母の病院へ行ってから街の中心、柳ヶ瀬へ行く用事が出来た。
ぐる~っと回ってうちまで帰るとたぶん十数キロの距離になる。梅雨の切れ目でかんかん照りだし、どうしようかと迷ったがやはり自転車で行くことにした。街中での駐車は大変だし、私のような道草小僧にとっては自転車が好都合なのだ。
母の病院から街中へは滅多に通らない道だ。それでも以前通ったことのない細い道を選び続けた。生まれて初めて通る道というのにはなにがしか感慨がある。この道を通ってから死ぬのと、通らずに死ぬのでは私の人生は異なるのではあるまいか。

なんて理屈っぽいことを考え、また実際に感じながら見知らぬ道を通っていたら、あったのだ、それが。
こんな都市郊外には珍しい瓢箪の畑があったのだ。まだ若い瓢箪たちが涼しげな色合いで並んでぶら下がっている。
若いそれらは、思ったよりも深い産毛で覆われている。
まだ花のものもあったが、そのもとにはすでに小さな瓢箪が鎮座している。
六も歩けば瓢箪に当たるだと、小躍りせんばかりにカメラに収めた。
しかし、カメラを構えながらもなにやらひっかかるものがあり、それが記憶の底でうずくのだ。
なんだったのだろう。この切なくもうら悲しさを誘う思い出は・・・。
ウッ、そうだ、あれだったのだ。
瓢箪を巡る思い出が一挙にこみ上げてきた。

もう寄り道どころではない、急いで所用を済ませ、うちへと自転車を駆った。そして、もう何年も見ていない本箱の隅の空間を開けてみた。あった、それはそこに、幾分汚れたといえ、間違いなくあったのだ。
私は生まれて一度だけ、生の瓢箪からいわゆる器としての瓢箪を作ったことがある。
細かいことは忘れたが、狭い入り口から、曲げた針金を差し入れ、根気よく実や種を取り出し、乾燥させて作る、それをやったことがあるのだ。
もう、20年近くも前だが、そのとき作った瓢箪がちゃんとあったのだ。
それだけなら「切なくもうら悲しき」もなんでもない単なる体験に過ぎない。
この話には一人の女性が絡んでいるのだ。
実はその瓢箪を持ってきて、その作り方を伝授してくれたのがその女性だったのだ。

その折り、私は居酒屋をやっていた。そして彼女は常連さんで、20年以上にわたって私の店へ通ってくれた。
彼女はキャバレーのホステスさんであった。キャバレーといっても今様のそれではなく、かつてのグランドキャバレーであった。
宮崎は延岡出身の彼女は、気っぷの良いホステスさんであったが、一方、読書家であり、かつ絵画が好きで、休日には美術館巡りが趣味であった。
そんな彼女があるとき、まだ青い瓢箪を持ってきたのだ。
「マスター、これ作らんとね。けっこう面白かよ」
といったかどうかはともかく、それをくれて、その作り方を詳しく説明してくれた。
万事、面倒くさがり屋の私だったが、これは真面目にやってみた。
その出来栄えは写真の通りである。

その彼女に乳ガンが見つかり、名古屋の病院へ入院した。
医師が、病状を説明するから身内のものに来て欲しいというのに対し、国元には姉がいるらしいのだが事情があって出てこられないという。そこで私に立ち会って欲しいという。
私は躊躇した。もちろん、彼女とは内縁関係でもなんでもない。しかし、困っているのなら行くことはいとわないが、ガンの進行状態などについて医師が私に話すというのが負担である。身内でもなんでもない私がそんな重い話を聞かされるというのは耐えられないものがある。
しかし、彼女に懇願されて、ついには折れた。
医師と私が対面することとなった。
「あのう、私は親族でも彼女と特別な仲でもなく、お話しをお伺いする資格があるのかどうか、またお伺いしてもそれに対してなんの責任も負えない立場なのですが・・」とまずは言い訳がましく切り出した。
「その点は患者さんからも伺っています。ただし、万一のことがった場合を考え、ご説明をしなければなりません。それで、必要なことは、あなたの方からお姉さんにご連絡いただけませんでしょうか」とのことだった。
病状はあまりいいものではなかった。ようするに「五分五分」だということで、それもやや悲観的だというのだ。
手術が行われた。一応は順調ににいったかに見えた。彼女ももとのように快活に振る舞っていた。
私のみが、固唾を飲む思いでそれを見ていた。

やがてよくない兆候が出始めた。
体力が落ち、疲れやすくなり、顔色も悪くなった。
彼女は、治療法が変わったからだと思いたがったが、実はすでに転移が確認されたから治療法も変わったのだった。
再び医師に呼び出された。
転移の事実を告げられ、これからは身の回りの世話もいるから、故郷へ帰ってちゃんと入院した方がいい、自分も本人や姉さんという人にいうから、あなたの方からも本人や姉さんにその旨を説得して欲しいとのことだった。
その説得が効を奏して国へ帰ることとなった。
私の店の顧客の有志と私とが引っ越しを手伝った。
はっきり言って死にに帰るようなものであった。
手紙が来た。電話もあった。
ある日電話が来て話している最中に、異様な感じになって電話が途切れた。
驚いて聞いていた宮崎の病院の番号を調べて電話をした。
電話の途中に倒れて安静中とのことだった。
翌日改めて彼女から電話があったがそのときは元気そうであった。
しばらくして病院宛に激励だかなんだか分からない手紙を書いた。
数日して、開封されないまま付箋が着いた手紙が戻ってきた。
「本人死亡につき返送します」

姉さん宛に香典を送った。
かな釘流の礼文とともに、段ボールいっぱいの野菜が送られてきた。
一周忌に花を贈った。
今度は精米前の玄米が送られてきた。
一見、ユーモラスな瓢箪も、そんなわけで私にとっては切ない思い出と連動している。
私の手元にある彼女の思い出は、写真の瓢箪と、彼女が国へ帰る際にくれた一枚の絵である。
もうひとつ、わたしが彼女にしてやれたことがあったのかも知れない。
しばしそれを自問したが、それはなくてよかったのだろうと思う。
彼女について、ドキュメンタリー風のけっこうボリュームのある文章を書いた。
読む人もいない文章だから、今も公表しないまま私の私の手元にある。
宮崎は、私にとっては東国原のあの漫画チックな世界ではない。
ちなみに彼女の源氏名は「若杉」といった。 合掌
ぐる~っと回ってうちまで帰るとたぶん十数キロの距離になる。梅雨の切れ目でかんかん照りだし、どうしようかと迷ったがやはり自転車で行くことにした。街中での駐車は大変だし、私のような道草小僧にとっては自転車が好都合なのだ。
母の病院から街中へは滅多に通らない道だ。それでも以前通ったことのない細い道を選び続けた。生まれて初めて通る道というのにはなにがしか感慨がある。この道を通ってから死ぬのと、通らずに死ぬのでは私の人生は異なるのではあるまいか。

なんて理屈っぽいことを考え、また実際に感じながら見知らぬ道を通っていたら、あったのだ、それが。
こんな都市郊外には珍しい瓢箪の畑があったのだ。まだ若い瓢箪たちが涼しげな色合いで並んでぶら下がっている。
若いそれらは、思ったよりも深い産毛で覆われている。
まだ花のものもあったが、そのもとにはすでに小さな瓢箪が鎮座している。
六も歩けば瓢箪に当たるだと、小躍りせんばかりにカメラに収めた。
しかし、カメラを構えながらもなにやらひっかかるものがあり、それが記憶の底でうずくのだ。
なんだったのだろう。この切なくもうら悲しさを誘う思い出は・・・。
ウッ、そうだ、あれだったのだ。
瓢箪を巡る思い出が一挙にこみ上げてきた。

もう寄り道どころではない、急いで所用を済ませ、うちへと自転車を駆った。そして、もう何年も見ていない本箱の隅の空間を開けてみた。あった、それはそこに、幾分汚れたといえ、間違いなくあったのだ。
私は生まれて一度だけ、生の瓢箪からいわゆる器としての瓢箪を作ったことがある。
細かいことは忘れたが、狭い入り口から、曲げた針金を差し入れ、根気よく実や種を取り出し、乾燥させて作る、それをやったことがあるのだ。
もう、20年近くも前だが、そのとき作った瓢箪がちゃんとあったのだ。
それだけなら「切なくもうら悲しき」もなんでもない単なる体験に過ぎない。
この話には一人の女性が絡んでいるのだ。
実はその瓢箪を持ってきて、その作り方を伝授してくれたのがその女性だったのだ。

その折り、私は居酒屋をやっていた。そして彼女は常連さんで、20年以上にわたって私の店へ通ってくれた。
彼女はキャバレーのホステスさんであった。キャバレーといっても今様のそれではなく、かつてのグランドキャバレーであった。
宮崎は延岡出身の彼女は、気っぷの良いホステスさんであったが、一方、読書家であり、かつ絵画が好きで、休日には美術館巡りが趣味であった。
そんな彼女があるとき、まだ青い瓢箪を持ってきたのだ。
「マスター、これ作らんとね。けっこう面白かよ」
といったかどうかはともかく、それをくれて、その作り方を詳しく説明してくれた。
万事、面倒くさがり屋の私だったが、これは真面目にやってみた。
その出来栄えは写真の通りである。

その彼女に乳ガンが見つかり、名古屋の病院へ入院した。
医師が、病状を説明するから身内のものに来て欲しいというのに対し、国元には姉がいるらしいのだが事情があって出てこられないという。そこで私に立ち会って欲しいという。
私は躊躇した。もちろん、彼女とは内縁関係でもなんでもない。しかし、困っているのなら行くことはいとわないが、ガンの進行状態などについて医師が私に話すというのが負担である。身内でもなんでもない私がそんな重い話を聞かされるというのは耐えられないものがある。
しかし、彼女に懇願されて、ついには折れた。
医師と私が対面することとなった。
「あのう、私は親族でも彼女と特別な仲でもなく、お話しをお伺いする資格があるのかどうか、またお伺いしてもそれに対してなんの責任も負えない立場なのですが・・」とまずは言い訳がましく切り出した。
「その点は患者さんからも伺っています。ただし、万一のことがった場合を考え、ご説明をしなければなりません。それで、必要なことは、あなたの方からお姉さんにご連絡いただけませんでしょうか」とのことだった。
病状はあまりいいものではなかった。ようするに「五分五分」だということで、それもやや悲観的だというのだ。
手術が行われた。一応は順調ににいったかに見えた。彼女ももとのように快活に振る舞っていた。
私のみが、固唾を飲む思いでそれを見ていた。

やがてよくない兆候が出始めた。
体力が落ち、疲れやすくなり、顔色も悪くなった。
彼女は、治療法が変わったからだと思いたがったが、実はすでに転移が確認されたから治療法も変わったのだった。
再び医師に呼び出された。
転移の事実を告げられ、これからは身の回りの世話もいるから、故郷へ帰ってちゃんと入院した方がいい、自分も本人や姉さんという人にいうから、あなたの方からも本人や姉さんにその旨を説得して欲しいとのことだった。
その説得が効を奏して国へ帰ることとなった。
私の店の顧客の有志と私とが引っ越しを手伝った。
はっきり言って死にに帰るようなものであった。
手紙が来た。電話もあった。
ある日電話が来て話している最中に、異様な感じになって電話が途切れた。
驚いて聞いていた宮崎の病院の番号を調べて電話をした。
電話の途中に倒れて安静中とのことだった。
翌日改めて彼女から電話があったがそのときは元気そうであった。
しばらくして病院宛に激励だかなんだか分からない手紙を書いた。
数日して、開封されないまま付箋が着いた手紙が戻ってきた。
「本人死亡につき返送します」

姉さん宛に香典を送った。
かな釘流の礼文とともに、段ボールいっぱいの野菜が送られてきた。
一周忌に花を贈った。
今度は精米前の玄米が送られてきた。
一見、ユーモラスな瓢箪も、そんなわけで私にとっては切ない思い出と連動している。
私の手元にある彼女の思い出は、写真の瓢箪と、彼女が国へ帰る際にくれた一枚の絵である。
もうひとつ、わたしが彼女にしてやれたことがあったのかも知れない。
しばしそれを自問したが、それはなくてよかったのだろうと思う。
彼女について、ドキュメンタリー風のけっこうボリュームのある文章を書いた。
読む人もいない文章だから、今も公表しないまま私の私の手元にある。
宮崎は、私にとっては東国原のあの漫画チックな世界ではない。
ちなみに彼女の源氏名は「若杉」といった。 合掌