King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

本来コースへ

2013年04月18日 13時30分00秒 | ジョギング
ここの所やっと走り出すのに躊躇しなくて済む気温となってきました。

これは気持ち的に楽になり、走り出して到達できるフルメタルジャケット状態にも
今まで20分以上かかっていたのが、2K程度で到達できるようになりました。

それでもペースを上げようとしたり、無理をしたりすると途端にあちこち痛みが出る
のは相変わらずです。

徐々にかつてのスピードを取り戻しつつありますが、なんかだましだましな感じです。

そこで、冬の間楽をするように開発した短絡コースを昨日はあえて使わず本来の
コースに戻しました。

これで約1.5Kの距離増加になります。

横瀬、高篠、大野原と回るのは同じですが、高篠から大野原の信号からさらに
農工まで直進して突き当りの信号から左、農工前、一中、市立病院、秩父駅、
神社、番場通り、お花畑、市役所、自宅と回るのが本来のコースで、短絡コースは
踏切から大野原駅の方に線路沿いを行って、消防署の方へ曲がり、国道手前をさらに右に行き、
宮地上野町を国道の一本手前をずっと来て北川酒店の信号までくるコースです。

こちらの方が舗装もよくもアップダウンも少ないのです。

ただ、裏道で暗くて交差点も多いという欠点もあります。

久しぶりの本来コースは大野原の信号を渡ればもう自宅まで帰るだけという
お気楽な感じですが、本来コースはここからまだ気持ちを引き締めなければ
なりません。

セメント工場の前から突き当りの信号までくると狭い歩道の暗い坂道になり、
足元は見えない中どぶ板を走ったり吹き溜まりの土の塊を踏んだり、暗い中
から突如現れる歩行者や自転車にも注意が必要で、これがずっと坂道で
せかされるように背中を押され、龍石寺入口の交差点まで下り、信号のない
割と交通量の多い交差点から一中まで登りになります。

一中の辺りから歩道があるのですが、広いこの歩道は暗くてさらにでこぼこの歩道で
走りづらいのです。

これが国道299号と交差する信号まで続き、この信号は引っかかると待ち時間が長い
信号で、渡るとすぐに歩道が切れてしまいます。

それが突如またあらわれるのですが、この歩道が細かくアップダウンがあったり
傾斜があったりとやたらと走りづらいのです。

昨日はこの辺りから後ろから何台かの自転車が接近してそのライトに照らされて
走ります。

大きな声で走りながら追いかけてくるようですが、一向に抜く気配がありません。

通常、こちらはK6分程度からK5分で走っていますから、自転車の方が早いので
後ろに付かれたら抜かされるのが普通です。

それが、ずっと付いて来て結局こちらが左折する秩父駅へ至る坂道を上るまで
ずっと後ろにいました。

さて、この坂道を登り切り、宮ノ側の郵便局の反対側に不思議なスナック『まり』
があります。

これはいつも一週間に一度くらいしか開店していなくて、それが木曜の夜遅くというのが
定番でした。それがなぜか昨日は開いていました。

かつては漢字の看板でしたが今はひらがなです。かなり息の長いスナックです。

そんな不思議な店もある秩父ですが、最近は開店してもすぐに閉店となって
しまう店が多く、人気の店はいつも混んでるけどやってるのかどうか怪しいような
店も多々あります。

秩父駅の信号を神社の方に曲がり、セブンイレブンの裏から神社わきを通り
番場通りを走ります。

パチンコ屋の前から線路の方に入り、お花畑の踏切を市役所の方に上ります。

この最後の坂を上り、国道の信号で大概待たされて自宅へ向かいます。

市街地を走るため信号待ちやら踏切やらあるのですが、店の明かりやら看板やら
に励まされます。

アップダウンの多い足元も暗く凸凹に傾斜と走りづらい道を行くとそれに
プラスする変化にも気が付き、何かと励みになる物です。

時間にしては7、8分の増加ですが、走りぬくとそれ以上の達成感です。

もう一つの影森コースは人と出会わぬ真っ暗な道で、これはまた気持ちよく
スピードに乗って走れたり、全く気分が乗らず歩きたくなったりと精神的な
状況でガラッと感じが変わるコースです。

どちらも最近は、走る人に出会うケースが増えており、さらに運転代行の
車には必ず一日に数台遭遇するので、景気がよくなっているのかと感じる
今日この頃です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中心のブレ

2013年04月18日 10時18分10秒 | 読書
『復活』は多分作家自身の贖罪のために書かれたのだろうと思います。

貴族地主階級の者の持つ者と持たざる者のこの物語は現在の格差社会を表している
とも言われますが、日本に限ってはキリスト教的教義も他人への喜捨や持たざる喜び
というのが希薄で施すとか寄付するというのが得意ではないようです。



先の大震災では多くの人が募金やボランティアをしてそんなことはないと思う方も
いると思いますが、この小説を読めば宗教的な考えのない日本人の考え方と
隣人愛が教義のキリスト教と出発点が異なることが意識されます。

この本のテーマである、自分の罪を認めて愛に目覚めてキリスト教的に生きることに
喜びを見出すというのも、所詮自分の罪を告白し、その罪から逃れたいという自分
本位な考えにより出発するものであり、カチューシャを助けるための行動やその女の
移り変わりなど体験する政治犯とのかかわりや当時のロシア社会など伝わるものは
あるものの、結局、福音の言葉に救われるという辺りに当時の世界観としての限界を
見るのです。

先日、地元音楽家のリサイタルで彼が語ったのは、科学的発展により社会から芸術まで
その視点が広がり、絵画や音楽まで変化したという説を説明してくれました。

概観すればそれはその通りなのでしょうが、こと美術史や絵画上の視点というのは
そんな簡単なことかなあという疑問をその時には思いました。

それは投影画法のように立体を奥行あるように平面上において表現する場合の変化と
世の中の中心が神から人間になり個人になり、ものの見方が相対的な史観にまで
広がり、変化したというのはやはり彼がピアニストでの見方なのだと思います。


『ピアニスト』の中の論争のように西洋文化の中で
成り立つ史観ではないかと思うのです。

日本のように八百万の神がいて物にも自然物にも神がいるとする文化で人そのものも
神であり、それを戦後否定され新たな神を必要にする人により色々なものが信じられている
現状に気持ち良くすんなりとはなじまないのです。

それに神がすべてキリスト教の前にひれ伏すと感じで展開されていることについて、神は
幸福の地から抜け出した人々により作り出されたことを知るべきだと思います。

今でも神とか宗教を持たない民族もいるのです。

今でも採取狩猟生活を送る人はより神やまじないなどを信じているという考えは
誤りです。

権力や支配を必要とした人々のみが神を必要とし、宗教でそれを広めたのです。

それでも、科学技術の発展で社会そのものが変わるということは今後も続くでしょう。

つい先日、宇宙の年齢が訂正される事件がありました。

今世紀に入り、宇宙が加速して膨張していることが解りました。

ダークマターやダークエネルギーの解明がより進み、宇宙の成り立ちや物理法則に
進展も期待されます。

そして、新たな視点が加わることもあるでしょうが、それはただ物の中心がぶれているだけ
のようにも感じられるのです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする