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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

自由! されどペットのように・・。

2008-12-26 03:47:30 | よしなしごと
 私は犬や猫の写真はあまり載せたことがありません。
 ひとつにはそれらを飼ってはいないということもありますが、仰々しくそれらを載せたりするのは孫自慢と同様、何か気恥ずかしくはないかと思ってしまうのです。

 もっとも、私の親しい人には、飼っている猫の名前で日記を書いている人(都合のいいときは自分が出てきます)や、年賀状の差出人は飼っている犬(柴犬3匹)で自分は同居人という人がいます。
 
 まあ、これらは「吾輩は猫である」のパロディとして笑って付き合えるのですが、つい最近のペットの恨みで厚労省幹部を殺傷するまでになると恐いものがあります。もっとも彼の場合は、ペットへの弔い合戦といわれている動機の中にもっと複雑な、例えば精神病理的なものが潜んでいるのだろうとは思うのですが。

 
            おっさん、ニャにか用かい?

 いずれにしても、ペットへの過剰な偏愛はある種の原理主義に似て不気味なものもあります。例えば、現実の世界で疎外されている分をほとんど自分の支配下にあるペットに寄託して解消しようとするのは一般的ですが、それが嵩じるとそれが他者への攻撃の拠点になったりもするようです。

 このように書いたからといって、犬や猫が嫌いなわけではありません。
 ただし、人の管理や寵愛から離れて、自然体でいる彼らが好きです。
 というわけで、犬は絶望的です。
 なぜなら彼らは社会と飼い主に徹底的に管理され、その辺で自然体でいることがもはや許されていないからです。

 
       あっちへ行って欲しいニャァ、隠れん坊してるんだから

 私の子供の頃は犬は自由でした。野良犬はもちろん、飼い犬さえもその辺をほっつき歩いていました。私が小学生の頃(ああ、60年も前だ)、夕食時になると必ず我が家へ現れる犬がいました。私の家より遙かに裕福な家に飼われていたチャメという名の犬でしたが、それを亡父がとても気に入って、食糧事情厳しい中、何かと餌になりそうなものを与えるものですから、母がたしなめしばしば喧嘩になることさえありました。

 しかし現在、犬は完全に幽閉され、繋がれるという動物としての自由な振る舞いを禁じられることによってかろうじて生存を許されているのです。

 
        ゴミあさってるんじゃニャァ ここ陽当たりがいいの    

 最近の犬は遠吠えをしないと書いたことがあります。
 私が受験勉強をしていた頃、けっこう街中に住んでいたのですが、夜更けになるとあちこちで犬の遠吠えが聞こえました。するとそれに呼応するようにすぐ隣の犬が、「わおおおおおおおおおおおおおお~ん」と声を上げるのでした。

 もはや犬の遠吠えは文化遺産ものです。もう何年も聞いたことがありません。
 犬の遠吠えがなくなる歴史は、人がまた管理される歴史に比例しているという仮説を密かに抱いているのですが、立証する手だてをもちません。しかし、犬の自由の剥奪は人間のそれと比例しているのだろうとは思っています。

 そんなことで、犬の写真は撮りません。
 しかし、猫の写真はしばしば撮ります。
 ということは、猫たちもそのほとんどが幽閉されているのですが、犬に比べると自由の度合いは高く、外出の機会もあり、また野良の生存もまだあり得るからです。

 私が撮る猫の写真は、野外の自然の中でのそれに限られます。
 家の中では見せない野生の姿をした猫が好きです。

 
上記は、ペットを飼っている人たちへの非難ではありません。
 あくまでもペットたちが生きてゆく上での一般的な条件に関する考察です。







コメント
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