虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

勉強が好きになるまでのプロセス 9

2016-12-23 10:06:59 | 教育論 読者の方からのQ&A

少し前の記事に

「虹色教室でわたしがしている仕事の大半は、この『相手と自分の気持ちが強烈に迫る状態』を解除していくことと相手と自分の気持ちを強烈に味わいながらも、それを楽しみ、それによって自分のエネルギーを最大限に発揮していける状態にしていくことです。」

と書きました。

それに対して、こんな質問をいただきました。

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こちらで書かれている「強烈な感情にがんじがらめになって動けなくなる状態」のことについて、ぜひ詳しく教えていただきたいです。

「ああなんだかわかる」感覚はあるのですが、具体的にどんなことが起こっているのか、教室ではどのように解除しているのか知りたいです。

うちの下の子は、第二子なだけあり要領がいい部分もあり、普段は上の子ほど問題が見受けられないのですが、たまにこのように強烈な感情がコントロールできなくなって固まっているふしがあります。

先日は発表会で、観客の存在に圧倒されてしまい、自分でもどうしていいかわからなくなったのか、終始怒った表情で、後は横を向いたり髪をいじったりしていました。

本人はすごく本番楽しみにしていて、リハーサルはばっちりできていたので、本当は本人も笑顔で素敵な演技をしたかったはずと思うのですが。

泣きそうな気持ち、葛藤している様子が見ていて伝わってきてつらかったです。

また機会がありましたら記事にしていただけるのを楽しみにしています。

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実は質問をいただいた方はよく知っている方で、お子さんといっしょに物作りをしたり、遊んだりしたことがあります。

質問主さんの子育てのあり方を思うと、わたしがわざわざアドバイスしなくても、今のままの関わりで十分なのでは、と感じます。

生まれつき過敏な子には、思いもよらない場面で驚かされることもあるでしょうけど、経験を積むうちに和らいでいくはずです。

そうした個人的にお伝えする話とは別に、こうした場面にわたしならどう対応するかお話しますね。

 

不思議なアリスのお茶会で、いかれ帽子屋が、「何でもない日バンザイ!きみとぼくとが生まれなかった日。何でもない日、おめでとう!」と、誕生日じゃない日のお祝いをしている話を知ってる方は多いと思います。

この「特別な日」と「特別じゃない日」をひっくり返したり、「価値あるもの」と「価値のないもの」をひっくり返して話題にするのは、子ども向けの物語でよくあるパターンです。

リンドグレーンの長靴下のピッピは、学校に行かずに気ままに暮らしている小学生ですが、ある時、学校に行っている子らには夏休みや冬休みがあるのに、自分にはないことに怒って学校に抗議しに行きます。

くまのプーさんの世界でも、おバカさんばかりが暮らしているヘルムの村でも、言葉遊びのなかで、物と物が交換され、価値観がひっくり返されます。

子どもたちは、こうした言葉遊びやイメージの世界のおふざけが大好きで、それによってがんじがらめになった葛藤を解いたり、不安感をユーモアで解消したりする姿があります。

質問主さんのふたり目ちゃんの

 「本番楽しみにしていて、リハーサルはばっちりできていたので、本当は本人も笑顔で素敵な演技をしたかったはずなのに、 泣きそうな気持ちになって葛藤しているようだった」

という出来事は、過敏な子なら、どんなに適切に育てられていても、たびたび遭遇するアクシデントだと思います。

おそらく、普段の関わりがいいので、過敏さが目立たないものの、他人の視線や特殊な状況や自分自身の緊張に人一倍影響されやすい子なのだと思います。
 
ですから、こうしたアクシデント自体を避けることはできないけれど、そうしたアクシデントの後で、身近な大人がその子とどう関わるかは、次に同じような体験を迎える際の子どもの行動を左右するのではないか、と感じています。
 
 
「本番が一番大事で、本番でうまくできなかったら失敗」
 
という考えは、子どもにするとあまりにも辛い現実です。
まるで、月曜日の朝に、「日曜日はもう終わってしまって、楽しいことは全部終わり」と告げるようなものです。
 
もし、アリスのいかれ帽子屋なら、
「本番なんて、なんだ!あんな大勢の人にすてきな演技を見せるものか!もったいない。ぼくもうさぎもチェシャ猫も、本番じゃない日だけ、すばらしい演技をするよ」
と言うでしょう。
 
もしくまのプーなら、
「本番って、何だい?それは食べられるの?」とたずねるでしょう。
 
おバカの村ヘルムの長老は、
「本番で失敗したから悲しんでおるのか?
それなら、本番という言葉とリハーサルという言葉を入れ替えてしまえばいいんじゃ。
そうすれば、お前は本番で大成功して、リハーサルで失敗したことになる。
ヘルムの知恵者に解決できぬことはない。」と告げるでしょう。
 
児童文学の主人公たちは、
「まばたきする間にいいこと思いついた。
他の本番を作ろうよ。お母さんとかお姉ちゃんの前で演技する本番や、おじいちゃんやおばあちゃんたちを
集めて、椅子を並べて、舞台を作ればいい」と提案するでしょう。
 
そうした言葉遊びやイメージの世界の遊びは、
子どもの失敗の傷をいやすだけでなく、
再度、失敗したことにチャレンジしようとする勇気をもたらします。


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1 コメント

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Unknown (まめむすび)
2016-12-29 21:23:01
小1の息子がクダラナイ替え歌を延々歌っていて、げんなりして不愉快やら、面白いことを言うなあと感心するやら、私が子どもの頃から変わってないなあと感慨深い(?)やらです。でも、前向きで素敵な気持ちが詰まっている歌を、ひっくり返してめちゃくちゃにするのは、「いつも立派じゃなくても、前向きじゃなくてもいいんだ」と子どもの心を癒すことにもつながっているのかなと、今回の記事を読んで思いました。子どもってほんとにすごいな!と思います。
大人としてはあまりに悪い言葉は「使っちゃダメ」とたしなめたりしなければいけないけれど、聞いているけど聞いていないふりをするような、叱っているけれど「まったくもう」と苦笑いするような、そんな距離感も意識していたいものです。
小さいころ学校で避難訓練をしたときに「練習は本番のように、本番は練習のようにやりましょう」とよく言われたけれど、そういうのも子どもの緊張をとるいいフレーズだったんだな!と思いました。
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