美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」が大ヒット(シングル120万枚)したのは昭和41(1966)年のことでした。
この歌によって岐阜市の繁華街、柳ヶ瀬は全国に知られるところとなったのですが、しかし、そうした状況は追い風にはなったとはいえ、既にしてそれ以前から柳ヶ瀬は繁華な街だったのです。
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以下の写真共々、空白の行灯看板にご注目下さい
歩いての10分ほどで端から端まで行けるような地域に、1,000軒に近い商店が軒を連ね、10館近い映画館やパチンコなどの遊戯施設も賑々しく、昼は市内はもとより近郷近在から善男善女が集い、ショッピングに、娯楽にと繁栄を誇ったものでした。
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さらに凄かったのは夜の賑やかさでした。かつて、社交場といわれたグランドキャバレーがこの一帯に集中し、さらにはバーやクラブ、それらを取り巻くようにして飲食街がひしめいていました。
その安価さと気楽さが人気を呼んで、「名古屋からタクシーを飛ばしても岐阜の方が面白く値打ちに遊べる」といわれ、事実そうした客も含めて、柳ヶ瀬界隈は毎夜、一大不夜城と化すのでした。
それらの夜の街が、集団就職(岐阜は繊維二次加工の街で、主に九州方面などから縫製工が多かった)でやって来た人たちの一部が転職し、その人たちによって支えられていたことは前にも述べた通りです。
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その当時、週末など、柳ヶ瀬本通りは人と人とが肩をすり合わすことなくして歩けないほどでした。現在の新宿や心斎橋筋のような様相だったといっていいでしょう。その道を今、お買い物のママチャリがスイスイと行き交う様を見ると、まさに隔世の感があります。
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といったことで回顧談は終わりにして、現況の柳ヶ瀬を示す一端を載せてみました。一見、場末のうらぶれた商店街に見えますが、ここは柳ヶ瀬の中心からほど遠からぬ、高島屋岐阜店の南側の商店街なのです。
もっと正確に言うと、高島屋の南玄関前から左右前後を見渡した風景なのです。
注目して見ていただきたいのは、同じ規格に整えられている商店街の行灯看板です。
文字の書いてあるものとないものがありますね。文字の書かれていないもの、これはまだ書かれていないのではなく、かつて書かれていたものが消去されたものです。以前はこの空白の看板の下には、それぞれの店があったわけです。
ようするに、この空白の看板は、死んでしまった商店の墓標のようなものなのです。
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これは生きている店の行灯看板
何とももの悲しい風景ですね。
年末商戦で明々としたデパートの照明が輝くすぐ近辺がこの有様なのです。
では、このデパートが一人勝ちした結果としてこうした状況が生じたのかというとそうでもありません。
このデパートそのものが撤退の噂に常にさらされ続けているのです。
振り返れば、かつて岐阜市にも複数のデパートがありました。
ここ10年ほどの間に、それらは全て撤退したり閉店したりして、今やこの高島屋を残すのみなのです。
その高島屋が、同系列の高島屋JR名古屋店と競合してしまっているのは皮肉としかいいようがありません。岐阜・名古屋間が、JRの快速で18分という距離ですから、それも無理ないのです。
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これはなくなった店の行灯看板
ですから、こと柳ヶ瀬の場合、商店街とデパートは競合というより、かろうじて相互に共生しているといった方がいいかもしれません。ということは、このデパートが撤退したら、この商店街はさらに求心力をなくし、周辺はもっと暗くなるでしょう。
商店街の人たちは、いろいろ企画をし頑張ってはいます。
しかし、組合や発展会にとって商店数の著しい減少は深刻な問題です。組合費の減少は街のインフラともいえる諸部門の維持管理を困難にしています。そこへもってきて組合役員の1,000万円の使い込みといったことなども重なり、アーケードの破損部分の修復もままならぬと新聞は報じています。
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顧客を誘致するために敷かれた赤絨毯が目にしみるが
確かに経営の問題は「自己責任」の部分を含むでしょう。しかし、かつてのバブルの時代までは、そこそこ真面目にやっていれば、生活を維持し店を存続させるだけの収入があったのです。
それがいつの間にか真面目にやっているだけでは駄目で、同業の鼻先をかすめたり、出し抜いたりするようなことでもしないと生き残れなくなってしまったようです。
競争原理が共存原理を凌駕したというのでしょうか。
この大不況の中で、消費の冷え込みはいっそう進むでしょう。
柳ヶ瀬の灯がまた、一つ、二つ、三つと消えてゆくのが目に見えるようで心が痛みます。
かつての繁華な柳ヶ瀬の象徴であったあの「柳ヶ瀬ブルース」の最後は、まさに夜の静寂に滲み入るようにこう歌ってます。
「ああ柳ヶ瀬の 夜に泣いている」。
この歌によって岐阜市の繁華街、柳ヶ瀬は全国に知られるところとなったのですが、しかし、そうした状況は追い風にはなったとはいえ、既にしてそれ以前から柳ヶ瀬は繁華な街だったのです。
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以下の写真共々、空白の行灯看板にご注目下さい
歩いての10分ほどで端から端まで行けるような地域に、1,000軒に近い商店が軒を連ね、10館近い映画館やパチンコなどの遊戯施設も賑々しく、昼は市内はもとより近郷近在から善男善女が集い、ショッピングに、娯楽にと繁栄を誇ったものでした。
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さらに凄かったのは夜の賑やかさでした。かつて、社交場といわれたグランドキャバレーがこの一帯に集中し、さらにはバーやクラブ、それらを取り巻くようにして飲食街がひしめいていました。
その安価さと気楽さが人気を呼んで、「名古屋からタクシーを飛ばしても岐阜の方が面白く値打ちに遊べる」といわれ、事実そうした客も含めて、柳ヶ瀬界隈は毎夜、一大不夜城と化すのでした。
それらの夜の街が、集団就職(岐阜は繊維二次加工の街で、主に九州方面などから縫製工が多かった)でやって来た人たちの一部が転職し、その人たちによって支えられていたことは前にも述べた通りです。
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その当時、週末など、柳ヶ瀬本通りは人と人とが肩をすり合わすことなくして歩けないほどでした。現在の新宿や心斎橋筋のような様相だったといっていいでしょう。その道を今、お買い物のママチャリがスイスイと行き交う様を見ると、まさに隔世の感があります。
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といったことで回顧談は終わりにして、現況の柳ヶ瀬を示す一端を載せてみました。一見、場末のうらぶれた商店街に見えますが、ここは柳ヶ瀬の中心からほど遠からぬ、高島屋岐阜店の南側の商店街なのです。
もっと正確に言うと、高島屋の南玄関前から左右前後を見渡した風景なのです。
注目して見ていただきたいのは、同じ規格に整えられている商店街の行灯看板です。
文字の書いてあるものとないものがありますね。文字の書かれていないもの、これはまだ書かれていないのではなく、かつて書かれていたものが消去されたものです。以前はこの空白の看板の下には、それぞれの店があったわけです。
ようするに、この空白の看板は、死んでしまった商店の墓標のようなものなのです。
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これは生きている店の行灯看板
何とももの悲しい風景ですね。
年末商戦で明々としたデパートの照明が輝くすぐ近辺がこの有様なのです。
では、このデパートが一人勝ちした結果としてこうした状況が生じたのかというとそうでもありません。
このデパートそのものが撤退の噂に常にさらされ続けているのです。
振り返れば、かつて岐阜市にも複数のデパートがありました。
ここ10年ほどの間に、それらは全て撤退したり閉店したりして、今やこの高島屋を残すのみなのです。
その高島屋が、同系列の高島屋JR名古屋店と競合してしまっているのは皮肉としかいいようがありません。岐阜・名古屋間が、JRの快速で18分という距離ですから、それも無理ないのです。
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これはなくなった店の行灯看板
ですから、こと柳ヶ瀬の場合、商店街とデパートは競合というより、かろうじて相互に共生しているといった方がいいかもしれません。ということは、このデパートが撤退したら、この商店街はさらに求心力をなくし、周辺はもっと暗くなるでしょう。
商店街の人たちは、いろいろ企画をし頑張ってはいます。
しかし、組合や発展会にとって商店数の著しい減少は深刻な問題です。組合費の減少は街のインフラともいえる諸部門の維持管理を困難にしています。そこへもってきて組合役員の1,000万円の使い込みといったことなども重なり、アーケードの破損部分の修復もままならぬと新聞は報じています。
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顧客を誘致するために敷かれた赤絨毯が目にしみるが
確かに経営の問題は「自己責任」の部分を含むでしょう。しかし、かつてのバブルの時代までは、そこそこ真面目にやっていれば、生活を維持し店を存続させるだけの収入があったのです。
それがいつの間にか真面目にやっているだけでは駄目で、同業の鼻先をかすめたり、出し抜いたりするようなことでもしないと生き残れなくなってしまったようです。
競争原理が共存原理を凌駕したというのでしょうか。
この大不況の中で、消費の冷え込みはいっそう進むでしょう。
柳ヶ瀬の灯がまた、一つ、二つ、三つと消えてゆくのが目に見えるようで心が痛みます。
かつての繁華な柳ヶ瀬の象徴であったあの「柳ヶ瀬ブルース」の最後は、まさに夜の静寂に滲み入るようにこう歌ってます。
「ああ柳ヶ瀬の 夜に泣いている」。