若い人たちとの勉強会にかつての名古屋地裁・高裁(今は名古屋市市政資料館となっている)に出かけた。
この建物自体にも想い出があるのだが、それはまた改めて触れよう。
そこへの途中、名古屋城の外堀にかかる清水橋を通りかかった。
ここにさしかかった途端、半世紀も前のたわいもない想い出がどっと溢れるように湧いてきた。
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夏の雑草がなくなった石垣は石そのものが露呈していて美しい
名古屋城内にあった学生会館に、館生でもないのによくお世話になった(というより無断逗留状態)のだが、この会館には風呂がなかったため、この清水橋を渡り、明和高校と名古屋拘置所の辺りで北へ入る道路に入り、柳原通りの柳原温泉(という名の銭湯)へとよく通った。
学生会館からは結構距離があり、冬などは帰りに湯冷めするほどであったが、周辺が官庁街のため最寄りの銭湯がここだったのだ(アッ、そうだ、大津橋にも銭湯があったが、何となくこの柳原温泉の方が性に合っていたんだ)。
風呂帰りの楽しみもあった。
同じ柳原通りに、確か「パン十」(?)という食堂があって、そこが夏には生ビールを商うのだ。といって、まともな生ビールが飲める身分でもなかった。
そこで、風呂へ行く前にその店の女将に一声かけておくのだ。
「おばちゃん、頼むよ」
「よっしゃ」
これで万事通じた。
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石垣の石ってこんなに色とりどりだったのかと驚く
風呂から上がった帰途、先ほどのパン十に寄ると女将は生ビールを出してくれるのだが、これが水割り同様氷がプカプカ浮いていて、しかも泡が全くない代物であった。
どうしてそんな仕儀になるかというと、以下のような仕掛けがあったのだ。
当時の生ビールのサーバーはまだまだ原始的で、今のようにロスが少なく注ぐことがとても難しかった。そこでどうするかというと、ブクブク出過ぎた泡を竹べらで削ぎ、そこへ適量になるだけ注ぎ足すのだが、機械の調子が悪いとこれを何度も繰り返してやっと一杯の生ビールが出来上がるといった具合であった。
ところで、竹べらで削がれた方の泡であるが、泡とはいえ元はれっきとしたビールである。それらは、ビールの注ぎ口の下に置かれたトレイに元の液体に戻って溜まることとなる。本来ならもはや売り物にならず完全なロスになる筈なのだが、それにもちゃんとした需要があったのである。
そのロスをロスたらしめないのが、今でいうところの地球に優しい(?)私たちであった。
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清水橋の下のお堀跡 かつては瀬戸へ行く電車が走っていた
女将は私たちが風呂から出てくると、そのトレイに溜まって生ぬるくなったものに氷を入れて、「あいよ」といって渡してくれるのだった。
その一滴々々が風呂上がりの喉元にしみこんで実にうまかった。一滴々々と書いたが決して誇張ではない。ビールをゴクリゴクリと飲み干すなんて大それたことはとても出来る筈もなく、まさに、一滴々々というほどチビリチビリと氷が溶けるまで楽しむのだった。
もちろんタダではないが、格安であった。憶えてはいないが、おそらく定価の1、2割といったところではなかっただろうか。氷を入れてくれるのだし、それに足りないときは普通のビールを注ぎ足してもくれた。
冬などに、バイトで金が入ったときなどは大いばりで、「おばちゃん、今日は熱燗だぞ」とふんぞり返った。
アルミの燗つけ器から、コップに山なりに注いでくれたそれを、一滴もこぼすまいと口の方から出迎えに行くのだが、時折、テーブルにこぼれたりすると、それに口を付けて啜った。
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この辺りは東行きと西行きの道路の車線がやや離れている
しかし、贅沢に慣れていなかったせいで、ふんぞり返った割には肴はおでんの出来るだけ安そうな具を二品も注文するのがせいぜいであった。
酔いが足りないときには学生会館まで走って帰った。そうすると血行がよくなって、全身に酔いが回るのだ(と信じていた)。
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道路に挟まれた島のような緑地に寒椿が今を盛んと咲き誇っていた
清水橋を取り巻く風景は随分変ったが、橋そのものや、その近くの石垣には往時の風情が残っている。
それらが、「あん時のガキが、いいジジイになりやがって」と笑っているようだった。
「ああ、ジジイになったさ。生ビールだって今はゴクリゴクリ飲めるんだぞ。そりゃぁ、あの頃の味にはとてもかなわないけどな」
清水橋の上にしばし佇んでいると、こころなしか師走の風も暖かく感じられるのであった。
この建物自体にも想い出があるのだが、それはまた改めて触れよう。
そこへの途中、名古屋城の外堀にかかる清水橋を通りかかった。
ここにさしかかった途端、半世紀も前のたわいもない想い出がどっと溢れるように湧いてきた。
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夏の雑草がなくなった石垣は石そのものが露呈していて美しい
名古屋城内にあった学生会館に、館生でもないのによくお世話になった(というより無断逗留状態)のだが、この会館には風呂がなかったため、この清水橋を渡り、明和高校と名古屋拘置所の辺りで北へ入る道路に入り、柳原通りの柳原温泉(という名の銭湯)へとよく通った。
学生会館からは結構距離があり、冬などは帰りに湯冷めするほどであったが、周辺が官庁街のため最寄りの銭湯がここだったのだ(アッ、そうだ、大津橋にも銭湯があったが、何となくこの柳原温泉の方が性に合っていたんだ)。
風呂帰りの楽しみもあった。
同じ柳原通りに、確か「パン十」(?)という食堂があって、そこが夏には生ビールを商うのだ。といって、まともな生ビールが飲める身分でもなかった。
そこで、風呂へ行く前にその店の女将に一声かけておくのだ。
「おばちゃん、頼むよ」
「よっしゃ」
これで万事通じた。
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石垣の石ってこんなに色とりどりだったのかと驚く
風呂から上がった帰途、先ほどのパン十に寄ると女将は生ビールを出してくれるのだが、これが水割り同様氷がプカプカ浮いていて、しかも泡が全くない代物であった。
どうしてそんな仕儀になるかというと、以下のような仕掛けがあったのだ。
当時の生ビールのサーバーはまだまだ原始的で、今のようにロスが少なく注ぐことがとても難しかった。そこでどうするかというと、ブクブク出過ぎた泡を竹べらで削ぎ、そこへ適量になるだけ注ぎ足すのだが、機械の調子が悪いとこれを何度も繰り返してやっと一杯の生ビールが出来上がるといった具合であった。
ところで、竹べらで削がれた方の泡であるが、泡とはいえ元はれっきとしたビールである。それらは、ビールの注ぎ口の下に置かれたトレイに元の液体に戻って溜まることとなる。本来ならもはや売り物にならず完全なロスになる筈なのだが、それにもちゃんとした需要があったのである。
そのロスをロスたらしめないのが、今でいうところの地球に優しい(?)私たちであった。
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清水橋の下のお堀跡 かつては瀬戸へ行く電車が走っていた
女将は私たちが風呂から出てくると、そのトレイに溜まって生ぬるくなったものに氷を入れて、「あいよ」といって渡してくれるのだった。
その一滴々々が風呂上がりの喉元にしみこんで実にうまかった。一滴々々と書いたが決して誇張ではない。ビールをゴクリゴクリと飲み干すなんて大それたことはとても出来る筈もなく、まさに、一滴々々というほどチビリチビリと氷が溶けるまで楽しむのだった。
もちろんタダではないが、格安であった。憶えてはいないが、おそらく定価の1、2割といったところではなかっただろうか。氷を入れてくれるのだし、それに足りないときは普通のビールを注ぎ足してもくれた。
冬などに、バイトで金が入ったときなどは大いばりで、「おばちゃん、今日は熱燗だぞ」とふんぞり返った。
アルミの燗つけ器から、コップに山なりに注いでくれたそれを、一滴もこぼすまいと口の方から出迎えに行くのだが、時折、テーブルにこぼれたりすると、それに口を付けて啜った。
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この辺りは東行きと西行きの道路の車線がやや離れている
しかし、贅沢に慣れていなかったせいで、ふんぞり返った割には肴はおでんの出来るだけ安そうな具を二品も注文するのがせいぜいであった。
酔いが足りないときには学生会館まで走って帰った。そうすると血行がよくなって、全身に酔いが回るのだ(と信じていた)。
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道路に挟まれた島のような緑地に寒椿が今を盛んと咲き誇っていた
清水橋を取り巻く風景は随分変ったが、橋そのものや、その近くの石垣には往時の風情が残っている。
それらが、「あん時のガキが、いいジジイになりやがって」と笑っているようだった。
「ああ、ジジイになったさ。生ビールだって今はゴクリゴクリ飲めるんだぞ。そりゃぁ、あの頃の味にはとてもかなわないけどな」
清水橋の上にしばし佇んでいると、こころなしか師走の風も暖かく感じられるのであった。