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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【お宝と比内鶏・ちょっと真面目な手紙の2】

2007-11-02 17:42:30 | ラブレター
 K

 この間は、中途半端で終わってしまって失礼した。
 正直に言うが、私自身、書くべきことがすでに分かってしまっていて、しばし、筆を休めたわけではないのだ。ここまで書いてしまって、さてどう進めるのかが僕の前に立ちはかだっているのだ。

 ひとつのキーワードは「ポスト近代」だ。
 この過程がすでに1960年代に端を発することは述べたね。それを詳しく見てみよう。

 マルクスはその主著『資本論』を書く時、その端緒に「商品」をおき、それの分析からはじめたことは周知の通りだね。その時、マルクスは、商品を使用価値と交換価値とに分けた。    
 これは分かりやすいんじゃあないかな。
 要するに、商品はそれを使ってなんぼの価値があるというのが前者で、それをお金に換えたり、他のものと交換したらなんぼのものかというのが後者だという価値の二つの側面を現したのだ。

 
 
 しかし、この一見、当たり前に見える関係は、20世紀後半をもって劇的な変化を見たのではないだろうか。
 それは言ってみれば、その頃までは、使用価値という実用性と商品とがどこかで結びついていて、商品はあくまでもなにがしか使用価値に寄り添っていたように思うのだ。
 要するに、有用なものは価値のあるものであるということだ。

 しかし、いまやそれを信じることはナイーヴなことになってしまったのではないだろうか。
 なぜなら、かつては僕らの欲望に寄り添っていた(使用価値としての)商品が、いまや、僕らの欲望それ自身を駆り立て、かつてはその使用価値における有用性などまったくなかったところにまで触手を伸ばしているからだ。
 限りなき欲望そのものの生産によるすべての交換価値化、価値の貨幣換算への一元化である。

 

 君も知っているだろうが、テレビに「お宝鑑定団」という番組がある。ここでの評価を見ていていつも思うのだが、そのお宝の特異性、じいさんや先祖が大事にしてきたり、本人がとても気に入っているというそのものへの思い入れとは関係なしに、価格が付けられる。その価格は、もちろん交換価値としてのそれである。
 ここでは、そのもの性(そのものへの思い入れなど)をきっぱりと捨象した交換価値のみが提示される(この番組を否定しているのではない)。

 僕はここに、抽象性の強化=交換価値の優位性、がクッキリ示されているように思う。そしてそれは、人間と「もの」との結びつきがもはや貨幣を媒介にして(あるいはそうしてのみ)計られるといういう意味で、「もの」の貧しさと、同時に人間の貧しさをも現しているように思うのだ

 

 もっともマルクスという人も、この過程を見通してはいた。使用価値から分離された交換価値がすべてを覆い、貨幣へと還元され、それが資本へと組み込まれる、その循環は予見済みといえばそうではあろう。

 しかし、その規模やスピードが凄いとは思わないかい。
 あらゆるものが貨幣で計られるなかで、商品の使用価値などあっさりとないがしろにされる。それが今日の偽装事件にもよく現れている。
 
 秋田の比内鶏がいい例だ。あの薫製に使われていた鶏は、一羽二、三千円する比内鶏ではなく、何と一羽二、三〇円の廃鳥(もう卵を産まなくなった鶏)だったという。あの、一見木訥そうに見える経営者のおとっつぁんが、「コストダウンのためにやりました」といっていたのは印象的だったね。要するに、廃鳥という使用価値のものを用い、「比内鶏」というレッテルで交換価値を底上げしていたのだ。
 これ程極端ではないにしろ、あらゆる偽装は、そして偽装ではないまでも、コストダウンや合理化は、多かれ少なかれこうした問題を孕むのではないだろうか。

 

 こうした趨勢は何もインチキに限られることはない。
 僕は最近、TVを見ていて、何のコマーシャルか分からないものに出っくわすことが多い。これは僕が古い人間であったり、不勉強だからといえばそれまでだが、その分からないコマーシャルというのは、その背後にある商品が見えてこないのだ。要するに何が売りたいのかが分からないのだ。
 それもその筈、そうしたコマーシャルは、背後にこれと指示できる商品がなく、ある種の金融商品のようなもの(これはまだ分かる)、情報やサービス、派遣の媒介、単なるイメージ商品などなど、それとは目に見えないあらゆる分野がいまや貨幣との交換を求めているのだ。

 商品との使用価値との乖離といえば、いわゆるブランド品というものもそうだ。
 かつてのブランドは、あそこの商品は質が高いとか、しっかりしているとか、美味しいとか、そうしたある意味で身体で感じることが出来るものだったと思う。
 しかしいまは、それ以上の付加価値を持つようで、要するに、それを使用するステイタスが貨幣に換算されるのだ。
 前に、退職する共通の友人に、ベルトか財布などの小物でも贈ろうと思って見に行ったとき、最低でも数万円を要すると知って驚いたことがあったろう。三千円以上のベルトをしたことのない僕らは、自分たちがやはり貧乏人に過ぎないことをイヤというほど思い知らされて、それを肴に飲んだことがあったっけ。

 

 これまで述べてきた実質的な使用価値から著しく乖離し、頭でっかちになってしまった交換価値の洪水、これはいわばリアルな基盤を欠いた仮想現実(バーチャル・リアリティ)ではないかということであり、それがいまや世界を覆い尽くそうとしている。
 それは同時に、ポスト産業社会とかポストフォーディズムとか言われるシステムの全世界化(後で見るように空間的にも質的にも)であり、これが広い意味でのグローバリゼーションといっていいのだろう。

 一般的には、そうした何でも交換価値へという趨勢が、いままでそうでなかった領域にも急速に拡大しつつあることで、これは地理的な意味での拡張でもあるが(隣の中国が典型)、同時に、いままで貨幣経済とは無縁であったような私たち自身の風俗習慣の中への浸透として質的な変動でもある。それらは、何も中国に限らず、全世界的に浸透しつつあり、かつ、質的な面では僕らの足下をもさらに堀り崩しつつある。

 

 こんなことは君にとっては常識であり、君だったら、もっと簡潔にして精密に語りうることだろう。
 しかし、白状するが、この手紙は君以外の読者をも想定しているので、回りっくどさは許して欲しい。

 ここで、何を言いたいかというと、ポスト近代というのは、一面、「もの」や(僕にとっては何と不要なものが多いことか)情報の過剰に取り囲まれていながら、一方ではそれらと僕らとはかえって切断されているのではないかということなのだ。
 したがって、これに僕はどう対面してゆくのかという問題があり、ここでやっと書き出しの個人史へと戻るのだが、やはり長くなりすぎたようだ。
 申し訳ないが、また筆を置いて次の機会に回したい。

 今日、子供の頃に可愛がって貰った夫妻の訃報が届いた。
 九六歳と九三歳だから年に不足はないのだが、彼らが元気だった頃に出会っているので、やはり感慨が残る。
  


コメント
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