
日記などで、普通、私は「僕は」という言い方をしない。「私は」という。後者は、その発言を出来るだけ客観的に受け止めて欲しいという願望によると思われる。私の用法によれば、「僕は」というのは極めて私的な、それだけに自己告発的なものといえる。
言うまでもなく、「私」とは曖昧な存在である。いつから私は私なのか、どこまで私は私なのか、人は自ずからそれを確定することは出来ない。
それは、他者の介在において、それも自分でも想起もしなかったものとして表象されるのだから、私は、私にとってすら「他者」であるのだ。
だとすると、私はいつ、「僕は」で始まる言葉を発することが出来るのだろうか。
私が遺言を書く時(それはそんなに遠い先ではないし、また書くとしての話だが)、それは「僕は」で始まる物語だろうか。
例えそれが、「僕は」で始まっていたとして、やはり「私は」を消去出来ない「僕は」なのではないだろうか。
「私」も「僕」もそうした主体のアンビバレンツな二重性の中に生きているなどといったらやはり衒学的な戯言なのだろう・・たぶん。

<今週の川柳もどき> 06.12.10
離縁した嫁が出戻り内輪もめ
(岐阜、佐藤ゆかりvs野田聖子)
天の声袖口辺りから聞こえ
(ここへ入れろ!)
品不足心配される段ボール
(検察や県警の使用増加)
荒らすだけ荒らし見直すイラク戦
フセインの時代の方がましだった
(米国の米国による米国のための侵略)
拉致のツケ回り回って蟹高値
(北からの入荷はなし)
秀吉が五年も早く殺される
(NHK大河ドラマで時代考証ミス)
美しい国にしようとアライグマ
(全国で激増)