これを書いているとき、あちこちの寺院から鐘の音が聞こえています。
お寺さんが撞くのみならず、一般市民も参加して撞いているようです。
「今日はなんの日?」で調べると、今日7月9日は、1955(昭和30)年、後楽園遊園地に日本で始めてジェットコースターが設置されたのを記念して「ジェットコースターの日」になっているようです。
しかし、このジェットコースターの日に、遠く離れた岐阜の地で鐘が撞かれるはずがありません。
それとは関係なく、今日は1945(昭和20)年に岐阜市が大空襲に遭った日なのです。
すでに3月10日の東京大空襲をはじめ、全国の都市部がほとんど無防備のまま、米軍の空爆に曝されていました。軍事施設や工場の被害もさることながら、木と紙と土で出来た当時の民家はあっという間に延焼し、どこの都市へ行っても、その焼け跡には鉄筋のものがわずかにその残骸をとどめているのに対し、一般の民家はブルドーザーでならしたようにすべて崩れ去っているのでした。

柳ヶ瀬付近
岐阜の街も例外ではありませんでした。
7月9日、飛来したB29など135機が、午後11時過ぎから夜半にかけて、抵抗らしい抵抗もない岐阜の上空を縦横無尽に飛び回り、街々を焼き尽くしたのでした。
結果としてこの空襲は、死者約900人、焼失した家屋20,000戸、被災者10万人(市民の約60%)という被害をもたらすものでとなりました。
こうして岐阜の街は、後日、私が目撃するように、きわめてわずかな鉄筋の建造物の残骸を除いて、大きな熊手で掻きならしたように一面の焼け野原となったのです。

徹明町付近
正直にいって、私はその頃、大垣郊外に疎開していて直接この空襲を体験してはいません。しかし、空襲警報で避難した箇所から、「ああ、岐阜が燃えている!」という大人たちの悲鳴に近い嘆きとともに、十数キロ離れた東の空が真っ赤に染まるのを見ていました。一面真っ赤な空なのですが、さらに何かが爆発炎上するのか、急にその一角がパッと明るくなったり、そのまましばらく仕掛け花火のように揺らいだりしていました。
上空で時折ぴかっと光るのは、攻撃目標を明確にするための照明弾だったと思います。
こうして、つい昨年まで私が住んでいた街が、紅蓮の炎に染まるのを見ていたのですが、その下で展開されていた地獄絵図を思い描くにはまだ幼い私ではありました。
しかし、程なくして私たち自身がそれを体験したのでした。

炎上する岐阜中心部
岐阜空襲の二十日後の7月29日、今度は私の疎開地である大垣が空襲に遭いました。私の住んでいたところは、大垣市といってもかなり郊外でしたから大丈夫だと思っていたのですが、それが甘かったのです。
近くの紡績工場が軍需工場に変身していたのを米軍はお見通しだったのです。
爆弾が、焼夷弾が私たちに襲いかかりました。
私たちの防空壕は、祖父の知恵で、竹藪の下に横穴のようにして掘られていました。結果としてこれがよかったのです。防空壕のすぐ近くの畑に1トン爆弾が落ちました。大量の土砂が防空壕を襲い、その入り口はほとんど塞がれたのですが、入り組んだ竹の根に守られた天井は若干の土砂を落下させたものの崩落することはなく、入り口の土砂を掻き分け這い出して九死に一生を得たのでした。
その折りの爆弾の跡は、直径10メートルもあろうかという大きな穴として残り、やがて底の方に水が貯まって、埋め戻す余裕が出来るまではちょっとした池の様相を呈していました。
私の疎開先の八畳一間の掘っ立て小屋は焼夷弾の飛び火でで半焼の目に遭いました。消火のための水がないというので、近くの肥だめの糞尿をかけて消したため、その強烈な匂いがしばらくは残りました。
これを専門用語で「やけくそ」というのだそうです。
大垣市の戦災記録によりますと、<全半壊家屋:約4,900戸 罹災者:約30,000人>とありますが、私も統計的にはその一角を占めているわけです。
そして、その一週間後、十日後には、この無差別爆撃は、広島、長崎への原爆投下へと至るのです。
鐘の音がまだ続いています。
こうした人類の愚行はいくら責めても責めきれないでしょうね。

現在の岐阜中心部
しかし、すべてが終了したのではありません。
今なお、世界の三分の一は戦場だといわれています。そうしたなかで、国際貢献という名の下に、日本の軍隊も公然と海外へ出る機会が増えました。
かつての戦争で、私たちは被害者であると同時に加害者であったように、またもやそうした関係のなかに捕らわれるのではという危惧もあります。
とりわけ若い世代のなかには、戦争をゲーム感覚でしか捉えることが出来ず、何かというと「ソレ行ケドンドン」と軍事的手段を煽るむきがあります。
自分たちの父祖がどのような思いで戦争に対峙し、どのような悲惨を被ったかを、あるいはどのように悲惨をもたらしたかを、その実像に立ち返って考えて欲しいものだと思います。
*モノクロの写真は「岐阜平和通信」のページからお借りしました。
なお、以前にもこれに関連した記事を掲載しています。ご参照下さい。
http://pub.ne.jp/rokumon/?cat_id=60706&page=3
お寺さんが撞くのみならず、一般市民も参加して撞いているようです。
「今日はなんの日?」で調べると、今日7月9日は、1955(昭和30)年、後楽園遊園地に日本で始めてジェットコースターが設置されたのを記念して「ジェットコースターの日」になっているようです。
しかし、このジェットコースターの日に、遠く離れた岐阜の地で鐘が撞かれるはずがありません。
それとは関係なく、今日は1945(昭和20)年に岐阜市が大空襲に遭った日なのです。
すでに3月10日の東京大空襲をはじめ、全国の都市部がほとんど無防備のまま、米軍の空爆に曝されていました。軍事施設や工場の被害もさることながら、木と紙と土で出来た当時の民家はあっという間に延焼し、どこの都市へ行っても、その焼け跡には鉄筋のものがわずかにその残骸をとどめているのに対し、一般の民家はブルドーザーでならしたようにすべて崩れ去っているのでした。

柳ヶ瀬付近
岐阜の街も例外ではありませんでした。
7月9日、飛来したB29など135機が、午後11時過ぎから夜半にかけて、抵抗らしい抵抗もない岐阜の上空を縦横無尽に飛び回り、街々を焼き尽くしたのでした。
結果としてこの空襲は、死者約900人、焼失した家屋20,000戸、被災者10万人(市民の約60%)という被害をもたらすものでとなりました。
こうして岐阜の街は、後日、私が目撃するように、きわめてわずかな鉄筋の建造物の残骸を除いて、大きな熊手で掻きならしたように一面の焼け野原となったのです。

徹明町付近
正直にいって、私はその頃、大垣郊外に疎開していて直接この空襲を体験してはいません。しかし、空襲警報で避難した箇所から、「ああ、岐阜が燃えている!」という大人たちの悲鳴に近い嘆きとともに、十数キロ離れた東の空が真っ赤に染まるのを見ていました。一面真っ赤な空なのですが、さらに何かが爆発炎上するのか、急にその一角がパッと明るくなったり、そのまましばらく仕掛け花火のように揺らいだりしていました。
上空で時折ぴかっと光るのは、攻撃目標を明確にするための照明弾だったと思います。
こうして、つい昨年まで私が住んでいた街が、紅蓮の炎に染まるのを見ていたのですが、その下で展開されていた地獄絵図を思い描くにはまだ幼い私ではありました。
しかし、程なくして私たち自身がそれを体験したのでした。

炎上する岐阜中心部
岐阜空襲の二十日後の7月29日、今度は私の疎開地である大垣が空襲に遭いました。私の住んでいたところは、大垣市といってもかなり郊外でしたから大丈夫だと思っていたのですが、それが甘かったのです。
近くの紡績工場が軍需工場に変身していたのを米軍はお見通しだったのです。
爆弾が、焼夷弾が私たちに襲いかかりました。
私たちの防空壕は、祖父の知恵で、竹藪の下に横穴のようにして掘られていました。結果としてこれがよかったのです。防空壕のすぐ近くの畑に1トン爆弾が落ちました。大量の土砂が防空壕を襲い、その入り口はほとんど塞がれたのですが、入り組んだ竹の根に守られた天井は若干の土砂を落下させたものの崩落することはなく、入り口の土砂を掻き分け這い出して九死に一生を得たのでした。
その折りの爆弾の跡は、直径10メートルもあろうかという大きな穴として残り、やがて底の方に水が貯まって、埋め戻す余裕が出来るまではちょっとした池の様相を呈していました。
私の疎開先の八畳一間の掘っ立て小屋は焼夷弾の飛び火でで半焼の目に遭いました。消火のための水がないというので、近くの肥だめの糞尿をかけて消したため、その強烈な匂いがしばらくは残りました。
これを専門用語で「やけくそ」というのだそうです。
大垣市の戦災記録によりますと、<全半壊家屋:約4,900戸 罹災者:約30,000人>とありますが、私も統計的にはその一角を占めているわけです。
そして、その一週間後、十日後には、この無差別爆撃は、広島、長崎への原爆投下へと至るのです。
鐘の音がまだ続いています。
こうした人類の愚行はいくら責めても責めきれないでしょうね。

現在の岐阜中心部
しかし、すべてが終了したのではありません。
今なお、世界の三分の一は戦場だといわれています。そうしたなかで、国際貢献という名の下に、日本の軍隊も公然と海外へ出る機会が増えました。
かつての戦争で、私たちは被害者であると同時に加害者であったように、またもやそうした関係のなかに捕らわれるのではという危惧もあります。
とりわけ若い世代のなかには、戦争をゲーム感覚でしか捉えることが出来ず、何かというと「ソレ行ケドンドン」と軍事的手段を煽るむきがあります。
自分たちの父祖がどのような思いで戦争に対峙し、どのような悲惨を被ったかを、あるいはどのように悲惨をもたらしたかを、その実像に立ち返って考えて欲しいものだと思います。
*モノクロの写真は「岐阜平和通信」のページからお借りしました。
なお、以前にもこれに関連した記事を掲載しています。ご参照下さい。
http://pub.ne.jp/rokumon/?cat_id=60706&page=3