の続きです。
注意の移り方と話の聞き方がちょっと気になった●くん。
こんな風に飽きっぽさが目立つ子は、ひとつひとつの物事を五感で感じ取ったり、
感情で味わったりした経験が少ない子が多いです。
たとえば雨が降っているとしますよね。
傘をさしてお出かけしながら、耳をすますと、傘にあたる雨音はどんな風でしょう?
音を聞いてから、誰かの傘の上を見れば、
雨粒がはねてダンスしているように見えるかもしれません。
地面には湖のような水溜りができます。水溜りをのぞけば、鏡のように自分が映ります。
それに不思議なことに、そこには空も映っているのです。
「雨はどこから降ってくるんだろう?」ってお話することもできますね。
手のひらで雨粒を受け止めると、冷たいでしょうか?
雨の色は何色でしょう?
雨の日の匂いは?どうしてレインコートや長靴を履くんでしょう?
お日様はどうしているでしょう?
雨の日に鳥や猫や虫たちはどうしているでしょう?
雨はどんな味でしょう?
「雨が降ってきた」というだけで、
1歳児さんも2歳児さんも、もちろんいくつの子も、
目と鼻と耳と皮膚と舌を使って
こんなにもさまざまなことを味わって、考えて、想像して楽しめるのです。
それから、目と目を見詰め合って、そうして感じたことを
共感しあうことができます。
電車に乗るのにしても、
「ガタンガタン」という振動を足で感じ取ったり、窓から流れていく風景に驚いたり、
外と電車のなかの空気のちがいを感じたり、車掌さんは何をしているのかとお話したり、
「どうして切符がいるのかな?」と考えるなど
毎回毎回、五感を使ってフルで味わうことができるのです。
そんなときに大人が矢継ぎ早に質問したり、
自分が気づかせたいことに気づかせようと
するのではなくて、子どもといっしょにゆっくり世界を感受するのを
楽しめたら、
子どもはひとつひとつの物事に対して、感情を込めてていねいに
向き合えるようになっていきます。
東大パパさんが、迷路を簡単に描く方法
という記事で、迷路に自己流の工夫をたくさん盛り込んだ娘さんの作品を見て、
「子どもの教材などに迷路が頻繁に登場するからこそ、
迷路の入り口は一つだけという思い込みに囚われがちなのかもしれませんね。
現実世界の洞窟探検なんて、入り口どころか出口も複数あるのがむしろ当たり前なのに。」
と感想を述べておられます。
思わず、この記事にコメントしてしまいました。
<子どもの発想はいつも「目から鱗」の面白さですね。
はさみで切る遊びも迷路もプリントで教育的に合理的に
学ばせようと思う方が増えて、
狭い思い込みに囚われている
老人のように頭の固い幼児も増産されていますが……。
きょーちゃんの迷路の作品は、「子どもの自分の時間」をじっくりのんびり幸福に……
それから一生懸命、生きている子の作品ですね。>
と。
子どもにはワークブックであれこれ教え込むより先に、世界を直に五感で味わう
時間がたっぷりないと、
匂いも味も温度も色も音も動きもあるものの
一部だけ、つまりワークブックでそこにだけ注意を向けるように
刷り込まれてしまった細部を、ひとつの機能だけで処理して
感受するように育っていきます。
すると成長するにつれ、「だるい」「つまらない」「それが?」「面白くない」「何もない」
といった言葉を連発するようになりがちです。
何度か紹介していますが、そうした思いを詩にしたことがあります。
よかったら読んでくださいね。
という詩です。
話をもとに戻しますが、すぐに注意が移ってしまう子には、
大人が知的なインプットをしたい時とか、子どもに何か質問したい時とか、子どもの世話をする時だけ
相手をするのではなく、
何気ない日常の一場面一場面を、子どもとゆったり味わう習慣をつけていくことが
お勧めです。
子どもの発見に感激したり、驚いたり、疑問を投げかけたりして、
いっしょにおしゃべりを楽むのも、
物事とよりていねいに関わる力を養うことにつながります。
(↑『ぼくまいごになったんだ』という絵本を読んで、
子どもたちとまいごの気分を味わいながら、「ママはここかな?」と探して
まわっています。)
だからこそ集団生活では困る時があるみたいで、先生方もその感覚を否定せず次の行動に移すにはどうしたら良いかと試行錯誤してくれてます。
何もない所に何か見つける、すばらしい感覚だなとは思うのですが、何でも匂ったり、触ったり、見たり、聴いたり、時には舐めてみたり、大人から見ると汚いとか危ないに繋がってしまうことも多く、肯定しているのに否定しなけれなならない矛盾で悲しくなってしまう時があります。