具体的な支援例の前に、子どもの意欲を奪っている環境の話から。
子どもは競争させると、がんばるようになるとおっしゃる方がいます。
現実には子どもが集まれば、障害のある子も、性質が競争に合わない子もいるわけですから、
競争で負けん気を出して意欲的になる子たちというのは、
がんばってもできないために自己評価が下がっていく子たちを踏み台にして、意欲を得ているとも言えます。
友だちと競い合うと、子どもの中からやる気が引き出される一面もあります。
ただ競争は、調子が良い時は、「もっとがんばりたい!」という意欲につながりますが、
負けが続けば、全てを投げ出したくなる原因にもなります。
また、自分が参加していた競争で脱落したら、
人間としての自分の価値を低く捉えたり、
自分の将来をあきらめてしまう子もでてくるでしょう。
だから競争はダメだというのではなく、幼児や小学生には、
「物の価値の決め方や能力の評価には、
さまざまな多方面からの見方があって、
競争はそのうちのひとつにスポットライトを当ててゲームを楽しんでいるに過ぎないのよ」
ということが伝わるように努めることが大切だと感じています。
教室の通っている子たちが幼稚園に通い出すと、たちまち、「私は、絵が描けないから……」「私は楽器がひけない」「私は、~できない」と言って、
それまで喜んでしていたことへの参加を渋るようになりがちです。
最近の幼稚園はサービス満点にすることを競っているので、楽器の練習も、字の練習も、造形活動も、計算にも熱を入れているところがよくあるのです。
園で、上手下手、早い遅い、できるできないの評価にさらされてくる子たちは、どんなに得意なことがずば抜けている子たちでも、
少し他の子より遅れを取っているものがあると、それを尻込みしてしようとしなくなりがちです。
幼稚園ですから、下手でも気にせず、楽しく繰り返していれば、いろいろなことが上達していくのです。
それなのに、競争や評価が、園児の世界にまで持ち込まれているので、
小学校に入学する前に、自分に「できない子」の烙印を押してしまう子もたくさんいるのです。
競争ではないけれど、進級するタイプのスポーツや学習も、
一時的か、一方向には、子どもを効率的に伸ばしますが、
長期的に見ると、子どもの意欲を奪う元凶となっていることもあります。
教室の1年生の男の子がプールの体験教室に行ったのをきっかけに、自分から習いたがってプール教室に通い始めました。
順調に上達し、がんばっていた級に合格した後で、
その子は突然、プールに行くのをしぶるようになったそうです。
しまいに「やめたい」と言い出しました。
級に合格するのは、うれしい出来事でしょうが、
こうした進級制の教室では、合格したとたん、その喜びを味わう余裕もなく
次に目指す級が設定されてきます。
「自分はすごいな~」と感動する間もなく、
新たな場で、周囲よりできない自分に気づかされることになります。
次のレベルの練習を求める気持ちが生まれてくるまで待つことなく、
次のレベルの訓練がスタートするのです。
この子のお母さんは、「今やりたくないのなら、しばらく休んでもいいし、やめてもいいよ」と告げました。
すると、その子はしばらく考えた後、少し休んでから、またプールを続けていくことに決めたそうです。
その子のお母さんいわく「級のある習い事に入れると、親がはまってしまうことや、親の子どもの見え方が狭まって、どこまで級が進んでいるかといった表面的な部分しか見えなくなってしまいがちなのが恐い」と話しておられました。
この方はとてもしっかりしている方なので、現代の習い事が、親にも子にも嗜癖の対象となって、柔軟で広い考え方がしにくくなることを感じておられました。それをわかった上で、子どもに決断を任せたので、
その子は、最初にやりたいと思って始めたときの初心に帰ることができたのです。
スポーツにしても音楽にしても、習い事で上を目指してがんばるのはよいのですが、最近の教室は商業的になりすぎて、
そこでできあがっている世界観をいったん背負ってしまったら、
イメージするだけでヘトヘトで、他に自由に自分のやってみたいことを探求する意欲を奪い取ってしまうものも多いのです。
おかしな例ですが、たとえば、だれかを喜ばせようとして、
自分のおこずかいの全てをつぎ込んでプレゼントを買って贈ったら、
相手から「ありがとう!すごくうれしい!」と喜んでもらったところまではよかったものの、「次は●●をちょうだいね。●●をくれたら、その次は■をちょうだいね!」とニコニコしながら言われたとしたら、
複雑な気持ちになりますよね。
最近の子は、あらゆる場と、大人たちから、そんな要求を突きつけられ続けているような気持ちで、生活している子も多いのです。
幼い子の場合、自分の向上心でこうした習い事をがんばるというより、親に褒めてもらいたい一心で、自分の全ての力を親への贈り物として注ぎ込んでいる子がほとんどなのです。
それでも、何かしんどいな、苦しいなと思いながらも、
いつの間にか高いところまで進んでいけるとしたら、がまんさせてがんばらせた方が、その子のためになるのでは?
と考える方もいるでしょうね。
私も、がまんが悪いと考えているわけではないのです。
また、進級式の習い事が全て悪いと考えているわけではありません。
ただ、そうしたものが、子どもの人生や世界や学習に対するイメージをゆがめていないか、
子どもの意欲や探究心や向上心を奪っていないか注意する必要はあると思っています。
特に全体から入る映像で思考する子たちにとって、一本の決められたレール上を1ステップずつこなしていく作業ばかりしていると、
物事の本質を見抜いたり、全体から部分へさまざまな物を一度に学ぶことができるという能力を失うきっかけともなりがちです。
ひとつのことを大人が管理して、無理に伸ばせば、
その子本来の、自然にしておけば最も伸びるはずだった才能を伸ばしそびれるかもしれないのです。
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子どもは競争させると、がんばるようになるとおっしゃる方がいます。
現実には子どもが集まれば、障害のある子も、性質が競争に合わない子もいるわけですから、
競争で負けん気を出して意欲的になる子たちというのは、
がんばってもできないために自己評価が下がっていく子たちを踏み台にして、意欲を得ているとも言えます。
友だちと競い合うと、子どもの中からやる気が引き出される一面もあります。
ただ競争は、調子が良い時は、「もっとがんばりたい!」という意欲につながりますが、
負けが続けば、全てを投げ出したくなる原因にもなります。
また、自分が参加していた競争で脱落したら、
人間としての自分の価値を低く捉えたり、
自分の将来をあきらめてしまう子もでてくるでしょう。
だから競争はダメだというのではなく、幼児や小学生には、
「物の価値の決め方や能力の評価には、
さまざまな多方面からの見方があって、
競争はそのうちのひとつにスポットライトを当ててゲームを楽しんでいるに過ぎないのよ」
ということが伝わるように努めることが大切だと感じています。
教室の通っている子たちが幼稚園に通い出すと、たちまち、「私は、絵が描けないから……」「私は楽器がひけない」「私は、~できない」と言って、
それまで喜んでしていたことへの参加を渋るようになりがちです。
最近の幼稚園はサービス満点にすることを競っているので、楽器の練習も、字の練習も、造形活動も、計算にも熱を入れているところがよくあるのです。
園で、上手下手、早い遅い、できるできないの評価にさらされてくる子たちは、どんなに得意なことがずば抜けている子たちでも、
少し他の子より遅れを取っているものがあると、それを尻込みしてしようとしなくなりがちです。
幼稚園ですから、下手でも気にせず、楽しく繰り返していれば、いろいろなことが上達していくのです。
それなのに、競争や評価が、園児の世界にまで持ち込まれているので、
小学校に入学する前に、自分に「できない子」の烙印を押してしまう子もたくさんいるのです。
競争ではないけれど、進級するタイプのスポーツや学習も、
一時的か、一方向には、子どもを効率的に伸ばしますが、
長期的に見ると、子どもの意欲を奪う元凶となっていることもあります。
教室の1年生の男の子がプールの体験教室に行ったのをきっかけに、自分から習いたがってプール教室に通い始めました。
順調に上達し、がんばっていた級に合格した後で、
その子は突然、プールに行くのをしぶるようになったそうです。
しまいに「やめたい」と言い出しました。
級に合格するのは、うれしい出来事でしょうが、
こうした進級制の教室では、合格したとたん、その喜びを味わう余裕もなく
次に目指す級が設定されてきます。
「自分はすごいな~」と感動する間もなく、
新たな場で、周囲よりできない自分に気づかされることになります。
次のレベルの練習を求める気持ちが生まれてくるまで待つことなく、
次のレベルの訓練がスタートするのです。
この子のお母さんは、「今やりたくないのなら、しばらく休んでもいいし、やめてもいいよ」と告げました。
すると、その子はしばらく考えた後、少し休んでから、またプールを続けていくことに決めたそうです。
その子のお母さんいわく「級のある習い事に入れると、親がはまってしまうことや、親の子どもの見え方が狭まって、どこまで級が進んでいるかといった表面的な部分しか見えなくなってしまいがちなのが恐い」と話しておられました。
この方はとてもしっかりしている方なので、現代の習い事が、親にも子にも嗜癖の対象となって、柔軟で広い考え方がしにくくなることを感じておられました。それをわかった上で、子どもに決断を任せたので、
その子は、最初にやりたいと思って始めたときの初心に帰ることができたのです。
スポーツにしても音楽にしても、習い事で上を目指してがんばるのはよいのですが、最近の教室は商業的になりすぎて、
そこでできあがっている世界観をいったん背負ってしまったら、
イメージするだけでヘトヘトで、他に自由に自分のやってみたいことを探求する意欲を奪い取ってしまうものも多いのです。
おかしな例ですが、たとえば、だれかを喜ばせようとして、
自分のおこずかいの全てをつぎ込んでプレゼントを買って贈ったら、
相手から「ありがとう!すごくうれしい!」と喜んでもらったところまではよかったものの、「次は●●をちょうだいね。●●をくれたら、その次は■をちょうだいね!」とニコニコしながら言われたとしたら、
複雑な気持ちになりますよね。
最近の子は、あらゆる場と、大人たちから、そんな要求を突きつけられ続けているような気持ちで、生活している子も多いのです。
幼い子の場合、自分の向上心でこうした習い事をがんばるというより、親に褒めてもらいたい一心で、自分の全ての力を親への贈り物として注ぎ込んでいる子がほとんどなのです。
それでも、何かしんどいな、苦しいなと思いながらも、
いつの間にか高いところまで進んでいけるとしたら、がまんさせてがんばらせた方が、その子のためになるのでは?
と考える方もいるでしょうね。
私も、がまんが悪いと考えているわけではないのです。
また、進級式の習い事が全て悪いと考えているわけではありません。
ただ、そうしたものが、子どもの人生や世界や学習に対するイメージをゆがめていないか、
子どもの意欲や探究心や向上心を奪っていないか注意する必要はあると思っています。
特に全体から入る映像で思考する子たちにとって、一本の決められたレール上を1ステップずつこなしていく作業ばかりしていると、
物事の本質を見抜いたり、全体から部分へさまざまな物を一度に学ぶことができるという能力を失うきっかけともなりがちです。
ひとつのことを大人が管理して、無理に伸ばせば、
その子本来の、自然にしておけば最も伸びるはずだった才能を伸ばしそびれるかもしれないのです。
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「一番、字が下手~!」とからかわれたり、
かけっこや縄跳び等もいつもビリです。
「がんばっても負けが続く子」タイプで、
クラスの中の評価もかなり低いようです。
かなり悩んで、
やる気を失いかける時もあるのですが、
「何か」をきっかけに、やる気を取り戻すようです。
(「何か」は、その時その時で変わります。)
精神的に弱い子だと気になっていたのですが、
最近強い面もあることに、驚いています。
今回の記事を胸にとどめておき、
「競争」に親だけが夢中にならないように、
心がけようと思います。
未熟な子どもが一生懸命努力して目標を達成している姿を見ると、嬉しくてつい「すごいね~上手だね~」と声掛けしてしまいます。
冷静に考えてみれば、子どもが難しそうなことに挑戦して最大限の力を使っている姿や、自分を誇らしく感じているだろう表情にこそ私は共感しているのに。
我が子も一番病にかかっています。
その呪縛から解放してあげたいと思いますが、効果的な方法がわかりません。
努力の過程を丁寧に見て、進歩があった時にこそ嬉しい気持ちを共感するようにしていますが、「上手にできる=評価の対象」という図式を変えるのは、なかなか難しいことです。