名古屋城の北側、名城公園のなかにあるフラワープラザというところへいった。
この名城公園というところ、名古屋城内にあった旧六連帯の練兵場跡で、半世紀前、私が学生時代にはほとんど整備もされていない草むらであった。やはり名古屋城内にあった学生会館の猛者どもが、ここで捕らえたタヌキで、タヌキ汁を作って喰ったという話もあったぐらいだ。

今では公園としてすっかり整備されて、平日の昼日中なのに、ジョギングをしたり歩いたりしている人たちが結構いた。
広大な土地のなかにテニスコートやプールなどもあり、その一角のフラワープラザへ出かけたわけだが、残念ながら花を見に行ったのではない。
そこにある建物の中でのある集まりに出かけたのだ。
従って、花の写真は、公園入り口からそこへ行き着くまでのものである。

西洋風蝶草(せいようふうちょうそう)=クレオメという花
花はろくすっぽ見なかったが、その代わり、目の保養になるものは見た。
その会合の出席者でもあった先輩のSさんがそのホールでボトルシップの個展を行っていたのである。

これは葉鶏頭
ボトルシップというものがあることは知っていたし、遠目では見たことがあるが、近くでまじまじと見るのははじめてである。
制作者のSさんが、出品物の傍らに置いた説明書に書いているが、はじめに「あれ?」と思い、ついで「あれ!」と思うというのはまさにその通りである。
はじめの「あれ?」はこんな狭い口の中でよくもまあという驚きであり、つぎの「あれ!」はその精巧さと美しさ、ガラス瓶のなかという静謐な箇所に実現したアナザー・ワールドへの感嘆のそれである。

そこへ、作者のSさんも現れていろいろレクチャーを聞く機会を得たのだが、私自身、大きな勘違いをしていたことに気がついた。
というのは、ボトルシップというものは、長~いピンセットのような道具を用いて瓶のなかで組み立てるのだとばかり思っていたのだがそれが大違いなのだ。なかに入っている帆船などはほとんどが瓶の外で組み立てられ、しかる後に瓶の中へと入れられるのだという。

ちょっとマッタ!と私ならずともいいたいところだろう。
瓶の口の口径より明らかに高いマストなどがどうして瓶の中に入るのかである。
Sさんの説明によればこうである。
外で組み立てる段階で、中へ入れるための方策を念頭に置き、各部分にまるでマリオネットのように糸をめぐらせ、細くしたシップを瓶の中に入れ、この糸を引っ張るとマストが立ち、これを引くと帆が広がるという具合に基本を仕上げ、しかる後にそれらの糸を細い器具の先に付けた刃物で切り取るというのだ。
なかで組み立てるのも気の遠くなるような話だが、予めなかで形状を回復させるための可動式組み立てとそれらへの糸の配分自身も決して分かりやすいものではない。
仕掛り品がひとつあって、「ここをこう引っ張ると・・・」とSさんが説明してくれたのだが、精巧なマリオネットの操作を見ているようでちんぷんかんぷんであった。

ネットで調べたら、どの世界にも悪い奴はいるもので、偽ボトルシップというものがあるのだそうである。それによれば、瓶の底を切断して出来合いのシップを入れ、巧妙にその底を接着するのだそうだ。
これなら私にも出来そうだが、よく考えたら私にはそのシップを作る能力がないのである。巧妙にガラスを接着する能力もだ。
その点、Sさんのシップはよくできている。
ディティールを省略することなく、日本丸の窓や救命ボートも精巧に再現されている。もちろん、瓶の底にはあとで接着した痕跡などはない。
感嘆することしきりである。

いってみればミニチュアのシップがが瓶の中にあるだけなのだが、それだけでも何か特殊な世界を表象しうるのはとても面白い。
考えてみたら、恣意的に世界を拡大したり縮小したりすることが出来るのは人間だけであろう。そのことによって人間は、自分の住まう世界がきわめて恣意的なものに過ぎないことを「知って」いるのだが、そのことと自分の住む世界をほんとうに相対化できることとはまた別のことのようだ。
*ボトルシップ作りは、私にとってはほとんど拷問です。
冷房がガンガン効いた部屋で(冷房は苦手なのです)ボトルシップ作りを命じられたら、それとの引き替えにあることないことたいていのことは白状してまいそうです。
この名城公園というところ、名古屋城内にあった旧六連帯の練兵場跡で、半世紀前、私が学生時代にはほとんど整備もされていない草むらであった。やはり名古屋城内にあった学生会館の猛者どもが、ここで捕らえたタヌキで、タヌキ汁を作って喰ったという話もあったぐらいだ。

今では公園としてすっかり整備されて、平日の昼日中なのに、ジョギングをしたり歩いたりしている人たちが結構いた。
広大な土地のなかにテニスコートやプールなどもあり、その一角のフラワープラザへ出かけたわけだが、残念ながら花を見に行ったのではない。
そこにある建物の中でのある集まりに出かけたのだ。
従って、花の写真は、公園入り口からそこへ行き着くまでのものである。

西洋風蝶草(せいようふうちょうそう)=クレオメという花
花はろくすっぽ見なかったが、その代わり、目の保養になるものは見た。
その会合の出席者でもあった先輩のSさんがそのホールでボトルシップの個展を行っていたのである。

これは葉鶏頭
ボトルシップというものがあることは知っていたし、遠目では見たことがあるが、近くでまじまじと見るのははじめてである。
制作者のSさんが、出品物の傍らに置いた説明書に書いているが、はじめに「あれ?」と思い、ついで「あれ!」と思うというのはまさにその通りである。
はじめの「あれ?」はこんな狭い口の中でよくもまあという驚きであり、つぎの「あれ!」はその精巧さと美しさ、ガラス瓶のなかという静謐な箇所に実現したアナザー・ワールドへの感嘆のそれである。

そこへ、作者のSさんも現れていろいろレクチャーを聞く機会を得たのだが、私自身、大きな勘違いをしていたことに気がついた。
というのは、ボトルシップというものは、長~いピンセットのような道具を用いて瓶のなかで組み立てるのだとばかり思っていたのだがそれが大違いなのだ。なかに入っている帆船などはほとんどが瓶の外で組み立てられ、しかる後に瓶の中へと入れられるのだという。

ちょっとマッタ!と私ならずともいいたいところだろう。
瓶の口の口径より明らかに高いマストなどがどうして瓶の中に入るのかである。
Sさんの説明によればこうである。
外で組み立てる段階で、中へ入れるための方策を念頭に置き、各部分にまるでマリオネットのように糸をめぐらせ、細くしたシップを瓶の中に入れ、この糸を引っ張るとマストが立ち、これを引くと帆が広がるという具合に基本を仕上げ、しかる後にそれらの糸を細い器具の先に付けた刃物で切り取るというのだ。
なかで組み立てるのも気の遠くなるような話だが、予めなかで形状を回復させるための可動式組み立てとそれらへの糸の配分自身も決して分かりやすいものではない。
仕掛り品がひとつあって、「ここをこう引っ張ると・・・」とSさんが説明してくれたのだが、精巧なマリオネットの操作を見ているようでちんぷんかんぷんであった。

ネットで調べたら、どの世界にも悪い奴はいるもので、偽ボトルシップというものがあるのだそうである。それによれば、瓶の底を切断して出来合いのシップを入れ、巧妙にその底を接着するのだそうだ。
これなら私にも出来そうだが、よく考えたら私にはそのシップを作る能力がないのである。巧妙にガラスを接着する能力もだ。
その点、Sさんのシップはよくできている。
ディティールを省略することなく、日本丸の窓や救命ボートも精巧に再現されている。もちろん、瓶の底にはあとで接着した痕跡などはない。
感嘆することしきりである。

いってみればミニチュアのシップがが瓶の中にあるだけなのだが、それだけでも何か特殊な世界を表象しうるのはとても面白い。
考えてみたら、恣意的に世界を拡大したり縮小したりすることが出来るのは人間だけであろう。そのことによって人間は、自分の住まう世界がきわめて恣意的なものに過ぎないことを「知って」いるのだが、そのことと自分の住む世界をほんとうに相対化できることとはまた別のことのようだ。
*ボトルシップ作りは、私にとってはほとんど拷問です。
冷房がガンガン効いた部屋で(冷房は苦手なのです)ボトルシップ作りを命じられたら、それとの引き替えにあることないことたいていのことは白状してまいそうです。