虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

10代の子とのチグハグなやりとり 2

2022-04-24 12:58:20 | 日々思うこと 雑感

「勉強中、外へ出て行ったのは、奈緒美先生が本の話を出したからだ」というAくんの言い分に、当初はあきれるやら、おかしいやら、開いた口が塞がりませんでしたが、時間が経つにつれて、Aくんを数キロ先まで向かわせるほど熱狂させている『ガフールの勇者たち』という本が気になりだしました。 

タイトルから、ゲームやマンガを小説化したような軽い冒険ものかと思っていたのですが、読んでみると、フクロウの生態の研究を土台にして描かれている正統派の児童文学でした。わたしもすっかり『ガフールの冒険』の世界に引き込まれました。

Aくんに、『ガフールの勇者たち』の感想を伝えて、他におすすめ本がないかたずねると、『ドンキホーテ』『三銃士』『ああ無常』『精霊の守り人』の名前が上がりました。『精霊の守り人』以外は、どれも、一昨年、クリスマスプレゼントとして両親からもらった文学全集に収められている本でした。

その文学全集について、Aくんは、こんなものいらない、もっと自分が欲しいものが良かったと文句を言ったり、罵ったりしていたそうです。でも、不平を言いながら受け取ったプレゼントは、いつの間にか、Aくんの心を強く捉え、これまでで最高のプレゼントだ、とAくんが称するほどになりました。

読書の質が変わるとともに、Aくんの友達に、読書の好きな子が加わりました。これまでの友達とは異なるタイプで、面白かった本を教え合っているそうです。

 

Aくんを外のルールに従わせようと躍起になると、ルールを覚えようとも守ろうともしない困った子ではあります。将来を案じて、人との関わり方や我慢することを教えなくては、と義務感に駆られもします。

でも、時間や環境にある制約を取っ払って、Aくんという子を改めて眺めると、「面白くて魅力的な子だな、いいセンスしてるなあ」と、しみじみ思うのです。

昆虫や鉱物に夢中で、暑さも寒さもものともせず、一日中、歩き回っても平気です。工作とスポーツが好きで、自分の好きなことを極めるためには、驚くほど我慢強いのです。

友達と一緒に、泥団子を作ったり、水遊びをしたり、きれいな石を探し回ったり、自然の中で野生味のある遊び方をします。

それに、最近のAくんは、自分の頭を鍛えてくれる本をよく読むようになってきました。Aくん自身の内部からちゃんと成長が始まっている、Aくんは大丈夫、そう確信しました。

 

数日してから、わたしはAくんの算数への取り組み方が、あの日以来、ずいぶん変わったことに気づきました。

Aくんは算数が苦手ではないものの、授業をきちんと受けていない上、最近、抽象度の高い問題が増えてきたので、つまずきが生じていました。「勉強なんて、やってもしょうがない」という態度が災いして、簡単な問題は解けるようにはなっても、2段階、3段階の思考を自分で追っていくような問題は、集中が持ちませんでした。
資質は十分なのに、じっくり考え抜いて解けた時の爽快さを味わってほしいけど難しいだろうな、と思っていました。

ところが、その後の学習のレッスンで、Aくんは難しい算数の問題を選んで、自分の全力を注いでしっかり解いていたのです。その姿から、算数が面白くなってきた、本気を出せるようになってきたな、と伝わってきました。

 

保育士の今井和子さんが、著書の中で、「子どもの言動は、それを見ている大人が自らの人間性や価値観で見とめ、聞きとめるわけです」と書いておられました。

(引用 『ことばの中の子どもたち』今井和子著 P38)

今井さんの言葉を噛みしめながら、Aくんと会った後、「Aくんは大丈夫!」と確信するのは、わたしがこれまでいろんな体験をしてきて、いろんな人と出会って、いろんな本を読んで、考えて、そうしたもの全てひっくるめた自分の心を通した上でのことなんだ、と自分自身を振り返るような気持ちで考えていました。

 

ちょっと話が脱線するのですが、以前、わたしは「Aくんに救われた」と心底感じた思い出があります。

集団生活になじめない子と過ごすかけがえのない時間  でも触れたのですが、わたしは長年、物語を書いてきました。若い頃のように作家になりたいと意気込んではいないけど、趣味と呼ぶには抵抗があるという心持ちで、書くことに向き合ってきました。

二年ほど前、長編を書き上げる際、途中でリタイアしないように、三人の知人に、二、三章書き進むたびに目を通してもらって、文章のおかしな点や誤字のチェックをお願いしていました。

そのうち二方にそれぞれ小学生の男の子がいて、どちらの子も定期的に届く原稿用紙の束に興味を持ち、原稿に目を通してくれるようになりました。男の子たちの「面白い!」「早く続きが読みたい」という声に励まされたものでした。

当時、原稿を読んでくれていた子の一人がAくんでした。 Aくんは真剣に、かつ夢中になって読んでくれました。物語が山場にさしかかった時には、「話の続きが読みたいから」と大好きなイベントごとに行くのをやめて、読んでくれたことがあったほどでした。

やっとのことで書き上げた物語は、児童文学のコンテストに送ったものの、落選してしまいました。構想を練るところから入れると三年あまり、全力をその物語に注いでいただけに、わたしはすっかり意気消沈してしまいました。そんな時、お世辞抜きに夢中になって読んでくれた子どもの読者の存在が、大きな心の支えとなって、悔いを残さず、気持ちを立て直すができました。

今回、二度も待ちぼうけをくっている間、ふと、「あの時はAくんに助けられたなあ」とわたしの送った原稿用紙に顔を埋めてくれているAくんの姿が浮かびました。 Aくんが周りのことなど頓着せず、気ままであるほど、「自分の興味のないことに見向きもしないAくんが、面白がって読んでくれたのだ」と、自分の書いたものの価値が増すような気さえしてきて、「コンテストがダメだった時以来、物語を書いていないな。賞を取るのが目的じゃなくて、書くことにワクワクするから、書くのが好きだから、続けてきたんだった」と、急に気持ちが吹っ切れて、書きたいという意欲が湧いてきました。

人と人が出会うと、異なる価値観が、ぶつかったり、浸透しあったりするためか、ずっと凝り固まってた思いがゆるんだり、壁になっていたところに風穴が生じたりします。停滞していた活動が動き出したり、新たな可能性が生じることもありますね。  

難しい年頃の子との関わりでは、そうしたことが、より起こりやすいように思います。


10代の子とのやりとりがチグハグになるのは、10代の子の心が「“今・現在”にいない」からなのかもしれません。

自分の生き方、考え方を新しく作っていく渦中の子らですから。これまでの「子ども」だった自分の思い込みや、身につけてきた態度を書き変えるために、現在にいながら過去に引き戻されていたり、心が未来に飛んだりするのかな、と思います。

それに振り回されながら、大人も、自分が過去に捨ててきたものに気付いたり、未来の新しい可能性を見つけたりもするのです。



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