六が国民学校へ入った頃、学校には忠魂碑と奉安殿というものがあった。
忠魂碑は、お国のために死んだ人たちの顕彰の碑で、奉安殿は天皇皇后のご真影(写真)と教育勅語が収められていた。
それらの前を通る時は、服装を正し、それぞれに最敬礼をしなければならないこと、ある時友人の呼び声に誘われてその礼をしなかったばかりに、見張っていた教師からビンタを食らった話は前に述べた。
六の学校は田舎だったのでこんな感じ。
ただしこれは残存するもので、当時はもっときれい。
今日は奉安殿の話である。
それらは日常は固く閉ざされていた。そして、儀式の折りのみ、主に教頭によってその扉は開けられるのだった。
ただし、その折りは、全員最敬礼であるから、その中をうかがい知ることは出来ない。勇気ある者がそっと首を伸ばそうものなら、激しい叱咤の声が飛び、慌てて亀の子のようにその首を引っ込めるのであった。
礼服に白い手袋という出で立ちの教頭は、漆塗りの箱に収められ、紫のふくさに包まれた教育勅語を恭しく押し頂くと、それを同じく礼服に白手袋の校長の待つ壇上へと運ぶ。
そこで、校長がそれを読み上げるのだが、それはまた緊張に満ちた儀式で、読み間違えたり、途中であくびやゲップなどしようものなら、たちまちにしてその首がとんだであろう。
もちろん、私たち低学年にはその意味するところなど分からず、ある種のオマジナイのようなものでしかなかった。
都会の学校では講堂の中にあった。
そして奉安殿ではなく奉安庫といわれたりした。
勅語が終わると、次いで校長の訓話である。
「昨日、△△村の○○上等兵が、南方戦線で、名誉の戦死を遂げたとの報が届いた。
○○上等兵は本校を優秀な成績で卒業され、家業の農業にいそしんでおられたのであるが、国家存亡に際し、鍬持つ手に銃を持ち替え、戦線へと赴かれたものである。
○○上等兵はその最前線に立ちよく闘い、多くの敵兵を殲滅せしめたが、敵兵の卑怯きわまりない待ち伏せ作戦に遭遇した。そこでもよく闘ったのだが多勢に無勢、ついには深手を負うこととなった。
しかし、○○上等兵はなおもひるまず、敵兵めがけて激しい突撃を繰り返したのであるが、もはやこれまでという折りには、生きて虜囚の辱めを負うことなきよう、果敢にも自決して果てたのであった。そして、ああ、その最後の言葉は『天皇陛下バンザ~イ!』だったという」
<講釈師見てきたような嘘を言い>のたぐいであるが、演技派の校長はここでグッとこみ上げるものをこらえ、胸のポケットからおもむろに白いハンカチなど出してみせるのであった。
校長の話は続く。
「かくして○○上等兵は、生きながらにして陛下の御盾となり、果てたのであるが、彼は本校の誇りとして、否、帝国軍人の鑑して、皇紀2600年余の歴史の中に深く刻み込まれるであろう。
願わくば、ここにいる小国民の皆も、らを鍛錬し、立派な帝国軍人として、陛下と大日本帝国のため、その命を投げ出して闘う日の近からんことを!
○○上等兵の死を無駄にしてはならない。それに続くのは君たちなのだ!」
私は感動していた。
自分の進むべき道は定まっている。問題は陸軍に入るか、海軍にするかであった(空軍はなかった。それぞれ、陸軍航空隊、海軍航空隊であった)。
海軍将校の白いエレガントな軍服はたまらなく魅力的であったし、かといって陸軍将校の乗馬姿も捨てがたいものがあった。
奉安殿と小国民を描いたイラスト
しかし、私の悩みも長くは続かなかった。
蝉時雨の中、チューニングの悪いラジオから、現人神の甲高い声が流れ、敗戦は確定した。
焼け出された校舎の代わりのお寺の本堂や、工場の倉庫などで、私たちはひたすら教科書に墨を塗った。
気が付くと、何人も、何人も、そして何人もの人が、そのまま還っては来なかった。
軍部の隠匿物資を闇市に流してその腹を肥やしていた連中を除いて、私たちは飢えていた。
その厳しい生活環境の中で、これからはもう戦争はよそうというのが多くの共通した願いであった。
そして、それから61年・・。
<今週の川柳もどき> 06.12.17
六〇年前に歴史が軋み出す
思い出は勅語と軍部と検閲と
三代目祖父の事業をしかと継ぐ
(基本法、省への昇格、世論統制)
早々と効力急ぐ基本法
(教員免許見直し、能力給)
収入が増えてないから使えない
(個人消費が伸びないといわれるが)
税制は強きについて弱き捨て
(企業減税、老人増税、福祉軽減)
暴れかた決してノロくはありません
(各地で猛威)
警察の不祥事もはや驚かぬ
(フン、またか)
銭金の単位狂わす大リーグ
忠魂碑は、お国のために死んだ人たちの顕彰の碑で、奉安殿は天皇皇后のご真影(写真)と教育勅語が収められていた。
それらの前を通る時は、服装を正し、それぞれに最敬礼をしなければならないこと、ある時友人の呼び声に誘われてその礼をしなかったばかりに、見張っていた教師からビンタを食らった話は前に述べた。
六の学校は田舎だったのでこんな感じ。
ただしこれは残存するもので、当時はもっときれい。
今日は奉安殿の話である。
それらは日常は固く閉ざされていた。そして、儀式の折りのみ、主に教頭によってその扉は開けられるのだった。
ただし、その折りは、全員最敬礼であるから、その中をうかがい知ることは出来ない。勇気ある者がそっと首を伸ばそうものなら、激しい叱咤の声が飛び、慌てて亀の子のようにその首を引っ込めるのであった。
礼服に白い手袋という出で立ちの教頭は、漆塗りの箱に収められ、紫のふくさに包まれた教育勅語を恭しく押し頂くと、それを同じく礼服に白手袋の校長の待つ壇上へと運ぶ。
そこで、校長がそれを読み上げるのだが、それはまた緊張に満ちた儀式で、読み間違えたり、途中であくびやゲップなどしようものなら、たちまちにしてその首がとんだであろう。
もちろん、私たち低学年にはその意味するところなど分からず、ある種のオマジナイのようなものでしかなかった。
都会の学校では講堂の中にあった。
そして奉安殿ではなく奉安庫といわれたりした。
勅語が終わると、次いで校長の訓話である。
「昨日、△△村の○○上等兵が、南方戦線で、名誉の戦死を遂げたとの報が届いた。
○○上等兵は本校を優秀な成績で卒業され、家業の農業にいそしんでおられたのであるが、国家存亡に際し、鍬持つ手に銃を持ち替え、戦線へと赴かれたものである。
○○上等兵はその最前線に立ちよく闘い、多くの敵兵を殲滅せしめたが、敵兵の卑怯きわまりない待ち伏せ作戦に遭遇した。そこでもよく闘ったのだが多勢に無勢、ついには深手を負うこととなった。
しかし、○○上等兵はなおもひるまず、敵兵めがけて激しい突撃を繰り返したのであるが、もはやこれまでという折りには、生きて虜囚の辱めを負うことなきよう、果敢にも自決して果てたのであった。そして、ああ、その最後の言葉は『天皇陛下バンザ~イ!』だったという」
<講釈師見てきたような嘘を言い>のたぐいであるが、演技派の校長はここでグッとこみ上げるものをこらえ、胸のポケットからおもむろに白いハンカチなど出してみせるのであった。
校長の話は続く。
「かくして○○上等兵は、生きながらにして陛下の御盾となり、果てたのであるが、彼は本校の誇りとして、否、帝国軍人の鑑して、皇紀2600年余の歴史の中に深く刻み込まれるであろう。
願わくば、ここにいる小国民の皆も、らを鍛錬し、立派な帝国軍人として、陛下と大日本帝国のため、その命を投げ出して闘う日の近からんことを!
○○上等兵の死を無駄にしてはならない。それに続くのは君たちなのだ!」
私は感動していた。
自分の進むべき道は定まっている。問題は陸軍に入るか、海軍にするかであった(空軍はなかった。それぞれ、陸軍航空隊、海軍航空隊であった)。
海軍将校の白いエレガントな軍服はたまらなく魅力的であったし、かといって陸軍将校の乗馬姿も捨てがたいものがあった。
奉安殿と小国民を描いたイラスト
しかし、私の悩みも長くは続かなかった。
蝉時雨の中、チューニングの悪いラジオから、現人神の甲高い声が流れ、敗戦は確定した。
焼け出された校舎の代わりのお寺の本堂や、工場の倉庫などで、私たちはひたすら教科書に墨を塗った。
気が付くと、何人も、何人も、そして何人もの人が、そのまま還っては来なかった。
軍部の隠匿物資を闇市に流してその腹を肥やしていた連中を除いて、私たちは飢えていた。
その厳しい生活環境の中で、これからはもう戦争はよそうというのが多くの共通した願いであった。
そして、それから61年・・。
<今週の川柳もどき> 06.12.17
六〇年前に歴史が軋み出す
思い出は勅語と軍部と検閲と
三代目祖父の事業をしかと継ぐ
(基本法、省への昇格、世論統制)
早々と効力急ぐ基本法
(教員免許見直し、能力給)
収入が増えてないから使えない
(個人消費が伸びないといわれるが)
税制は強きについて弱き捨て
(企業減税、老人増税、福祉軽減)
暴れかた決してノロくはありません
(各地で猛威)
警察の不祥事もはや驚かぬ
(フン、またか)
銭金の単位狂わす大リーグ