前回の記事の続きを書く前に、虹色教室のことについて、少し触れさせてください。
虹色教室の特徴は、ひとりひとりの子と長い期間関わることが多いことです。
1,2歳の頃出会って、それから10年あまりの年月、見守り続けることもめずらしくありません。
もうひとつの大きな特徴は、子どもとの関わり方が多岐にわたっていることです。
工作したり、実験したり、ゲームをしたり、ブロック遊びをしたり、ごっこに興じたり、算数を学んだり、お泊まりのレッスンに行ったり、それぞれの子のその時期の興味やニーズにそった活動をしたりしています。
そんなふうに、幼い頃から大人のような口をきくようになる頃まで、その子がどんな風に成長していくのか見守りながら年月を重ねるうちに、
子どもというものやそれぞれの子の個性、子どもの育ちというものに対して、深い信頼感や安心感や自然を前にして感じるような敬虔な気持ちを抱くようになりました。
というのも、どんなに今、目の前の子の問題行動が目立っていても、できないことばかりが目についても、子どもは成長の過程でそれを取り戻すかのような劇的な成長の時期が訪れたり、
個性の力で、不利な条件を利用して、他の子らが真似できないような面を大きく伸ばしたりする姿を何度も目にしてきたからです。
戸塚滝登著の『子どもの脳が学ぶとき』に、数学者のシーモア・パパートの『パパートの原理』がの一部が紹介されています。
「子どもの脳は単に知識を詰め込まれるだけでは発達できず、その知識を使うための知識(より良い方法を見つけたり、発展させたりする体験などの知識)を与えられない限り、うまく成長することはできない」という考えのことです。
子どもの脳は単に新しいスキルや知識を身に付けるだけでは成長できない。
「知識を使いこなすための知識」
「知識についての知識」を学ぶことも、
子どもの脳の発達にとってかけがえのないステップになる。
ーー『子どもの脳が学ぶとき』戸塚滝登著
この著書には、脳神経科学者、ジュディス・ラポポートとジェイ・ジードの脳スキャナーを使った脳発達の研究の話題も取り上げられています。
ララポート博士が、普通のIQの子どもたち、ややIQが高い子どもたち、最もIQが高い子どもたちの3つのグループに分けて子どもの脳発達と知能指数との関係を追跡したところ、もっとIQが高い子どもたちにだけ、奇妙な現象が見つかりました。
それは、
IQの高い子どもたちの脳ほどスロースペースで成長し、思春期がやってくるまで成長をやめなかったということです。
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虹色教室では、先に書いたように長い期間、多岐にわたる活動を通して子どもたちとかかわるため、知識を使うための知識、つまり知恵を獲得していく場面にしょっちゅう遭遇します。
また、教室では、子どもがよりよい方法を見つけたり、オリジナルアイデアをひらめいたり、問題の解決法に気づいたり、それらを繰り返しによって洗練させ、より高度なものへと発展させていけるように環境を整え、私自身や親のスキルアップに努めてもいます。
最近、10年以上続けてきたそうした活動が実を結び、思った以上の成果を得るようになったのを肌で感じています。
その一方で、新たな問題に頭を悩ませてもいます。
「教室での子どもたちとの関わり」という現場の仕事について経験知が上がるにつれて、ブログを読む不特定多数の人々に伝えることがより難しくなってきたのです。
子どもの成長のスイッチはいつどんな時、どのような条件で入るのか、子どもとの関わりでどんな点に気をつけていけばいいのか、
現場の子どもとのやり取りのなかでは正確に把握できても、それを言葉でさらっと説明すると、どうしても言葉足らずになってしまうのです。
虹色教室通信は、そうした 現場での気づきを日誌のようにつづっているものです。忙しい日は日誌というよりメモの状態でアップしています。
<補足>
断片的な日々の話題なので、もしもう少しまとまった形で読みたいという方は、
PHP研究所で、『子どもの考える力をぐっと引き出すお母さんの話し方』という本にこれまでの気づきをまとめていただいたので、
手に取ってみてください。
前置きが長くなってしまったのですが、次回は、具体的な子どもとのかかわりについて書きますね。(数日、忙しくなるので、この続きを書く前にレッスンに記事をはさむ予定です)
プロ野球のトレーニングコーチの発した言葉なのだそうですが、
“コーチとして技術的な面でレベルアップしていけばいくほど、より目には見えない精神的な面、感覚的な面での要求が高まってくる”
と言うものです。
先生は、まさにそういう世界を子どもたちと時間をともにし、1人1人を“交換不可能な個性のある存在”として過ごしているため、子どもという存在を総体的にとらえつつも、目に見えない子どもたちの深くて広くて複雑で繊細な個々の世界についての気付きをたくさん持っていると思います。それらがたくさん蓄積されると同時に、精神的、感覚的なものもどんどん研ぎすまされていっている。それを、子育てを始めたばかりの人や、子どもの才能を伸ばしたいと力を注いでいる人、子どもの凹凸に悩んでいる人、とても感覚的に繊細な人やそういう部分をあまり重く受け止めない人など、不特定多数にわかってもらおうとすることがどんなに困難なことだろうかと、とくに最近の記事をよんでいて強く感じます。
先生の身体の奥に潜む感覚的なものをどのようにわかりやすく表現するか言葉を選ぶと同時に、一つの言葉を使おうと思っても、その言葉の背景に潜むものは人それぞれであるため、色々な人の背景を思い描きながら言葉を選んでいると感じています。
とても困難な言葉を絞り出す作業というか生みの苦しみというか。私にできることがあったら!と思いますけど・・・。できることと言ったら、困難な作業に思いを馳せることと、先生の記事と対話することですね。
少し話題が変わりますが、子どもが小さかったとき、まだまだ私自身も視野が狭くて、自分を含めて人への理解が浅くて、子育てをノウハウに頼っていた時期がありました。といってもこれといった支えもなかったので、結局巷にある本を読んでみたり、他の親子を観察したり。そんなとき、子どもと行ったスーパーで、おばあさんに “この子は一生懸命やね”と声をかけられて、それまでは親子の関わりを親の視点からでしか考えていなかったということに気がつきました。それまではちょこまか動いて困るから、じっとしてくれれば良いのにくらいにしか考えていませんでした。その出来事をきっかけに“子どもは自分とは別の人格である”ということを意識するようになりました。また同時に子どもの頃の自分に出会い、子どもの頃の自分を含む今の私を意識するようになりました。そして、自分自身の深い部分を知ることと、子どもたちの目に見えない部分に共鳴することは同じことだと気付きました。
“親が子どもとの関わりの中で、自分の視野を広げ、人への理解を深めて、学ぶことへの愛情に目覚めていくなら……そうして自分自身の器量を大きく育てていくなら、自分があたえることができる最上のものを伝えていくことができるだろう。”
という言葉が以前の記事にありました。
子どもとの関わりの世界、人というものへの理解、そしてこの世界のしくみ、私も目に見えないものの世界に魅了されています。
私もこの文章が大好きです。
ふとした瞬間、頭に浮かびます。