吉田クリニック 院長のドタバタ日記

日頃の診療にまつわることや、お知らせ、そして世の中の出来事について思うところ書いています

思い込みで無実の児童を平手打ち その5

2017年08月04日 06時09分39秒 | 日記
 昔の臨海学校のことである。遠泳が行われたが、これの参加は全員ではなく水泳能力の高い選抜メンバーだけであった。この選抜は栄誉である。それに自分も選ばれた。いくら悪ふざけの過ぎる自分でも沖の背のたたないところでの悪ふざけは命にかかわる。そんなことはわかっている。

 さて遠泳の最中であるが、隊列を組んで泳いだのであるが、自分の前の奴がふざけて「いててて、クラゲがいる」と騒ぎだした。それは嘘なのであるが、周囲が一時的にパニックになった。
 するとボートで上からみていた教師が「おい、そのあたり、うるさいぞ、ふざけて泳ぐな!」と一喝したのである。そこで隊列の横を一緒に泳いでいた体育教師が、ボートの教師にむかって「〇〇先生、ふざけているのはどの辺りですか? 吉田のあたりですかぁ~?」と聞いた。
 するとそのボートの上の教師はいいかげんにも「えっ?、吉田のあたり? よしだ・・・? はぁ、ああ、そうそう吉田で~す!」と言い放ったのである。
 するとその体育教師は「吉田!また貴様か!」と言いながらものすごい勢いで自分のほうへ泳いできたのである。そして自分は頭を押さえつけられて沈められていやというほど海水を飲まされた。
「せ、先生いっ! 違う、僕じゃな・・・ガポポポ、ハフー、ちっ違うっ」 そしてすぐ事件は終息し隊列は何事もなかったように進んだのである。

 まあ言ってしまえばこれも冤罪である。しかし教師にしてみれば真犯人がだれかなどはどうでもいいことなのである。みせしめに体罰をおこなうことで周囲に恐怖感や威圧感をあたえて集団を管理するという目的なのである。

 今の世の中なら「体罰」と「誤認」ということで両親も交えての大問題に発展するだろう。でも不思議である。まさに濡れ衣なのだが、自分にとってあの時代が一番楽しかった。社会に出てから受けた理不尽はもっとひどく、まあこの時すでに免疫をつけてもらったと思えるのだ。

思い込みで無実の児童を平手打ち その4

2017年08月03日 06時25分07秒 | 日記
 さてもう一つ上げたキーワードであるが「誤認(冤罪)」である。
 今回の事件は用具の後片付けをしなかった生徒とは無関係の生徒に体罰を加えたのである。

 また昔の話で恐縮であるが、自分が小中学校のころは「濡れ衣」で怒られたり殴られたりすることはよくあった。落ち着きがなく悪さをよくする自分はよく殴られた。でもその2割くらいは「濡れ衣」だった。
 でもしょうがない。吉田は前科があるから、今度何か起こったらまたこいつだろうと思われてもしょうがないのである。
 何か事件が起こって無関係の自分が呼ばれて「いや、先生、僕じゃな・・・」という弁明が終わるか終わらないうちに殴られていた。その直後「それでは教室に戻って宜しい」と事件は終息するのである。
 まあ疑われるような素行の悪い自分もいけないのであるが、それでも「誰かを罰してその事件は一見落着」というような終息を迎えることがよくあったのである。
 これは冤罪であるが、自分は「普段から疑われないように素行をよくしよう」というmotivationにもつながった(あまり改善しなかったが)。

 今の世の中、児童は皆優秀なのであろう。自分のような痛い思いをさせなくても、きっちり口で言えば理解し学習してくれるようなよい子たちばかりだと教育委員会は思っているのである。
 ああ、本当にいい世の中になった。嬉しい限りである。

思い込みで無実の児童を平手打ち その3

2017年08月02日 05時51分05秒 | 日記
 自分が小学校の時に体験した規範やマナーは現在とは随分異なっている。絶対的な真理であればいまだに変わるはずがないのだが何だか随分変遷してきた。
 しかし戦前の教育を受けてきた世代では、戦後すぐに180度異なった教育内容に不信感を抱いたであろう。 
 まあそこまでひどくないにしろ、昔自分が体験した教育現場という「小さなコミュニティ」の中でのマナーやルールは、今では通用しないものになっている。

 物事の道理の判断できない子供に対して一番手っ取り早い教育方法は体罰である。自分はそれを経験した。
 今では言葉できちんと説明し納得させ分からせるという手法のようだ。これは確かに子供にとっては「痛くない」のであるが分かるまでには時間のかかるものかもしれない。自分はどちらの手法がよいのかよくわからないのである。

 でも昔の教師は怖かった。威厳があり尊敬できる教師もいたが、やたら殴るだけの乱暴な教師もいた。それら教師の前では怖いのでおとなしくした。
 しかしおとなしい女教師の授業の時には静かに授業なんか聴いていなかった。自分もそうだったが子供なんて理性より感覚が勝る生き物だと思っていた。

思い込みで無実の児童を平手打ち その2

2017年08月01日 05時55分52秒 | 日記
 最近ではこのようなことがニュースになるのである。キーワードは「誤認(いわば冤罪)」と「体罰」の二つである。
 自分が小~中学生の頃、体罰は当たり前であった。もちろんおとなしくて何でも教師の言うことを聞いている生徒には体罰はない。つまり教師側からみて管理のしやすい生徒はいい生徒なのである。
 自分は当時よく殴られた。でもしょうがない。管理しにくい「可愛くない生徒」だったからである。殴られれば痛い、ならば痛くないようにするにはどう振舞ったらいいのかそこで「世の中の仕組み」を教わった。

 今どきの小中学校では体罰は絶対にいかんということである。「体罰はダメ」というのは世の中の規範というかまあ「はやりもの」みたいなルールだからしょうがないといえばしょうがない。

 昔は教師もののスポーツドラマで教師が自分の生徒を泣きながら感動的に殴っていた。今なら放送倫理規定に引っかかるであろう。
 でも「体罰厳禁」というのもまたあと数十年したら変わっているかもしれない。世の中の価値判断基準なんて真理ではなく、その時の世俗に併せた流行ものだとも思ってしまうのである。