マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

我が家のセッコク

2014年12月11日 08時21分21秒 | 我が家の花
我が家にあるセッコク長生蘭が開いた。

白い花でが、種類は判らない。

名を示す札があったがどこかに飛んでいった。

買った店は京都市の石田精華園。西京区大原野石見町にある大手。

平成13年から15年にかけて度々訪れて買っていた。

購入した鉢は500円だったことを覚えている。

その後は手入れができる状況ではなくなって随分と消えた。

紀州串本にあったくしもと道の駅。

そこで売っていた数々のセッコク。

いずれも一鉢900円。

どれもこれも欲しくなるが世話はできないと諦めた。

(H26. 5.21 EOS40D撮影)

弥生時代の墓―死者の世界―in橿原考古学研究所附属博物館

2014年12月10日 07時19分27秒 | 民俗を観る
橿原考古学研究所附属博物館で春季特別展「弥生時代の墓―死者の世界」が始まっている。

期間は平成26年4月19日~6月22日までだ。

4月29日に北井利幸氏が展示内容を解説されるのであったが、仕事を終えてすっかり失念していた。

興味があった今回の展示はいつかは出かけてみたいと思っていた。

期間はまだまだあると思っていたがずるずると経過する。

この日は煩わしい作業を終えて思い切った。

研究所を訪ねたが、出はらっているという。

仕方なく入館料を払って拝観してみようと思って受付に出向いた。

奥から登場した北井さん。会場で解説をしていたようだ。

「弥生時代の墓―死者の世界―」は古来の現実であるが、葬送の儀礼は現代に通じる何かが判るかも知れない。

意識していたのは魏志倭人伝に記された倭国の大乱の痕跡があるのか、ないのかである。

倭人伝ではそうとうな大乱であったように思えるのだが、戦いで死を迎えた痕跡は九州や山口県で発掘された状況では数多くあると認知している。

ところが奈良県内ではそのような様子もないぐらいに発掘数が少ない。

展示される死者の状況を知ることによって、それを確かめたかったのだ。

北井さんは手にしていた図録をくださった。

写真を撮ることは禁じられている館内。

案内にメモをとることも失念していた。

いただいた図録を見て、思い出しながら下記に残しておこう。

今回の展示を担当された北井さんの案内で館内を巡る。

展示物は近畿地方で発掘された21遺跡。

弥生時代前期(約2000年前)~中期(2300年前)の期間だ。

大きな木棺がある。

大阪府四条畷市の雁屋遺跡から出土した木棺は長さが約2m、幅65cm、高さ40cmで材はコウヤマキの板だ。

長方形四枚を組み合わせた木棺には横から嵌めた小口板で封じ、崩れないようにしている。

保存状態がいい木棺に圧倒される。

木棺は蓋板、側板、小口板、底板から構成される。

構造は組み板によって3分類されるそうだ。

葬られた棺は木棺の他に甕棺もあれば、棺でなく直接穴を掘った場に埋葬している場合もある。

いわゆる土壙墓(どこうぼ)である。

今のところ、奈良県内の人骨埋葬発掘事例は縄文時代晩期が最も古いそうだ。

展示されてあった橿原市観音寺の本馬遺跡では16基の土壙墓と19基の土器棺墓だった。

推定身長165cmの男性の他、4歳前後の幼児骨も出土した。

土壙墓周辺に生活域を示す住居跡もあることから墓域と密着していたようだ。

弥生時代ともなれば方形周溝墓、円形周溝墓、台状墓が作られ、組合せ式木棺が採用される。

兵庫県尼崎市の田能遺跡で発掘された土器棺墓は日常的に用いる土器を棺として利用していた転用墓。

主に新生児や幼児の埋葬である。甕棺と土器棺墓は専用の棺とするか、日常土器であるかの違いである。

興味深い出土に兵庫県尼崎市の東武庫遺跡から発掘された堅櫛の破片がある。

表面に赤漆が塗られた破片から復元図が描かれていた。

人体のどの個所にどういう具合に付けていたのであろうか。

儀礼で見に付けていたのか想像する。

木棺が初めて発見されたのは兵庫県尼崎市の田能遺跡。

その後、大阪府豊中市の勝部遺跡、大阪府東大阪市の巨摩遺跡、大阪府四条畷市の雁屋遺跡、兵庫県神戸市の玉津田中遺跡によって全体像がみえてきたそうだ。

長い年月に亘って土中に埋もれていた木棺の多くは腐食して、遺存することは稀である。

木棺の材はヒノキもあるが、多くはコウヤマキ製だ。

植生は集落付近にあったのか、それとも山から伐りとって運んだのか・・・。

豊中市の勝部遺跡の木棺人骨から背に刺さった石槍や数本打ち込まれた石鏃が発見されている。

深く刺さっていないように見える一事例であるが、出土は4体。腰骨・肋骨・頭骨など喰い込んだ状態であった。

もしかとすれば戦いで亡くなったと想定されようが、弥生時代の争乱を物語ることはできない。

神戸市の玉津田中遺跡から1m弱の木棺が出土した。

その長さから小児用であったことが判る。

下層からは女性人骨を埋葬した長さ167cmの木棺も出土した。

そこには性別不明の人骨があった。

棺内からはウリ科植物の種子とともに石鏃もあった。

玉津田中遺跡の木棺内から出土した鋒(きっさき)がある。

青銅製の武器である鋒から人間の皮下脂肪が検出されたそうだ。

被葬者は剣か矛で腹部を突き刺され、折れた鋒が体内に残存したまま埋葬されたと考えられる。

橿原市の四分遺跡で出土した木蓋土壙墓からも石鏃が発見されている。

一つの墓壙に2体の人骨である。ご互いが頭を逆方向に向けている男女の埋葬事例は特殊だ。

追葬ではなく同時に埋葬された人骨に石鏃があった。

女性は2カ所で、男性は4カ所にあった。打ちこまれていた傷痕部位は、女性が左大腿骨・中位胸椎の2カ所。男性は前頭骨・左肩甲骨・左右の寛骨・腰椎の6カ所である。

年齢推定は女性が18~25歳で、男性は25~30歳の若き男女。

武器は石鏃だけでなく、重量のある武器で生命を断たれた。

これは争いでなく、何らかの事情で葬られたと考える。

かけおち、それとも兄妹、或いは近親婚の根絶・みせしめではないだろうか。

兵庫県神戸市の新方遺跡の出土に3体の弥生時代初期人骨がある。

1体は17本も刺さったサヌカイト製石鏃が発見されている。

これほど多くの石鏃は上半身に集中しているというから、矢の先端に括りつけて何人もの人が矢で射った。

何らかの事件によってみせしめに打ったのではないだろうか。

ただ、そうであれば集落の墓に埋葬することは考えにくい。

集落を守るために悪病祓いの人身御供ではないだろうか。

大阪府八尾市新家町の山賀遺跡や東大阪市の巨摩遺跡においても僅かであるが、石鏃が発見されている。

近畿地方の出土例はそれほど多くなく、争乱は集落ごとの小規模であったようだと語る北井さん。

田原本町の羽子田遺跡からは2点の石鏃と1点の石剣が出土したが、武器ではなく、近年の研究によって装着していた可能性が高くなった。

四条畷市の雁屋遺跡で出土した木棺の経緯が面白い。

木棺の側板一枚が近くの民家で濡れ縁としておよそ35年間使用されていたというのだ。

年輪年代法によって測定された結果は弥生時代中期の木材だった。

民家で長期間使用されているにも拘わらず美しいのである。

奈良県内で発掘された弥生時代の墓は広範囲に亘る。

盆地部では、奈良市の柏木遺跡、大和郡山市の八条・八条北遺跡、田原本町の唐古・鍵遺跡、田原本町の十六面・薬王寺・阪手東・矢部南・羽子田(石鏃2点・石剣1点)遺跡、三宅町の伴堂東・三河遺跡、桜井市の芝・大福遺跡、橿原市の坪井・四分・土橋・西曽我・曲川・観音寺本馬遺跡、御所市の鴨都波遺跡、葛城市の小林遺跡がある。

東部山間では、奈良市のゼニヤクボ遺跡がある。

吉野川流域では、五條市の原・中遺跡、吉野町の宮滝遺跡などだ。大古の奈良盆地は里山までを境界とする湖であったことは知られている。

山麓にクリの木が植えられ集落人の食糧にしていた。

いつしか湖は徐々に水面が干上って川を形成した。

流れは盆地を抜けて大阪湾に繋がる大和川となる。

干上った土地に移っていった時代は判らないが小規模な集落が形成されていった。

私がもっていた縄文人が住まいする土地は高地性集落。

弥生人は盆地部にいなかったと思っていた。

北井さんにそのことを問えば、そうでもなく盆地部においても縄文時代の遺跡が多くあるという。

神戸市の玉津田中遺跡からは水田跡も見つかっており、そこからは木製の鋤・鍬・堅臼も出土したそうだ。

玉津田中遺跡竹添地区の方形周溝墓最下層から周溝を掘削した際に使われたと思われる着柄鋤が出土した。

東大阪市の巨摩遺跡の方形周溝墓からも供献土器とともに鋤の柄が出土している。

墓の穴を掘った鋤は死者とともに埋葬されたのである。

これは現代でも通じる民俗の在り方。

土葬の際に墓穴掘りを大和郡山市の矢田町住民は「アナホリ」と呼んでいたが、穴掘り道具の話題はでなかった。

四条畷市の雁屋遺跡で出土した四本脚付きの木製容器がある。

材はヤマグワである。

木を刳り抜いて作った容器は何の道具であったのだろうか。

鉄製道具がまだない時代ではサヌカイト石器が考えられるにしても、手間がかかる細かい作業。

時間はそうとうなものであったろう。上部の口縁部には蓋がずれないような小細工も施されている。

同遺跡ではモミ材を浅くU字形に加工した2点の木製品が出土した。

それは人体を運ぶ担架であったと推定される。その担架の下から出土したのは頭を西北方向に向けたノグリミ製の鳥形木製品も出土した。

口の部分に切り込みがあり、腹部の下には棒を挿し込んだと推定される穴が開けられていた。

死者を担架に乗せて、鳥形木製品とともに方形周溝墓に葬ったと思われる立体感がある出土品だ。

それにしても翼を閉じた鳥形木製品の「鳥」はいったい何の種類を模したのであろうか。

形からすればカモでもない。

シギやサギのようにも見えない。

タカ、カラス、ハト、ニワトリでもない。

稲作技術の伝幡によって農耕儀礼に使われたという説があるが、出土したのは墓であるだけに葬送儀礼であることに間違いないと思う。

埋葬した被葬者には身につけていたさまざまな装飾品が認められる。

それらによって性別・役割・性格など、生前の姿を考える助けになる。尼崎市の田能遺跡から出土した碧玉製管玉は通していた紐が溶けてバラバラになっていた。

一つ一つの長さは一定でない。

復元された菅玉は実に美しい。もう一つは左椀に嵌めた白銅製釧(くしろ)で、形態はゴホウラを縦切りにした貝輪を模している。内部が空洞で小さな玉のようなものがある。

神戸市の新方遺跡から出土した鹿角製の指輪だ。

これもまた細かい手作業で細工されたのであろう。

根気がいる仕事だったに違いないが、右手指に5点を装着していたのは男性だ。

この他にも多数の装身具があるが、詳しくは図録を参照されたい。

こうして特別に案内してくださった館内の展示はすべてがレプリカでなく本物だという。

館外に出てから手を合わして帰路についた。

(H26. 5.20 SB932SH撮影)

国際博物館の日in県立民俗博物館特別講演

2014年12月09日 09時03分13秒 | 民俗を聴く
国際博物館会議が1977年に制定した記念日は「国際博物館の日」。

毎年5月18日に年ごとに決められた世界共通のテーマでさまざまな企画が行われる。

今年は日曜日。

奈良県立民俗博物館では帝塚山大学名誉教授の赤田光男氏(九州宗像出身)が記念に「奈良の民俗」を講話される。

聴講料は無料だが、入館料は要る。

案内チラシに載っていた写真のなかには、山村、六斎念仏に紅白の御幣を持つ祭礼があった。

写真ではどこの行事であるのか判らなかった。

それを知りたくて聴講した。

矢田山で自然観察会を終えて直行した奈良県立民俗博物館。

講師の紹介をされていた講義室。席はほぼ満杯だ。

見渡せば若い人たちが半数を占めている。

どうやら帝塚山大学の学生だ。

日本全国の民俗を調査された講師が奈良の民俗の本質に迫るという講議は、「江戸中期の村の数はいくつあったのか」から始まった。

幕藩制を敷いていた江戸時代の国々は270国。

江戸時代の調査史料によれば、全国津々浦々、村の数は10万村もあったそうだ。

村落の文化はそれぞれ。いわば10万種の民俗があった。

それを言ったのは柳田国男。

奈良県は1406村であった。

隣村間の共通文化はあるものの、個性をもつ村落民俗で成り立っていた。

奈良の村ではそれぞれ区割りがあり、「垣内(かいと)」或いは「組(くみ)」と呼ぶ地域が多い。

その単位は村落分けの共同体組織でもある。

共通の民俗文化は地理的条件によって大きく異なる。

吉野川を境に文化が違っていた。

立地条件は南の奥吉野山地に東の大和高原。

最近はそう呼ぶようになったが東山中である。

「山」と「処」で成り立っているから「やまと」と呼ぶようになったを話す。

稲作ため池が多いのは国中(くんなか)と呼ばれていた盆地平坦部。

東日本は同族親族だが、西日本は地縁親族。

仏教王国の大和を山添村峰寺の墓制事例を紹介し解説される。

峰寺は北に9戸の植村組、中央・六所神社が鎮座する峯寺組は9戸に西の8戸の押谷組の三つの垣内がある。

その六所神社には会所がある。

村の決めごとを議論する場はかつてお寺。

安置する薬師さんが見ている場で案件を決めるのだと云う。

六所神社の祭礼は峰寺・松尾・的野の三カ大字が廻りで行われる。

昨年は大字の的野、一昨年は峰寺で、その前年は松尾であった。

大字の在り方に特徴が見られるため、私は三カ年に亘って継続的にマツリを調査してきた。

ジンパイを奉納するガクニンは、会所とも呼ぶ参籠所に上がって神社総代に挨拶を述べる。

参籠所は長屋とも呼ぶが、薬師さんは見られない。

氏が述べる会所はおそらく境内に建つ建物であると思われるが、ガクニンらは立ち入ることはない。

さて、峰寺には共同墓地と5カ所に点在する石塔墓がある。

組ごとの石塔墓であるが、地縁血縁によって分かれるのであろう。

さらに墓地には区分けがある。

墓地入口は若年層で奥は年寄り。

中間は右に男性、左に女性となっているそうだ。

共同墓地の在り方も含めて「両墓制」をもつのは大和の特徴であると話す。

ちなみに峰寺には本家・分家で組織されるキタムラ一統があるそうだ。

それもまた、大和の特徴である「与力」組織。

また、伊勢講、愛宕講、庚申講、二十三夜講などの講組織もあると云う。

中世、平城・城下町が形成された時代の民家は4間。

それ以前は2間であった。

元禄時代、木材の必要性から林業が盛んになった。

当時の吉野の山林は村の共有林であった。

村とは関係のない資本力をもった商人が木材を買い出すようになった。

下市・上市・五條や国中の金持ちが買い占めた木材。

立木所有林経営は商人で村の人が山守となって城造り・家造りの木材を供給してきたと前置きされるお話しは始まってから50分も経過していた。

レジメには「福マル呼び・狐の施行・トンド・鬼の宿・岳ノボリ・客仏」などの年中行事もあれば、「仏教寺院分布・念仏信仰・両墓制」の先祖信仰に「雨乞・野神」の精霊信仰もあった。

講演時間は足るのだろうか。

そんな心配をついしてしまうこの日の講話は氏が長年に亘って調査された民俗学に関してだ。

神道・仏教ではない村の民俗は「神」を「カミ」、「仏」は「ホトケ」と書くと話す。

カタカナで表現するのは、神道でなく村の「カミ」で、「ホトケ」は村の先祖のこととする考え方だと云う。

村の共同体で行われる「カミ」や「ホトケ」が村を支えると話されて「福マル呼び」に繋げられた。

<フクマル呼び>
配られた資料の「福マル呼び」の写真は山添村の切幡(きりはた)。

奈良の民俗を調査されてきた保仙純剛氏が纏められた『日本の民俗―奈良―』に掲載された写真であると話す。

刊行は昭和47年11月。今から42年前よりも前の様相である。

私が高校を卒業した数年後、社会人で動き始めた二十歳代のころである。

先人が記録した写真の様相に感動するのである。

切幡は昨年の大晦日にある家のフクマル迎えを取材した。

40年前はどこともしていたらしいが、現在はぐっと少なくなっているそうだ。

大晦日の夕刻に行われるフクマル呼び。

家を出た辻に出かけて「フクマル コイ コイ」と三回唱えて我が家に「フクマル」を呼びこむ。

県立民俗博物館より提供された大和郡山市伊豆七条町の映像を映し出す。

大晦日には「ホトケ」である先祖がやってくる。

正月にも先祖さんがくると信じられていた。

「ミタマ(御霊)のメシ」と称してご飯などを縁側や竃に供える風習があるのは東北地方。

「ミタマのメシ」とか、「ミタマのダンゴ」である。

大和ではなぜか「フクマル」と呼んでいる。

室町時代に「フクジン(福神)」信仰が流行ったそうだ。

火を焚いて先祖さんを迎えた。

それは「フクジン」信仰と重なっていく変化があったと云う。

「フクマルコッコー」と呼ぶのは「フクジン」を迎える在り方。

山添村北野では玄関口で、箒で掃いて扉をピシャッと閉める。

フクマルを迎えた火は神棚や「イタダキ」に供える。

文明十年(1478)から元和四年(1618)にかけて記された興福寺『多門院日記』に書かれてあった正月の餅飾り。

膳の配置が図式化されていた。

飾りの品々にムキクリ(5個)、アカキモチ、トコロ、イリコメ、キクキリ、ホタワラ、クシガキ、カンジ(1個)、ユカウ(1個)、タチハナ(3個)、モチカス(五個)、アカキマヲ(6個)がある。

ムキクリは剥き栗と判るが、アカキモチは赤色のモチであろうか。

トコロは根が髭のように見える長寿の印しのトコロ芋、イリコメは煎った米だ。

ホタワラはホンダワラ。

雑穀町旧家の三宝飾りで拝見した稲藁で作ったタワラ(俵)のことであろうか。

クシガキは室生下笠間で拝見したいつもニコニコ、仲睦まじくの語呂合わせの10個の串ガキと同じと思われる。

カンジはキンコウジとも呼ばれるコウジミカン。

ユカウはユズであろう。

タチハナは橘の実。

キクキリ、モチカスはなんであろうか。

アカキマヲは括弧書きにアカキメカとある。これも判らない。

図には「次ニ大圓鏡イタタク」とある図絵は三方に乗せたイタダキの膳。

ホタワラ(5個)、合米一合、タチ花(五個)である。

正月早々に毘沙門天や弁財天に祈祷する。

これも「フクジン(福神)」であると云う。

「毘沙門 カネくれ」と呼ぶのは縁起担ぎ。

招福信仰の本質は先祖迎えであると話す。

<東安堵の施行>
かつて調査された安堵町東安堵の古老が話した狐の施行。

施行と書いて「センギョウ」と呼ぶ。

寒中に野辺の狐に施しをする。

アブラアゲやアズキメシを野らに出かけて施した。

神社や寺辺りの5カ所にも施した。

集団でなく、個人個人が出かけて施した「ノマキ」と呼ぶ風習だそうだ。

古い農業神はキツネとされてきた。

豊作神はやがて稲荷神へと移った。

大和では屋敷信仰がほとんど見られないと云う。

<茅原のトンド>
正月14日、15日は各地でトンドが行われる。

県立民俗博物館より提供された大和郡山市城町(じょうちょう)のトンド写真を映し出した。

子供たちが竹に挿したモチをトンドの残り火で焼いている写真だ。

城町のトンドは主水山がある。

我が家から歩いて数分のところだ。

映像を見る限り当地ではないと判った。

講演後に聞いた話では城町でも西側。

つまり西城(にしんじょ)である。

かれこれ40年以上も前は1月31日に行われていた。

いつしか小正月の1月15日に移った。

その後、成人の日がハッピマンデー施行によって近い日曜日になった。

現在では実施日の決定は正月明け新年会一週間後の日曜である。

西城も同じ日である。

このことは主水山住民から聞いている。

新暦の小正月にトンドが行われる地域は多くあるが、地域によっては2度目の正月と称して1月31日、或いは2月1日や2日もある。

氏はそのことには触れなかった。

1月14日に行われる御所市茅原(ちはら)の吉祥草寺では大きなトンドが燃やされる。

雌雄の大トンドや太い化粧回しの綱を作る作業を撮った写真で紹介される。

トンドの場は吉祥草寺。かつては真言宗派であった。

トンドの火点けは玉出住民が行う。

寺で迎える茅原住民と合流する。

寺に入堂されて般若心経を唱える。

そしてトンドの火点け。

玉出住民はオヒカリから移した長い松明でトンドに移す。

かつては修正会の行事であったようで、結願にトンドを燃やす。

今では茅原・玉出両地区で行われる村行事。

おおげさであるが、1月15日は小正月。

この日は旧暦。

ほんとの正月迎えであり、先祖迎えであると強調される。

満月の日が良いとされる先祖迎え。

大和では大晦日とトンドの日の両方がある。

<鬼の宿>
天川村に天河弁財天社がある。

弁財天は水の神さんでもある。

「フクの神」でもある前鬼を祭る家が3軒ある。

柿坂家は村長を勤めた家で、分家におばあさんが住んでいた。

若い分家は神主家。

天河社の社家である。

2月3日は節分。

京丹後地方では祓い追われた鬼を迎える「鬼の宿」がある。

「鬼の宿」は大和にもあるのかと調べてみたらあったと云う。

天河の前鬼末裔の家で行われる節分前夜。

かつてはおばあさんの家であったが、現在は神主家。

斎壇を祭り、二つの布団を敷いた写真を映し出す。

床の間の斎壇に向かって般若心経や祝詞を唱える。

前鬼の先祖を呼び起こすのは「先祖降ろし」だそうだ。

社家はこっそり井戸に行って、晒しを水に浸けて桶に貯める。

これを幾度も繰り返す。

貯めた水桶は縁側にそっと置く。

終わり直近に鬼が降りてきたと「ホォーーー」と声がでて、ピタリと終える神事。

直ちに布団をさっと敷く。

ひと晩寝ると云う布団は左が男で、右は女。

翌朝に去っていくという「鬼の宿」。

京丹後ではこのような作法もなく、「鬼の宿」と呼ばれているだけだそうだ。

山辺郡の人たちは薪を平城京に持ちこんでいた。

「春来る鬼」という記載があるらしい。

日本の古い観念は春来るフクジン(福神)な「カミ」である。

仏教が与えた影響が「フクマル」、「トンド」、「オニ」に。それは当たっていると思うと話す。

<ダケノボリ>
旧暦、山に登って楽しんで下りてくる。

春の農耕始めにダケノボリをしていた。

二上山のダケノボリが有名だ。

里山に登って山の神と共食する。

下りた山の神は農の神になる。

古いのがよく残っている大和のであると云う。

<キャクボトケ(客仏)>
山辺郡によくあるキャクボトケ。

お客さんがホトケ。

我が家に不幸ごとが起これば、縁側にショウロウダナを作る。

先祖さんは縁側に祭る。

ニワにはガキダナを置く。

それはムエンサン。

山辺郡ではそこにもうひとつつく。

我が家から出ていった人。

当主からみれば叔父や叔母である。

その人らが先に亡くなれば、霊魂が故郷の家に戻ってくる。

それがキャクボトケ。

兄弟姉妹は実家に戻ってくるのだ。

嫁さんの両親・兄弟姉妹も嫁ぎ先の山辺郡の家で霊魂を祭る。

真言宗派が広めた仏教の教えであると思っていると話す。

ここまでの講話は1時間半。先を急がれる。

奈良県の仏教寺院の分布表を提示された。

1796寺のうち、断トツなのは浄土真宗。

609寺もある。

2番目は338寺の浄土宗。

3番目は297寺の真言宗。

4番目は208寺の融通念仏宗である。

以下、曹洞宗、日蓮宗、法相宗、華厳宗、真言律宗・・・である。

庶民民俗が多く見られるのは浄土宗、真言宗、融通念仏宗で、浄土真宗には民俗行事はまずないと話す。

念仏信仰のひとつに十三仏がある。

死んだつもり修行する生前修行は逆修。

そうすることで阿弥陀さんの世界にいけると信じられた。

念仏風流・辻念仏の例示は「古市氏」。

お盆になれば念仏風流していたのは応仁時代。

念仏講碑の金石文が多くある大和の国。

他の地域では確認できないくらいに少ないらしい。

大和の特徴だそうだ。

講演時間は2時間を越えた。

雨乞は飛ばされて野神を話す。

稲作始めにジャマキをする大和の野神行事。

水の神は日照りに水を潤す「カミ」。

田の神となって出現するが、滋賀県では豆の収穫時期。

子供の相撲の褒美に大量の豆をあげるそうだ。

(H26. 5.18 SB932SH撮影)

野遊び②in矢田山頂池

2014年12月08日 07時17分33秒 | 自然観察会
今年度2回目の野遊び自然観察会。

観察の目的地は矢田山頂池である。

普段の例会ならば大和郡山市立の少年自然の家の駐車場を利用させていただくが、頂池までは長い距離の坂道を歩かねばならない。

幼児も参加する親子観察会ではどうするか、である。

もっと近くを集合地にしたいと考えて矢田寺とするが、あじさいを観にくる人が多いと想定されたので、寺南方の駐車場とした。

その場からは僅かであるが、急な坂道を行く。

初夏と思わせるような暑い日差し。

この日の気温は27.4度であるが、爽やかな風が吹いていた。

絶好の行楽、ではなく観察日和になった。

まずは矢田寺境内を目指して登っていく。



寺境内にある池にはミズカンナが植生していた。

自然ではないが、これも観察してみよう。

ミズカンナは葉っぱがカンナに似ている水生植物で7月ころには花が咲く。

いつ頃植えられたのか知らないが、青々とした葉が美しい。

池内の社はおそらく弁天さんだと思われる。

池の水面に目を下ろした。

水面にいっぱい泳いでいたのはヌマエビではなく、スジエビだ。



アップしてみたが、判り難い。

矢田寺には、これまで度々行ったことがあるが、ミズカンナもスジエビも始めて拝見したのである。

RYU先生の話ではスジエビは肉食性が強く、足が長いそうだ。

一週間前にも撮らせていただいた迎え地蔵。



よだれ掛けの色には変化はないが、後方に咲くツツジは一週間も経てばほとんどが萎んでいた。

下見の際に撮った映像と見比べてみれば一目瞭然の様変わりである。

季節の変わり目の矢田寺のお花。

早くもアジサイに転じようとしていた。



一輪だけであるが、淡い水色が迎えてくれる。

今月末ともなれば、あじさい花の花見客で溢れる。

6月1日からの入山料は大人が400円で小学生が200円。

あじさいが咲き誇る時期は有料となるのだ。

矢田寺大門坊ホームページでは境内注意事項が掲載されているので参照されたい。

地蔵堂・大師堂の脇を通って「四国八十八カ所霊場巡り」の立て看板に沿って山道を登る。

この日の眺望はすっきりはっきり。



遠くは三輪山辺りまで見えるのだ。

平坦盆地の町並みの向こう側がそうだが、かなり遠い。



東屋から眺めた若草山からずっと手前左端は工事中の新県立奈良病院のアクセス道路だ。

斜め筋は覆屋で見えない解体修理中の薬師寺東塔。

もう少し上には東大寺二月堂が見える眺望の矢田山。

午後4時以降であれば、西日があたってすっきりと見えるかも知れない。



大正十四年に信者やさまざまな講中が建之された石仏お大師さんの傍らに咲いていたオダマキがあった。

お供えの花の種が零れて根付いたのであろうか。

ギンリョウソウはすっかり溶けていたのか、見つからず。



傍にはアマドコロの蕾がついていた。

数日後には辺り一面に白い花が見られそうだ。



タツナミソウの花時期は長い。

これからもしばらくの間を楽しませてくれるだろう。

ここら辺りから森林浴の矢田山。

逆光に映える木の葉に思わずシャッター押したが、樹木は何なのだろうか。



3枚葉の姿が特徴のタカノツメである。

しばらく歩けば着く頂池小屋。



一週間前の下見の際にはたくさんの虫さんがぶらさがっていたが、すっかり消えていた。

消えたのは虫だけでなく、この葉もすっかり丸坊頭。

喰い尽くしたと思われるのが、どこへ行ったのだろうか。

一匹も見つからないのである。

小屋でたっぷり休憩して付近を観察する。



モチツツジの花も一週間経過すれば増えていた。



この場で発見したキンラン。

3株も見つかった。



花は全開せず半開き、愛らしい姿にうっとりするが、奈良県では絶滅危惧種。

そっとしておいてほしいのだ。



その下にはコナスビも咲いていた。

光が当たりすぎて、若干白飛びになってしまった。

コナスビなどの小さなお花は撮り難い。



もっと小さな蕾の花はヤブジラミだ。

ピントはどこに合わしたらいいのだろう。

悩ましき小さなお花である。



下見の際には蕾であったギンラン。

咲き終わりの状態になれば見つけるのも難しい。

奈良県のギンランは希少種。

これもまたそっとしておいてほしい。



コメツキムシが葉っぱにとまっていたが、何の種類か判らない。

こちらも葉っぱにとまっていた昆虫。



同じように黒っぽいが、これはアブだ。

何かを銜えているように見えるが、これもまた何の種類か判らない。



キクラゲがついていた樹木。

採ってみたいが、手が届かない。

ここからは下り。

湧きでた水が溜まった湿地にあった植物は見覚えがある。

昨年に観察した正暦寺周辺。

そこで拝見したミヤマシラスゲとよく似ている。

記憶は正しくミヤマシラスゲである。



カサスゲとよく似ているが間違いなくミヤマシラスゲだったのだ。



葉っぱにとまっていたクヌギカメムシの幼虫。

とても小さいのでトリミングアップしておく。

昼食の場は南僧坊谷池。

弁当を広げる広場はない。

狭い道に腰をおろして食事する。



その場を通り抜ける自転車サイクラー。

この辺りはサイクラーや山駆けランニングをされている人が多い。



次から次へと走り去っていく。

池には昆虫類がたくさん出没する。



これはジョウカイボンだ。

何度も見つかるジョウカイボンは覚えてしまった。

欄干でじっとしていたのはシオヤトンボの♀だ。

そろそろと寄っても逃げない。



ノートリミングのシオヤトンボの♀の後ろ姿である。



向きを換えて頭のほうからも撮らせてもらった。

ここではシオヤトンボがいっぱい飛んでくる。

ふっと、♂が飛んできて数匹の♀に絡んだかと思った瞬間に空中で交尾した。

しばらく飛びまわってじっとしている。



青色が♂で上、下は逆さになった♀である。

ギンヤンマもホソミオツネントンボも飛んでいたが、スイー、スイーと動き回るのでカメラレンズが追いつかない。



ここからは下りである。

耕作地の水利用の池がある。



ヒツジグサに囲まれた水面からウシガエルが私たちの動きを観察している。

そう見えたのだ。

さらに下って自然保護員でもあるうめちゃん先生が設置した赤外線カメラを見せてくださる。

器材に見事に写っていた夜に流離うイノシイの姿がバッチリ写っていた。



そのイノシシであろう、通り道の状況がよく判る映像も記録と思って撮っておいた。

参加された親子さんは二組だったが、満喫されたことと思う。

気温が高かったが、森を通り抜ける風が心地よく汗もそんなにでなかった観察会を終えて県立民俗博物館に向かった。

(H26. 5.18 EOS40D撮影)

初のカーナビ

2014年12月07日 08時23分50秒 | いどう
先だって借りた代車にカーナビがついていた。

使い方は判らない。

長男の車にもついているがまったく操作できない。

いつか必要になればと思って数年間。

急に思い立って購入した。

近々にでかける先は白浜。

もう何十年も行ったことがない。

高速道路はどこまでいっているのだろうか。

それよりも目的地がおぼろげなままである。

というよりもすっかり記憶から消えている道は、どこをどう走ればいいのだろうか。

不安が徐々に増してくる。

思い出すのは5年前にでかけた名古屋から先の小牧だ。

パソコン画面で広げた名古屋へのマップ。

小牧辺りからは縮小画面でそれぞれ印刷した地図をもっていったが、慣れない町ではお役にたてるところまで行きつかなかった。

それよりもっと困ったのは夜間である。

覚えている限りの国道を走ってみたが、距離感どころか方角がまったく判らない。

標識も見えにくい夜間を走って、さすがに欲しいと思ったカーナビゲーション。

私の行先は99%が奈良県内だ。

一年に数度しか県外に出ることがない。

県内であればパソコンマップで充分に用を足す。

必要性はまったく感じないナビゲーションである。

昨年にでかけた神戸三ノ宮。

高速道路をどこで降りたらいいのやら、であった。

それだけでなく市街地にある駐車場を探すだけで時間がかかった。

目的地の所在地さえ判らなかった。

こんな場合には携帯ナビでもあったら・・と思っていた。

スマホであればラクラク簡単に探し出せるらしいが、基本料が割合わない。

そう思っていた。

スマホは買えば維持費がかかるが、カーナビは一時金で済む。

ならば買ってしまえというわけで出かけたオートバックス大和郡山店。

今国府交差点にあるお店だ。

カーナビならスーパートライアルにもあるかも知れないと思ってみたが、ない。

2階にあるエディオン大和小泉店も探してみた。

あることはあるが、思うような製品がない。

僅か数点しかなかったカーナビは諦めてオートバックス大和郡山店にした。

ここではさすが、あるある、である。

ありすぎてどれを選ぶか迷ってしまうほどにあるあるなのだが、高額商品がほとんど。

カーナビの機能はある程度で良いと思っている。

テレビもついている高額商品もあるが、映りがもうひとつのワンセグで充分だ。

画面サイズは大きいほうが良いに決まっている。

5インチサイズでは老眼に優しくない。

8インチともなれば高額。

これぐらいなら丁度良いと思ったのは7インチサイズ。

操作は簡単なようだ。

カーナビ本体は取り外しできるのが良い。

予め探しておくナビゲーション。

走行イメージを掴んでおくことだ。

新車であればカーナビ本体が車に装着されている一体もの。

あとから取り付け型は吸着盤ベースを両面テープでくっつける。

これだと思った製品はユピテル社製のYPB730。

この年の4月に発売された新製品。

マップは更新できないが、最新版だ。

値段は税込みで1万9千8百円。

手ごろな値段である。

その日は品定めにして、帰宅してから製品概要をネットで調べたら『取扱説明書』が見つかった。

パラパラとめくってみて概要が判ったが、機能が多すぎてわけが判らない。

それよりも取り付けに手間がかかると思われた。

オートバックスでは取り付けもしてくれるが工賃がかかる。

面倒なことはお店にしてもらうほうが奇麗になるし、相談にも応じてもらえる。

そう思って注文したYPB730の電源ケーブルはシガレットソケットから供給する。

常に挿し込んだままでは美観を損ねる。

そう思って車本体の電源を繋げるストリートGS-27-12Vソケットも併せて買った。

値段は税込み802円だ。

取り付け工賃は3240円。

店員さんが勧める3年保証もつけて合計は2万5千9百2円になったが、貯めていたJCBカードで支払い、残りはクレジットだ。

待つこと40分ほど。



取り付けが終わって電源オン/オフ、テレビ切り替え、目的地検索などを教わった。

カーナビ初心者にも丁寧に教えてくださる店員さん。

近場の飲食店もすぐ出てくるが、最近閉店となった飲食店は消されていない。

搭載されている2014年版マップルナビであっても、そりゃおっつかない。

観光ガイドがどれほどお役に立つのか、白浜にでかけたときに使ってみよう。

本体を外して使う場合は充電時間の限りがある。

内蔵バッテリーの稼働最長時間は仕様によれば、2時間のようだが、実質は1時間半ぐらい。

真夏の日の高温に耐えられるのか。

絶えずではないが、長時間に亘る場合はブラケットから外しておくに限る。

わくわくしながら帰路についた大和中央道。

郡山総合庁舎辺りで音声が出力した。

自動車ナンバー読み取り・Nシステムを感知したというアナウンスが流れたのであるが、それって何、である。

翌日にぶらっと出かけた自宅付近。

線路道付近手前になればしゃべるカーナビ。

しばらく走れば飲酒運転やシートベルト装着検問エリアとか、或いは一時停止注意ポイントとか、滅多やたらに出力する警報アナウンス。

これほど多くにあったとは驚く事実、そりゃ知らなんだ、である。

(H26. 5.16 SB932SH撮影)

横田町柳生垣内五月日待ち

2014年12月06日 09時24分59秒 | 大和郡山市へ
昨年のマツリの座に掲げてあった雨宝童子像の掛軸を拝見したく訪問した大和郡山市横田町の柳生垣内。

掛軸は2月、5月、9月の日待ちに掲げると云っていた。

日待ちは17戸の垣内の集会が主目的であって、祭りごとは掛軸を掲げるだけだと話していた。

村人がやって来る前であれば「存分に撮ってもいい」と総代や水利組合長が告げる。

集会が始まる30分前に到着したときには当番の人がすでに掲げていた掛軸。



たしかマツリに掲げていた掛軸は雨宝童子像の周りには五神が描かれていたと思うのである、この日は雨宝童子像の一神図であった。



裏書の記載も掛軸箱にも年代記を示す文字は見られないが、軸箱には「天照皇大神宮 掛物 香則市年寄附」の墨書が書かれてあった。

寄附した人の名があるが、村に住む人であるのか、である。

尋ねた結果は、どなたも判らないと答える。

村の人には存在しない人が寄附した掛軸は虫が喰った穴が数か所に亘っていた。

軸箱は黒ずんでいた。これまで各地域に存在する数々の軸箱や講箱を拝見してきた。

その状況から推定するに、年代は明治時代前半か、それとも江戸時代のものであるように思えた。

掛軸下にお神酒、お花、ローソクを立てるが、火を灯すこともなく、また、拝礼や念仏を唱えることもなく集会が始まった。

この日は朝7時から水利組合員は「川掘り」をしていた。

管理池や水路の清掃で、昼前に終わったと云う日待ちの集会。



「いつもそうだ」と話す集会は自治会の案件を検討する会合である。

およそ一時間もかけて検討された。

それで終わることなく、次は水利組合の課題を検討する。

これもまた一時間である。

村の課題は他村と同様にどことも似たような案件だと思った。

村の課題解決の集会。



ようやく終わった直会の膳はパック詰め料理で会食される。

取材のお礼を伝えて自宅に戻った。

記録していた雨宝童子像の掛軸を再確認した。

この日に掲げた掛軸とはまったく違っていたことが判った。

マツリに掲げた掛軸は多賀大社の伊弉諾尊・熊野神社の伊弉册尊・大巳貴命・稲蒼魂命を配置した雨宝童子像の掛軸は5神を描いた「開運壽福地神」図である。


(H25.11.10 EOS40D撮影)

その後の7月19日。当番家のM家を訪れた。

家人の話しによれば雨宝童子一神図の掛軸は廻りで次の隣家に引き継いだと云う。

この日に掲げた掛軸は5月、9月、2月の日待ちの廻り。

マツリのときに拝見した5神図は別の講の所有であるようだ。

柳生垣内の講は伊勢講もあれば、行者講、観音講、地蔵講があるらしい。

それを総称して「物講(ものこう)」と呼んでいるようだ。

なお、当番家の祖父が云うには12月の10日までの日程で行者講の営みをしているそうだ。

また、当番の手伝いをしていた水利組合長の奥さんが云うには、この日の朝9時から「アマチャ」をしていたと云うのだ。

掛軸を掲げる扉には仏像があるらしく、ヤカタに花を飾ってアマチャツルで煮た甘茶をかけていたと話す。

つい最近までは、念仏講ともされるおばあちゃん講があった。

おばあちゃん講の呼び名もあるぐらいの高齢者の講中。

老齢化するに伴って婦人会と合体されて「アマチャ」をするようになったと云う。

おばあちゃん講はご詠歌や数珠繰りもしていたが、これらは止めてしまったと云う。

7月には公民館横にある大きな石仏地蔵尊の前で般若心経を唱えるらしく、日程から推定するに地蔵盆の営みのようだ。

少しずつであるが、柳生垣内の行事などを教えてくださる。

マツリのトーヤは座帳文書も預かっているらしく、何度かの取材を重ねなくてはと思ったのである。

ちなみに横田町は春日大社の神領地。

今でも春日大社の御田植祭で奉られた松苗は村の代表者が参拝して授かってくると云う。

それは苗代にイロバナとともに立てていた状況は集落周辺のあちらこちらにある。

(H26. 5.11 EOS40D撮影)

野遊び②矢田山頂池下見

2014年12月05日 09時51分57秒 | 自然観察会
この日は頂池コースの下見。

スタッフのみなさま、お疲れさまである。

久しぶりの「へんろ道」に沿って登った頂池コースは楽しませてくれた。

平成20年以来の久しぶりの観察地である。

矢田寺南僧坊より南側の駐車場から往復歩数は6700歩だった。

駐車場から南僧坊へ向かう急坂を歩く。

前日に雨が降れば登り、特に下りが滑りやすくなくなる。



駐車場から矢田寺境内に到着すれば、クリの臭いが漂っているかと思えば・・萌えるヤマのように見えるドングリの色に目が覚める。

木々の緑色が映える季節は清々しい。



キショウブにツツジ色に染まる御池には金色の鯉が泳いでいた。



矢田寺のお地蔵さんがほほ笑むように迎えてくれる、今日はえー天気。

「へんろみち」の札で道先を案内してもらって登っていく。



イチヤクソウの若葉が出ていたが、花はまだまだ先のようだ。



タネツケバナが、えー天気でバンザーイと云っているように思えた。

僅かであるが、ギンリョウソウが残っていた。



やや黒ずんではいるが、立派なギンリョウソウである。

シダにぶら下がって巣作りをしていたムモンホソアシナガバチ。



敵に見つけられないように、こんなところにも巣を作るんだと思った。



そこにはタツナミソウが満開に咲いていた。

キビタキ、ソウシチョウなどの囀りを聞きながら登ってきた頂池小屋に辿りつく。



木漏れ日が新緑を美しく輝かせていた。

ところがケムシが空から降ってくるようにいっぱい降りている。

森林浴はゆっくり味わえなかった。



そこから数メートル先に咲いていたギンランは蕾だ。

数日後にはぱっと開くような感じである。



しばらく歩いて美味そうなキクラゲがびっしりあった。

この辺りでは自転車サイクラーが通り抜けていく。



少し歩けばピースサインを贈ってくれるウラジロの芽もある。

五月の植生は清々しく疲れは感じない。



もう少し歩けばツボスミレの群生に出くわした。

場所はこの辺りである。



撮った立て看板を縮小したので判り難くなったマップでみれば半周ぐらいでしょうか。

関係者以外立ち入り禁止札下を降りて池の処で解散した。

その場で弁当喰い。

時間を忘れて、ゆっくり寛がせてもらった。



その場から降りてきてイノシシが通った草むらが見つかった。

凹んだところがそうであるが、見えるだろうか。



駐車場に戻ってタラヨウの葉と花を撮っておいた。

(H26. 5.10 EOS40D撮影)

奈良歳時記初夏と仏像二人展inクロネコならTABIセンター

2014年12月04日 09時58分47秒 | しゃしん
案内状を受け取ってこの日も拝見した二人展。

今回は初夏を描く切り絵と写真である。

切り絵の作者は大和郡山市内に住む西村氏。

写真は大和の民俗などを記録している野本さんだ。

切り絵と写真で描く奈良の歳時記は前回の花会式に続く季節もの。

この日も朝の開店と同時に訪れたのでどなたもおられなかった。

独り占めの占領で、じっくりたっぷり堪能した。

切り絵はよりシンプルな静画、写真は鮮明に映し出す動きのある描写である。

コラボ二人展は好評につき、盛夏、秋も続くそうだが、西村氏の作品は仏像である。

奈良を訪れる観光客にとってはうってつけの作品展。

見てから行くか、それとも行ってから拝見するか。

どちらであっても感動するに違いない。

(H26. 5. 9 SB932SH撮影)

楢神社御田祭りの松苗

2014年12月03日 07時22分26秒 | 天理市へ
2月17日に行われる天理市楢町の楢神社の御田祭り

神主によって田んぼに見立てた斎場に松苗を植える所作がある。

籾撒きもする御田祭り。

今年は3人ものカメラマンが来たと話す神主さん。

一人はビデオ撮りで、二人はカメラだったそうだ。

撮影は神事の邪魔にならないようにと伝えておいたと話す。

余った松苗をさしあげたら喜んでいたと云う。

その人らはどうされたか・・・報告はないそうだ。

行事が終われば祈念された松苗は各戸に配られるが、楢町の専業農家はごく僅か。

苗代どきに配られた松苗を立てる家はほとんど見ることがないと話していた。

薬師法会を終えて東側の国道に抜けようとしたときの曲がり道。

そこには白い帆のような寒冷紗があった。

苗代田をされたようだと思って横目で見た。

そこにイロバナを立てていた。

もしやと思って車を降りて確かめてみれば、松苗もあるではないか。

その場に立っていた男性は、さきほど別れたばかりの檀家総代長だった。

お家は薬師堂の南側だと話していた。

まさにそのお家の方だったのだ。

苗代作りは4日に息子や孫も手伝ってモミオトシをした120枚の苗箱を苗床に下ろして並べたと話す。

松苗は芽吹くカワヤナギの枝とともに水引で括ったものだ。

御田祭りでたばった松苗は苗代に立てるまでは神棚に供えていたという。

こうして苗代ができあがれば、イロバナを添えて立てているのである。

今でもこうした豊作を願う在り方をしているのは他に見られないぐらいに減ったと云う檀家総代長家では、6月ともなれば実った苗を五反の田に田植えする。

楢町の専業農家はここだけのようで、偶然の発見出合いに感動したこの日であった。

(H26. 5. 8 EOS40D撮影)

楢町薬師堂の薬師法会

2014年12月02日 09時13分29秒 | 天理市へ
天理市楢町の行事取材は楢神社ばかり、お火焚きの火舞神事御田祭り春季大祭であった。

それより数年前、楢町にあるかぼちゃ薬師の場を教えてもらったことがある。

夏場になれば初成りのかぼちゃを供える人があるらしいのであるが、いつ、誰が供えるのか不定だと聞いていた。

楢神社の取材のおりに貰った『楢町史』は昭和63年10月刊。

それには4月8日に融通念仏宗派の興願寺でアマチャのまつりがあると書いてあった。

その様子を知りたくて訪れたが行事の気配を感じることもなく立ち去ったことを覚えている。

付近を歩いていた婦人に尋ねても判らずであったが、5月8日は薬師講の寄り合いがあると話していた。

その婦人は講中に入ったばかり。

詳しいことは存知しないと云っていた。

そのような状況であったが、とにかく行ってみるかと思って出かけた楢町薬師堂。

そこはどなたもおられなかったが、興願寺本堂前でなにやら作業をされている男性がおられた。

声をかけてみれば楢神社行事でお世話になった神主さんだったのだ。

「よぅ、久しぶり」と笑顔で応えた神主さんに、「今日はなんですのん」と聞いた答えは「薬師講の講元もやっとてな、朝から法会の準備してるんや」と云うのだ。

寺住職がお堂に上がって念仏を唱える薬師法会をしていると云う。

講中は男性が数人で、ほとんどが女性たち。

合計で24人になると云う。

講中が揃う前に薬師堂に安置している仏さんを「撮っといて」と云われるが、ブログでは公開できない。

薬師堂はかつて興福寺社領の興願寺の脇侍寺。

享保二年(1717)の火災で興願寺は焼失した関係で、古文書も消えたため薬師堂の創建は明らかでないが、「鎌倉時代やった」と伝わるそうだ。

興願寺の再建は元治元年(1864)三月。

比較的新しく、安置仏は阿弥陀如来坐像である。

薬師堂安置仏は木造薬師如来坐像で台座に天保十一年(1840)の修理歴墨書があるそうだ。

修理願主は大和郡山の若槻村嘉兵衛と郡山町の忠兵衛。

なんでも耳や眼の病いが治ったので台座を修理したそうだ。

「しゃくの病い」を治すと信じられている薬師さんは、初成りのカボチャを供える信心があって、そのようなことからかぼちゃ薬師と呼ぶようになったと『楢町史』に記されている。

お堂にぶら下げているワニ口は文化四年(1807)の銘がある薬師堂は大正11年に改築後、平成のころから朽ちてきたことから、平成11年に再建したと云う。

そのときに薬師如来仏や弘法大師、行者像とともに塗り替えた。

落成した際に作った下がり藤紋の幕や五色の幕を掲げる。

お花は造花で、籠に盛って上から吊るしていた。



お供えはかぼちゃ薬師なので、かぼちゃそのものを細かく刻んで練り込んだネコモチだ。

黄色い色のネコモチ数本を盛っている。

保管していた香炉を探されたときのことである。

奥にアマチャかけのお釈迦さんが隠れていたのである。

「こんなとこにいやはったんや」と思ったのである。

講元らが線香に火を点けて講中に一人ずつ。



一本を受けとって順番にお参りをされる。



お堂の前に並べた椅子に座って法会が始まる直前にもお参りをされる講中である。

薬師さんは春日厨子に納められた瑠璃光薬師如来坐像。

厨子は塗り替えることなく、「昔のままや」と云う。



勤行は香偈、礼文、散華、日中、浄三業、懺悔文、開経偈、般若心経三巻、回向で「おんころころせんだりまとうぎそわか・・・」。



法会を終えれば興願寺に登って薬師講が摂待するすまし汁に入れたカボチャモチをいただく。



話題は楢町のことである。

寺前の民家屋外に立ててあった四角い大型の舟をご存じな方はおられたらと思って尋ねてみた。

持ち主は檀家総代の方だ。

今では使わなくなったジャコ採りの舟。



お爺ちゃんや父親が白川池や広大寺池に運んで池に浮かべた。

4、5人も乗れるぐらいのジャコ採り舟は安定が良くて投網がしやすかったと云う。

「そういやお爺ちゃんは牛の草鞋も作っていたな」と話していた。

(H26. 5. 8 EOS40D撮影)