昨年のマツリの座に掲げてあった雨宝童子像の掛軸を拝見したく訪問した大和郡山市横田町の柳生垣内。
掛軸は2月、5月、9月の日待ちに掲げると云っていた。
日待ちは17戸の垣内の集会が主目的であって、祭りごとは掛軸を掲げるだけだと話していた。
村人がやって来る前であれば「存分に撮ってもいい」と総代や水利組合長が告げる。
集会が始まる30分前に到着したときには当番の人がすでに掲げていた掛軸。
たしかマツリに掲げていた掛軸は雨宝童子像の周りには五神が描かれていたと思うのである、この日は雨宝童子像の一神図であった。
裏書の記載も掛軸箱にも年代記を示す文字は見られないが、軸箱には「天照皇大神宮 掛物 香則市年寄附」の墨書が書かれてあった。
寄附した人の名があるが、村に住む人であるのか、である。
尋ねた結果は、どなたも判らないと答える。
村の人には存在しない人が寄附した掛軸は虫が喰った穴が数か所に亘っていた。
軸箱は黒ずんでいた。これまで各地域に存在する数々の軸箱や講箱を拝見してきた。
その状況から推定するに、年代は明治時代前半か、それとも江戸時代のものであるように思えた。
掛軸下にお神酒、お花、ローソクを立てるが、火を灯すこともなく、また、拝礼や念仏を唱えることもなく集会が始まった。
この日は朝7時から水利組合員は「川掘り」をしていた。
管理池や水路の清掃で、昼前に終わったと云う日待ちの集会。
「いつもそうだ」と話す集会は自治会の案件を検討する会合である。
およそ一時間もかけて検討された。
それで終わることなく、次は水利組合の課題を検討する。
これもまた一時間である。
村の課題は他村と同様にどことも似たような案件だと思った。
村の課題解決の集会。
ようやく終わった直会の膳はパック詰め料理で会食される。
取材のお礼を伝えて自宅に戻った。
記録していた雨宝童子像の掛軸を再確認した。
この日に掲げた掛軸とはまったく違っていたことが判った。
マツリに掲げた掛軸は多賀大社の伊弉諾尊・熊野神社の伊弉册尊・大巳貴命・稲蒼魂命を配置した雨宝童子像の掛軸は5神を描いた「開運壽福地神」図である。
(H25.11.10 EOS40D撮影)
その後の7月19日。当番家のM家を訪れた。
家人の話しによれば雨宝童子一神図の掛軸は廻りで次の隣家に引き継いだと云う。
この日に掲げた掛軸は5月、9月、2月の日待ちの廻り。
マツリのときに拝見した5神図は別の講の所有であるようだ。
柳生垣内の講は伊勢講もあれば、行者講、観音講、地蔵講があるらしい。
それを総称して「物講(ものこう)」と呼んでいるようだ。
なお、当番家の祖父が云うには12月の10日までの日程で行者講の営みをしているそうだ。
また、当番の手伝いをしていた水利組合長の奥さんが云うには、この日の朝9時から「
アマチャ」をしていたと云うのだ。
掛軸を掲げる扉には仏像があるらしく、ヤカタに花を飾ってアマチャツルで煮た甘茶をかけていたと話す。
つい最近までは、念仏講ともされるおばあちゃん講があった。
おばあちゃん講の呼び名もあるぐらいの高齢者の講中。
老齢化するに伴って婦人会と合体されて「アマチャ」をするようになったと云う。
おばあちゃん講はご詠歌や数珠繰りもしていたが、これらは止めてしまったと云う。
7月には公民館横にある大きな石仏地蔵尊の前で般若心経を唱えるらしく、日程から推定するに地蔵盆の営みのようだ。
少しずつであるが、柳生垣内の行事などを教えてくださる。
マツリのトーヤは座帳文書も預かっているらしく、何度かの取材を重ねなくてはと思ったのである。
ちなみに横田町は春日大社の神領地。
今でも春日大社の御田植祭で奉られた松苗は村の代表者が参拝して授かってくると云う。
それは苗代にイロバナとともに立てていた状況は集落周辺の
あちらこちらにある。
(H26. 5.11 EOS40D撮影)