇の后、光明皇后がこの玄を尊び帰依なさったので、玄は后の側近くに親しく仕えることになった。后の寵愛はますます深まり、世間の人々はあれこれと良くない噂を取りざたするようになった。
その頃、藤原広継(正しくは広嗣)という人がいた。不比等大臣の御孫である。
式部卿藤原宇合(ウマカイ)という人の子でもあり、家柄は高く人柄も良かったので、世間に重んじられた人であった。その上、気性は極めて勇猛で、聡明で万事に優れていたので、吉備大臣(吉備真備)を師として漢学を学び、才能も豊かなので、朝廷に仕えて右近の少将になった。
この人はとても並の人ではなく、午前中は都にいて右近の少将として朝廷に仕え、午後になると鎮西(チンゼイ・九州)に下って太宰の小弐(ダザイノショウニ・大宰府の次官)として大宰府の政治を担っていたので、世間の人は不思議なことだと思っていた。その家は、肥前国の松浦郡にあった。
常日頃、広継はこのようにして過ごしていたが、玄を后が寵愛しているということを聞いて、大宰府より国解(コクゲ・諸国から中央官庁に提出する公文書)を奉って、「天皇の后が僧玄を寵愛なさっていることは、もっぱら世間の非難を集めています。速やかにその僧の出仕を留めていただきたい」と奏上した。
天皇はこの進言を、「全くけしからんことだ」とお思いになり、「広継ごときが何ゆえに朝廷の政が分かるというのか。このような者が世にあれば、きっと国の禍になるであろう。されば、速やかに広継を罰すべきである」と裁定なされた。
その当時、御手代の東人(ミテシロノアヅマヒト・正しくは大野朝臣東人)という人がいて、大変勇猛で思慮深く智謀にたけた者であったので、武人として仕えていた。
この東人に仰せがあり、「速やかに広継を討伐せよ」と使者を遣わされたので、東人はこの宣旨をお受けして鎮西に下って行った。
( 以下は、(2)に続く )
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今は昔、
聖武天皇の御代に、玄(ゲンボウ)という僧がいた。俗称は阿刀の氏(アトノウジ)、大和国の人である。
幼くして義淵(ギエン・原文は意識的な欠字になっている)という人に従って出家して仏法を学んだが、聡明にして理解が早かった。
震旦(シンタン・中国)に渡って正しい教えを持ち帰り、仏法をも広く学ぼうと思い、霊亀二年(716)唐に渡り、知周法師という人を師として、彼の唱える大乗法相の教法を学び、多くの正教(ショウキョウ・仏典)を持ち帰った。
その国の天皇は、玄を尊んで、三品の位を授け紫の袈裟を付させるようにした。そういうことから、その国に二十年いて、天平七年という年に、遣唐使の丹治比真人広成(タジヒノマヒトヒロナリ)が帰朝するとき、一緒に日本に帰ってきた。経論五千余巻と仏像などを持ち帰った。
そして、朝廷に仕えて僧正となった。
ところが、天皇の后、光明皇后がこの玄を尊び帰依なさったので、玄は后の側近くに親しく仕えることになった。后の寵愛はますます深まり、世間の人々はあれこれと良くない噂を取りざたするようになった。
その頃、藤原広継(正しくは広嗣)という人がいた。不比等大臣の御孫である。
式部卿藤原宇合(ウマカイ)という人の子でもあり、家柄は高く人柄も良かったので、世間に重んじられた人であった。その上、気性は極めて勇猛で、聡明で万事に優れていたので、吉備大臣(吉備真備)を師として漢学を学び、才能も豊かなので、朝廷に仕えて右近の少将になった。
この人はとても並の人ではなく、午前中は都にいて右近の少将として朝廷に仕え、午後になると鎮西(チンゼイ・九州)に下って太宰の小弐(ダザイノショウニ・大宰府の次官)として大宰府の政治を担っていたので、世間の人は不思議なことだと思っていた。その家は、肥前国の松浦郡にあった。
常日頃、広継はこのようにして過ごしていたが、玄を后が寵愛しているということを聞いて、大宰府より国解(コクゲ・諸国から中央官庁に提出する公文書)を奉って、「天皇の后が僧玄を寵愛なさっていることは、もっぱら世間の非難を集めています。速やかにその僧の出仕を留めていただきたい」と奏上した。
天皇はこの進言を、「全くけしからんことだ」とお思いになり、「広継ごときが何ゆえに朝廷の政が分かるというのか。このような者が世にあれば、きっと国の禍になるであろう。されば、速やかに広継を罰すべきである」と裁定なされた。
その当時、御手代の東人(ミテシロノアヅマヒト・正しくは大野朝臣東人)という人がいて、大変勇猛で思慮深く智謀にたけた者であったので、武人として仕えていた。
この東人に仰せがあり、「速やかに広継を討伐せよ」と使者を遣わされたので、東人はこの宣旨をお受けして鎮西に下って行った。
( 以下は、(2)に続く )
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